砂粒は流れ星のように

皇帝ペンギン

一匹狼は鎖を外す。







 ◇





 世界は崩壊した。


 終焉は音を立てずに。

 誰かの悲鳴もなく、それは何年何十年かけてやって来た。


 そこは、自然の音だけが響く寂しい世界となった。


 砂漠化した大地の上で。

 少女は眩い星々が瞬く夜空を見上げる。


「ねえ、トーリ。私たちはずっと一緒よね?」


 黄金色の瞳。絹のような白い肌。薔薇の花弁を浮かべた薄紅色の唇。

 少女の相貌は二つとないほのど秀麗さ。だが着衣類の全てが、その美しさを否定するかのようでもあった。ボロ切れ同然のそれは、幾度も縫われた跡がうかがえる。靴には底が空き、背負う天幕付きのリュックサックは今にも内容物が破れ出てきてしまいそう。

 少女はとあるところへ向かっている道中だった。


「ねえトーリ。私以外の人間は、どこへ行ったのかしら?」


 少女は問う。

 『トーリ』と呼ばれた鳥は、関節部に歯車や骨組みを垣間見せる機械仕掛けの鳥だった。カラフルな外板――継ぎはぎだらけで、飛ぶことはできない――を持つそれは、さながら本物の鳥を模したよう。

 トーリは彼女と同じ黄金の瞳を輝かせて言う。


「トーリ ガ トモダチ トーリ ニンゲン ダヨ?」


 ふふっと少女は柔らかく笑うと、止めていた足取りを続けた。

 砂を孕んだ大地を踏み締める。重く、引き摺り込もうとするそれらに少女の足は必死に抵抗しながら。少女は着実に北へと向かっていた。


 北に何があるのか。

 それは彼女が知らない、水一面の世界。

 そう、海がある。


 砂漠化した大地の上には、子供が遊び散らかしたあとのような、散乱した建物の残骸が横たわっていた。彼女は夜、大抵それらを寝床にして眠る。そして今日も例外ではなかった。


「ああ、何だか眠いわトーリ。今日はここで眠ろうと思うの。とても安心するでしょう、ここは? 囲まれていて、焚き火の熱も反射するのだから」

「ココ セマイ セマイ」


 砂の絡んだ関節部からは、ギシギシと不恰好な音が響く。少女は閉じかけた瞳を向けて、トーリに尋ねた。


「明日も明日も歩き続ける。私はいつまで歩けばいいの?」

「アス? アサッテ? トーリ シラナイ」


 少女からの返答はない。

 



 彼女は寝息を立てて。

 焚き火の熱に抱かれながら、今日も眠る。



 ◇



 晩は明け、雲一つない快晴は変わらずやってきた。太陽と砂から反射する熱は、その小さな体の彼女をじりじりと焼くように照り付ける。だが、普段は重たげに歩く彼女の足取りは、なぜか軽やかだった。


「ふふっ、今日は何故だか体が軽いの。砂漠なんてへっちゃらに歩けるわ」

「アツイ アツイ」

「そうね。暑いわ。いつもよりもっと暑く感じる。今日は何だか変な日ね」

「カワラナイ カワラナイ」

「もうっ。全くつれないんだから、トーリったら」


 ザクザクと砂上を歩く彼女。肩に止まる機械仕掛けの鳥。相対する一人と一匹は今日も、歩き続ける。


「ああ、足が疲れたのかしら。靴を脱ぎたい気分。ねえトーリ、靴を咥えててくれないかしら。

 あ。臭いなんて言ったら、許さないわよ!」


 主の理不尽な束縛に対しても、トーリは従順であった。


 地平線に日は沈み、また昇る。毎日は変わらず、ただひたすらに歩き続けるのみ。少女は決まって、1キロ歩く毎に自身の位置を把握するために道具を取り出した。

 

