第2幕 Noblesse Oblige(ノブレス・オブリージュ)

2-1 予期せぬ来訪者

 八月二十八日火曜日。エドワードの短い夏休みは終わりを告げ、彼はいつものように大学へ向かおうと朝食をとっていた。時刻は七時を回ったばかりなのだが、突如玄関のドアノッカーが気忙しげに鳴る。


「はい、ただいま! こんな時間にいったい誰が……」


 執事は不審に思いながらも、慌ててドアを開けた。目の前に立っていた二人の男たちからは威圧的な雰囲気が醸し出され、うち一人はお世辞にも人相のいい顔とは言えないものだった。


「エドワード・マイヤーはいるか?」

「……失礼ですが、あなた方は?」


 執事は、彼らの顔を真正面から睨みつけ、警戒心をあらわにした。


「ん? 警戒させちまったか。俺たちは、ロンドン警視庁スコットランド・ヤードの者だ」

「け、警察⁉ 警察の方が、エドワード様に何のご御用で?」


 執事は驚きの声を上げたが、すぐに取り繕った様子で尋ねた。


 すると、今度は若い方の男が、

「私たちはエドワード様にお願いがあってこちらを訪ねました。突然お邪魔して申し訳ありませんが、屋敷の中へ通していただけないでしょうか?」


「……お待ちください」


 執事は一旦ドアを閉め、血相を変えた様子でエドワードの元へやって来た。


「エドワード様!」

「どうしました? そんなに慌てて」


 事情を知らないエドワードは紅茶を口に含み、吞気に新聞のページをめくる。


「警察の方がお見えになっています!」


 エドワードは、口に含んでいた紅茶を吹き出すのをどうにかこらえて飲み込んだ。


「警察⁉ しかも、こんな朝早くから?」

「屋敷の中に入りたいとおっしゃっていますが、いかが致しましょう」

「どうもこうも……これから僕は大学に行かなくてはならないし。かと言って、追い返すわけにもいかないだろうな」

「何の騒ぎだ?」


 騒ぎを聞きつけたジェームズが二階から下りてくる。


「兄さん」

「ジェームズ様! それが……警察の方がエドワード様にお願いがあるとおっしゃっていまして」


 執事の言葉を聞いたジェームズは、苦虫を嚙み潰したような顔でエドワードを見た。


「警察だって? エドワード、お前……何かやらかしたか?」

「そんな! 僕は何も……」


 ジェームズは大きな溜息をもらした。


「相手が警察なら追い返すわけにもいくまい。いったんお通ししろ。その上で、夕方にもう一度来てもらえばいい」

「かしこまりました」


 執事は、慌てて玄関の方へと戻っていく。

 まもなく、二人の男がリビングルームに入ってきた。二人のうち若い男の方が、エドワードとジェームズに向かって敬礼をする。


「突然お邪魔してすみません。こちらはギルバート・ホワード警部、私はアルフレッド・ケリーと言います」

「おはようございます。朝からお勤めご苦労様です。しかしながら、僕はこれから大学へ行かなくてはなりませんので、可能であれば夕方にもう一度来ていただきたいのですが……」

 と、エドワードが言い終わらないうちに、

「大学には責任を持って連絡しておこう。ヤードが絡んでいるとなれば、大学もとやかく言いはしねぇさ」

 と、ホワードがぴしゃりと言い放った。


 だが、夏目と補講の約束をしている以上、今さらできなくなったというわけにはいかない。まして、自分から誘ったのだからなおさらだ。


「補講の約束を生徒にしていますので、そういうわけにもいきません」

「補講ねぇ。こっちは国の一大事だっていうのに、呑気なもんだな」


 ホワードの皮肉めいた物言いに言葉を詰まらせるエドワード。考えを巡らせ、ややあってから口を開いた。


「……仕方がありませんね。大学には、『補講は午後一時から』と伝えてください」

「すぐに電報を送るよう、伝えてきます」


 ケリーは、駆け足で屋敷の前に止めている馬車の方へ向かうと、待機していた警官に急いで電報を送るよう命じた。


「……では、ご着席ください」


 しぶしぶ告げたエドワードの隣にはジェームズ、向かいにホワードが着席し、まもなくケリーもホワードの隣に腰を下ろした。

 四人の間にただならぬ緊張感が走る。しばし無言となった後、最初にその沈黙を破ったのは、ケリーだった。


「私たちはエドワード様に捜査の協力を依頼するため、こちらへ参りました。どうか、お力添えをお願い致します」


 これに対し、斜め向かいに座るジェームズが異議を唱えた。


「ひとつ聞くが、なぜここでエドワードの名が出て来る? 捜査の協力なら、他の者に頼めばいい。エドワードは先にも言ったとおり、大学教授であって探偵ではないのだからな」

