1-6 惨劇の夜

 やがて、自分たちの他に何人かの足音が聞こえてくる。遠ざかる足音と、それを追う足音。女性を襲った犯人と、それを追う警官の足音だろうか。女性は無事なのだろうか――覚悟を決めたエドワードは無我夢中で走った。

 だが、エドワードたちが到着した頃には足音が消え、辺りは再び静寂に包まれていた。

 現場にはすでに二人の警官が到着しており、女性の脈を確かめていたが、女性の体は無残にも胸を切り裂かれ、見開かれたその目は恐怖に怯えているようであった。

 その場に居合わせた全員が固唾をのんで見守る中、警官は首を横に振り、力なく答える。


「……お亡くなりになったようだ」


 カンテラに照らされた女性の遺体からは大量の血が流れている。それを見たエドワードは口に手を当て、その場から一歩、二歩と下がった。


「教授、ついて来られたのですか? どうかしましたか?」


 夏目は怪訝な顔でエドワードを見つめた。

 エドワードは肩を竦め、小声で答える。


「……実は僕、昔から血が苦手なんだ」

「今はそんなことを言っている場合ではないでしょう。と言っても、これでは私たちにできることは無さそうだな。気の毒だが、冥福を祈ることしかできない」


 夏目が目を閉じ手を合わせる横で、エドワードは目線をゆっくりと女性の顔へと向けた。


「ん? この女性……まさか、アニタさん?」

「教授の知り合いですか?」

「パブ・コンスタンスで働いていた女性だよ。店に行くと、彼女がよく出迎えをしてくれていたんだ。まさか、こんな形で会うことになるとは……おや?」


 エドワードは、遺体の近くに何かが落ちていることに気が付いた。ポケットからハンカチを取り出し、注意深く拾い上げる。


「それは?」


 夏目の声で、警官たちの視線がエドワードの方へと集まった。


「これは、何かのメモのようだね」

「アルファベット? それとも、何かのマークか?」


 エドワードと夏目は、ガス灯の明かりを頼りにメモに書かれた大きな二つの記号のようなものを注視する。


と釣鐘のようなものに、もうひとつは筆記体のmとlがくっついているように見える。mとlの方にはバツが付いているな」

「これは恐らく、星座の記号だね」


 即座に答えるエドワードに大きく目を見開く夏目。エドワードは構わず続ける。


「最初のはしし座で、もうひとつはおとめ座。二つの星座が切り替わるのは八月二十二日と二十三日。おとめ座に付いているのはチェックマークだ。つまり、おとめ座に切り替わる八月二十三日を示している。そう考えれば、つじつまが合うんじゃないかな」

「待ってください! 八月二十三日ということは、今日ではないですか⁉ ならばこれは、予告状?」

「恐らく、犯人がアニタさんにあてて送ったものだろうね。これを、彼女が予告状と受け取ったかは定かではないけど」


 二人のやり取りを見ていた警官たちが、

「そんなメモ、落ちていたか?」

「暗くて見えなかっただけだろう」

 などと口々に言うが、そのうちのひとりがわざとらしく咳払いをし、エドワードと夏目の視線を自分の方へと向けさせた。


「悪いが、そのメモをこちらに引き渡してくれ」

「もちろんです。僕たちもそろそろ帰らなくてはなりませんし」


 警官の差し出す掌の上に、エドワードは躊躇なくメモを置いた。


「被害者の女性とは顔見知りのようだな」

「彼女は、僕が行きつけにしている酒場の従業員です」

「失礼ですが、お名前は?」


 別の警官の問いに対し、エドワードは笑顔で答える。


「僕はエドワード・マイヤー。隣にいるのは、僕の教え子です。では」


 夏目は、引き続き現場検証を行う警官たちの様子を黙って見つめていたが、エドワードは夏目の背中を軽く叩き、その場から離れるよう促した。警官に別れを告げた二人は、帰宅手段となる辻馬車を探すべく、再び繁華街の方へと足を向ける。

 だが、夏目は途中何度も後ろを振り返り、落ち着きのない様子でこぼした。


「これからどうなるのでしょう」

「こういうことは、専門である彼らに任せた方がいい。それに、もたもたしていると寮の門限に遅れて、君が大目玉を食らうことになってしまうよ」


 夏目は「うっ……」と、言葉を詰まらせ、苦笑いを浮かべた。


「……確かに、そんなことで日本政府に苦情でも入れられたら、たまったものではありません。それがもとで、留学が取り消しとなったあかつきには、どのような処分が待っているか、考えただけで恐ろしい。帰国すら叶わないでしょう」