 古びた地図とコンパス。

 この二つの道具だけが彼女の目指す目的地への指針だった。いや、正確にはトーリもいるのだが、その述べることと言ったら当てにならないので、その道具の内には入れないが。


 心許ない装備の中、今日も彼らは砂上を歩く。


「トーリ、あなたなんだか匂うわね。気のせいかしら。それに雨の匂いもする」

「トーリ クサクナイ クツ ノ ニオイ」


 彼女の言う通り、数刻して雨が降り始めた。雨など降らないそこでは珍しく、雨宿りの場所を探さなければならないほど。だがそれはすぐに止んだ。

 少女は建物の残骸で暖を取ることにした。


「ああ、服まで濡れてしまったわ。早く脱ぎたくなってしまう」


 少女は薄く着ていた服も脱いだ。水をたっぷりと吸った布地はとても重い。


「貴方には羽毛がないのだから良いわよね。そうでしょう、トーリ」

「ハネ ウラヤマシイ」


 今日は何故か火を起こさない少女。トーリが理由を聞くが、曖昧な返事しか返ってこなかった。火を付けずに眺めるものは、砂漠の砂と同じように輝く星々。「あれはオオカミの星座でね」「ほら流れ星!」など誤魔化すように言葉を紡ぐが、その先は続かなかった。

 彼女は観念したかのように――けれど安堵したかのように――自身の胸の内をトーリに打ち明けた。


「今日は変ね、わたし。何故だが炎を起こしたくなくなっちゃったのよ」

「ドウシテ ドウシテ」

「億劫、なのかしら。分からないわ、この気持ち。きっとトーリにも分からないわね」

「ワカル ワカル」


 彼女は優しくトーリに微笑む。


「でも、火をつけていたら、星空はこんなにも綺麗に見えなかったでしょう? 気候変動だなんて嘘みたいだわ。だって空はこんなにも美しいのだから」

「ソラ ヒロイ ヒロイ」

「ええ、広いわね。この砂漠の大地と違って」

「 ? ダイチ ハ ヒロイ ヒロイ」

「そうね。広い、わ。貴方にはきっと。私もいつか、飛んでみたいわ」


 

 


 小さな夢をぼやいた夜は明け、また朝になった。

 変わらない毎日が今日も続く。

 とは限らなかった。


 彼女が歩き始ようとしたその時、変化は陽の光と共に現れていた。


 遥か先の砂地の表面に、足首の背丈ほどもない小さな雑草が生えている。それも一部分のみではなく、視界の端まで点々と映っていた。それは小さなオアシスだけが作れるものではない。


「海、海だわ!」


 少女の心は、まだ見ぬ水の世界で満たされていた。日中休むことなく歩き続けていた彼女は、体力の温存など知らぬ顔で走ろうとしたが。


「あ、あれ? 変、ね」


 走れない。


 様々な要因が頭を掠めたが、それはどれも今の状況とは合致がいかなかった。


 物理的にうまく走れなかった。


「足首が、うまく動かないわ」

「だいじょうぶ?」

「ええ。きっと疲れたのよ。ごめんねトーリ。海はすぐ先だからもうちょっと待っててね」


 背負っていたリュックから天幕を取り出し、簡易的な避暑地を作ることにした。シーツを敷いた彼女は身を放るように仰向けになって、その目を閉じた。


 身を捩るように、彼女は悶える。身体の中から湧き出る熱は、外界のそれとは全くと比にならないと言えるほどに苦しい。


 「ごめん、トーリ。何だか私の身体がおかしいみたいで」

 