「現場に、エドワード様が居合わせたものでして。事件の重要参考人として、ご相談に上がった次第です」

「断る、と言ったら?」


 ジェームズは憮然とした表情を浮かべ、コーヒーをすすった。

 無言になったケリーの代わりに、ホワードが口を開く。


「容疑者として、署で取り調べを受けてもらう」

「何⁉」


 驚いたジェームズは、カップを手から滑らせた。カップは大きな音を立てて床で割れ、コーヒーが周囲に飛び散る。


「熱っ!」

「ジェームズ様!」


 後ろに控えていた執事が慌ててタオルを濡らし、ジェームズの靴と床を拭いた。


「すまない、大丈夫だ」


 ジェームズは、執事に下がるように手で合図をすると、その場で立ち上がる。


「協力しろと言ったのは、お前たちの方では? 断ると言った途端、その態度の変わり様は何だ? これだから、ヤードは信用ならんのだ!」

 と、激しい剣幕で言い放ち、テーブルの天板を拳で思いきり叩いた。

 これには隣のエドワードがびくりと肩を動かすが、ホワードは全く怯まない。


「容疑者が特定できない以上、アンタの弟が犯人ではないと言い切ることもできないんでな。だが、俺たちに協力すれば、容疑者から除外することを約束しよう。ヤードへの連絡を怠らなければの話だが」

「と言っても、さしたる証拠もなしにエドワードを容疑者に仕立てあげれば、お前たちの首も飛びかねまい?」


 ジェームズは、自身の首の前で人差し指を横に動かして見せた。

 ケリーはごくりと唾をのみ、歯を食いしばる仕草を見せたが、ホワードはなおも動じることなく、その場で立ち上がり、ジェームズの緑色の目をまっすぐに見据える。


「覚悟の上だ。奴を監獄にぶちこめさえすりゃ、それでいい。ヤードの威信にかけて、必ずや奴を探し出す」

「話にならんな。ヤードに抗議し、お前たちをすぐにでもクビにさせてやる! これぐらいのこと、貴族の私にとっては、何とも容易たやすいことだからな」


 睨み合う両者を目の当たりにし、嘆息するエドワード。コーヒーを口に含み、ゆっくりと飲み干してから口を開く。


「待ってください、兄さん」


 三人の視線がエドワードに集まる。

 エドワードは、持っていたコーヒーカップをテーブルの上に静かに置いた。


「僕のような者がお役に立てるか分かりませんが、あなた方に協力します」


 ジェームズは目を大きく見開き、「エドワード!」と、一喝するが、エドワードは首を横に振った。


「容疑者に仕立て上げられ、マイヤー家の顔に泥を塗るわけにはいきませんし、『高貴なる者の責務ノブレス・オブリージュ』として、お受けしようかと思います」


 ジェームズは、「……そう来たか」と、呟き嘆息する。


高貴なる者の責務ノブレス・オブリージュ?」


 ケリーが首をかしげる。


「元々フランスで生まれた言葉なのですが、財力や権力、社会的地位を保持するためには責任が伴うということをさしています。簡単に言うと、身分の高い者は、それに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるということです。戦地へ自ら赴いたり、孤児を養子にしたり、寄付をしたり……と、方法は様々ですが」


「だからヘーゼルダインの野郎、寄付で貴族に成り上がれたのか」

 と、ホワードがこぼした。


「男爵の場合は、元々爵位を持っていなかったがな。だが、なぜヤードがそんなことを知っている?」


 ジェームズの問いに対し、ケリーが答える。


「エドワードさんですよ。パブでヘーゼルダイン氏がイカサマをした時に、言い当てたんです。寄付で爵位を買った、と」


 否が応でも感じるジェームズからの刺すような視線。これにはエドワードも苦笑いを浮かべるしかなかった。

 だが、エドワードはめげずに話を続ける。


「兄さんは、本当は貴族の権力を振りかざすことなんて、はなから望んでなどいません。決して、あなた方を辞職に追い込みたいわけではない。僕のために、あえて憎まれ役を買って出ようとしているのです」


「余計なことを……」

 と、ジェームズは言いかけたが、否定はしない。


「僕は探偵ではありませんので、上手くいくかは分かりませんが、それでも宜しければ」


 エドワードの言葉を聞いたジェームズは、静かに腰を下ろした。


「アンタが大学教授だということは理解している。だが、その豊富な知識とひらめきに、事件解決への可能性を見出した。この際、結果がどうなろうと構わん。協力を願う」


 ホワードは頭を下げ、隣にいたケリーもこれに合わせた。

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