「君には大いに期待しているよ。日本政府から預かっている留学生。実を言うと、君のことは学長から聞かされていたんだ」

「学長から?」


 エドワードは笑顔で頷いた。


「日本からの留学生で、うちの編入試験で優秀な成績を修めていたことをね。うちの学生は貴族が大半で家柄には申し分ないが、その分成績の奮っていない子たちも多くてね」

「そうだったのですか。それにしても、私と同い年で教授とは……。そんなに若くしてなれるものなのですか?」

「僕の場合、飛び級だったからね」

「飛び級⁉ やはり、頭の構造が違うようだ」


「そんなことはないさ」

 と答えてから、エドワードは表情を曇らせる。

「……自分よりも年上の人たちと過ごすことが多かったせいか、これといった友達が今までできなかったんだ。恥ずかしい話だけどね。そういえば今朝、大学に行く途中で君を見かけたよ」

「私を? 途中ですれ違った記憶はありませんが……」

「馬車の中からだけどね。傘をさしている人がいて珍しいなと思ったら、どう見ても外国人で、すごく印象に残っている。日本人は皆、君みたいに背が高いのかな?」


 夏目は、首を横に振った。


「確かに私は、日本人の中でも大きい方だとは思います。しかし、イギリス人は雨の中、傘をささないで歩くとは思ってもみませんでした。正直、私の方が驚いたくらいです」

「ふふ、こんな些細なところに国民性の違いが表れるとはね……」


 まもなく、大通りへさしかかった。


「辻馬車だ」


 馬車を見つけたエドワードは、半ば小走りで馬車へと向かう。


「ウェストフォード大学の寮までお願いします」


 馭者は、シルクハットを被ったエドワードを頭の先から靴の先までまじまじと見つめ、口を開いた。


「貴族か?」

「はい、伯爵家の次男坊です」

「で? お隣さんは」


 馭者は夏目の顔を睨むように見つめた。驚いた夏目は、丸太のようにただ突っ立っていることしかできない。


「変わり者の連れは、さらに変わり者ってわけかい――め」


 馭者はそう呟いた後、「乗りな、お二人さん」と付け加えた。


「ありがとうございます」


 笑顔で答えるエドワードとは対照的に、夏目はその場で固まっていた。

 見かねたエドワードが夏目の肩を軽く叩く。

 夏目は我に返り、エドワードの顔を見つめた。


「気にすることはないよ。外国人が珍しいだけさ」


 エドワードがそう耳打ちすると、ようやく夏目もエドワードと一緒に馬車へ乗り込む。

 馭者は、すぐさま鞭を撃ち、馬車を走らせた。

 車内へ腰を下ろすと、エドワードは安堵の溜息をついた。


「すっかり遅くなってしまったね」

「しかし、イギリスに来て早々あんなことになるとは。日本で殺人事件の現場に居合わせたことなどないので」

「僕も初めてだよ。その割に君は落ち着いていたと思うけどね」

「そうはおっしゃいますが、内心穏やかではありません。犯人が早く捕まることを願うばかりですが」

「新聞でも話題になっているけど、ここ数週間女性を狙った連続殺人事件が発生しているんだ。今日のが関係あるかはわからないけどね。でも、気を付けた方が良い」

「……それは物騒な」


 夏目が嘆息する。

 まもなく馬車が止まり、エドワードは窓の外を確認した。


「大学に着いたようだ。今日のところはとりあえずゆっくり寝た方がいい。お疲れ様」


 夏目が寮の方へ向かったのを確認し、エドワードは馭者に自宅へ向かうように告げた。






 ちょうどその頃、先程の事件現場へさらに数人の警官たちが到着し、遺体の回収作業と現場の確認を行っていた。


「チッ、また犯人を取り逃がしたか……」


 男は苛立たし気にタバコを吸い始め、話を続ける。


「何か手掛かりになるようなものはあったか?」


「警部、遺体の近くにこちらのメモが。近くを通りかかった貴族風の男が発見したものですが」

「貴族風の男? 名前は聞いたか?」

「はい、エドワード・マイヤーと……」


 名前を聞いた途端、男は驚きのあまり誤ってタバコの煙を気管に入れてしまった。


「ゲホゲホゲホ……」

「だ、大丈夫ですか⁉ 警部」


 男はその場で数回深呼吸を繰り返し、やっとのことで呼吸を整える。


「……マイヤーの次男坊か!」

「警部のお知り合いですか?」

「いや、少し前に店で居合わせた。そいつ、メモを見て何か言っていなかったか?」

「星座の記号で、犯行の日を予告しているとか」


 警官の言葉を聞くや否や、男は不気味なほどに口角を上げ、目をギラギラとさせた。


「……け、警部⁉」

「こりゃ、ただの偶然ではなさそうだ」

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