 昼間が過ぎ、夜がやってきた。辺りは暗澹とし、風の音もしない。彼女が苦悶する息遣いだけが、その砂上にポツリと浮かんでいた。




 やがて。


 少女の言葉の通り、その異変はみるみる外見の変化として現れた。


 変化が現れたのは、まず足からだった。

 彼女の足の爪は長く伸び、その足裏はおおよそ元の形ではなくなって。


 そして耳。元のそれとは思えない、凛々しい野生の耳。


 そして次に――


 たった一晩の内に、その体は。

 少女は悲しき生き物へと変貌した。




 ◇




「トーリ どこ いる?」


 思考が回ることは、もうほとんどなくなっていた。単純な言葉は話せるが、二節話すとなると、長考するか話せないかのどちらか二択となってしまうほどに。


「トーリ」


 その涼やかな声も、もう力なく。


「トーリ」


 その唇も。

 その肌も。

 その姿も。

 その体も。


「トーリ」


 そう呼ばれるものが知る彼女ではなくなっていた。


「うみ みる できない ごめん」

「ミタイ ミタイ」


 形は変わっても、その黄金色の瞳から溢れる柔らかな眼差しは変わらない。


「じゆう なりたい」

「トーリ モ トーリ モ」

「あなた なれる きっと」

「ナレナイ  ナレナイ」


 くっきりとした瞳は、柳のように柔らかく、細く、弱い。

 彼女は手を差し出し、その爪をトーリに向ける。


 そして引っ搔いた。


「ギャア ギャア」

「ごめん トーリ。 あなた じゆう なれる」


 その爪は引っ掻いたのではなく、不格好に付けられていたトーリの金属板を剥がしたのだった。舞い落ちるように剥がれた板は、雑なネジ穴や溶接跡がついていた。


「わたし とじこめて た」


 それはかせで。


「あなた は じゆう に」


 自由を奪っていたのは、彼女。


「ゆるして」


 自由を懇願していた、彼女。



 ――私もいつか、飛んでみたい。


 少女が。

 彼女が。

 人であった時に語った言葉が、ブリキの鳥の記憶回路に駆け巡る。その鳥は、もうブリキなどではなく、美しい紅の羽毛を蓄えた鳥だった。

 トーリは問う。


「ジユウ ワカラナイ  シラナイ」

「わたし も わから ない。 でも あなた なら」


 吸い込むように広がる星空の東側。星空は一直線にそってぼやけ、美しい紫や青に彩られていく。変わらない、変わることのできない囚われの朝が近づいてきたのだった。


「あさ よ もう いって」

「トーリ マダ イッショ」

「もう いい の」

「……」


 紅い鳥は喋らない。

 少女は、少女だったものは、激しい息遣いをしていた。腹から大きく身体をうねらせ、その長く白い鼻をならしながら。痛々しいほどに。


 それでも紅い鳥は、何も言わずにただ傍らに寄り添う。


「トーリ」

「トーリ ココ ココ」



「とんで」



 初めて、トーリという機械仕掛けの鳥に、感情が芽生えた。

 

 彼女と一緒に居たい。

 空を飛びたい。


 二つの相反する想いは。

 『葛藤』となって。


「ばいばい」


 その言葉を発すると、主は変わらずまた寝始めた。すぅと落ち着いた息遣い。穏やかで優しい温もり。柔らかい表情。匂い。

 

 主を見る。

 艶やかな白い体毛、長く伸びるたてがみ、凛と立つ耳、荒々しく伸びる爪と牙。


 そして未だ見ぬ、狼の瞳。


 その鳥は狼がもう以前の主ではないということを悟った。


 グリースで固まった羽をほぐし終えると、トーリは飛び立った。その紅の美しい羽を目一杯広げて帆翔はんしょうする。トーリは初めて、空と地の広さを知った。


「ばいばい」


 地平線に沿って、まばゆい光が滲みだす。夜空は青色に侵食され、やがて金色に。

 

 夜の終わり。

 朝の始まり。

 

 紅い鳥は、その光の中に溶け込んでいく。

 眼下に映る、主を残して。






 紅い鳥は、何処までも広がり続ける空を。

 白い狼は、何処かにあるという海を求めて。


 空を駆け。

 地を駆け。


 自由を探し続ける。









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