第45話 女中の回想①


 その頃りつ子は、自室に鎖で繋がれていた。妊娠が分かったばかりの頃は、「野放しにしておけば何をするかわからない」と地下に閉じ込められていた。日に日に衰弱し憔悴していくりつ子を見て、「これではあんまりだ」と母親は胸を痛めた。流産――事実は、強引な堕胎だったが――を機にりつ子の容体が急変すると、療養のために自室に連れ戻し、内密で医者に診させていた。その後も、父親が仕事で海外に行っている間だけでもと、りつ子自身の部屋に戻していた。もっとも、監禁状態はそのままだった。忌々しいものを閉じ込めるように、りつ子は部屋の中に封じられていた。

 その折、父親が予定よりも早く帰国した。急なことで、家にいた者たちには取り繕う暇がなかった。地下にりつ子がいないことを知った彼は、「誰の許可があって外に出した」「誰がそんなことをしていいと言った」と手が付けられないほど激昂した。「お前たちはいつからそんなに偉くなった」と、最初の矛先は使用人たちに向かった。叱声と暴力に耐えられず、女中は思わず「奥様が……」とこぼした。矛先はすぐにりつ子の母親へと変わる。「おやめください、旦那様!」何度も平手をうつ父親を二人がかりで止めながら、女中は心配していた。自室にいるりつ子と、そこで一緒に遊んでいるはずの妹の晴子に、この喧騒は聞こえていないだろうかと。

 晴子はまだ四つだった。八つ離れた姉のことを慕い、「ねえさま」とちょこちょこついて回るような、朗らかで、可愛らしい子だった。りつ子が自室に監禁されるようになってからも、遊びに行っては母親や使用人たちに見とがめられていた。それでも飽きずに部屋に入り、絵本を読んでとせがんだり、一緒に人形遊びやままごとをしようとした。幼い彼女なりに姉を不憫がっていたのかもしれないし、あるいは単純に姉が恋しかったのかもしれない。

 りつ子は家族に対してどこか委縮するところがあったが、妹の晴子のことだけは、受け入れて、可愛がっていたようだ。仲のいい姉妹だったと、女中は言った。

「ご帰宅の騒動が、落ち着いたかと思った頃です。夕方の、少し早い時間だったと思います。お夕飯の準備をしていたら、急に旦那様が台所に入ってきたのです。今までそんなことはなかったものですから、私はすごく驚いてしまって。ご用件を伺うと、土産を持ってきたからおやつに出してやれ、りつ子の部屋に持っていけと。クッキーにクリームの挟まれたお洒落なお菓子でした。普段はあんな風な旦那様ですけれど、やはりあんな仕打ちを不憫に思うこともあるのかしら。心の奥底ではお嬢様が可愛いのかしら。そんな風に思っていたら、旦那様はそれから、ひとつの薬包紙を取り出して、お土産にこれを入れるようにとおっしゃいました」

 毒だ、と女中は直感的に理解した。なぜそんなことを、と言えば、「余計なことは考えるな」「医者は抱き込んでいるから心配はない」と。欲しい答えはもらえなかったが、彼に食わせてもらっている以上、女中は言葉を飲み込むしかない。奉公している自分の仕送りで、実家の兄弟たちはどうにか食いつないでいる。

 何を命じられたかは、わかっているつもりだった。今となってはりつ子は、この家にとって重荷であり、負債でしかなかった。ただでさえ持たないはずのものを持って生まれた子だった。その上、十二歳の身の上で、誰ともわからない相手の子まで孕んだ。相手がどこの誰なのか、どれほど激しく問いただされ、手を上げられても、りつ子は話そうとしなかった。醜聞を恐れた父親は、娘は肺病だと言って家の中に隠していた。そしてそのまま殺してしまうつもりだ。りつ子が死んだあとは肺病が悪化したと言い、世間で子を失った親がそうであるように、悲しみを嘆くのだろう。

 焼き菓子のひとつ、クリームの中に毒を入れ、何も入れてないものも含めて数個皿に並べた。あとは持っていくだけのところになって、女中は尻込みしていた。台所から出られないでいるうちに、また来客があった。ひょっこりと頭を出す小さな影。――晴子だった。

「あ、それおやつでしょう?」

 晴子は目を輝かせながら、手を伸ばそうとする。血の気の引く思いで、女中は皿をテーブルの真ん中に引き下げる。

「そうですよ。お仕事先から、旦那様が買ってきてくださったんです。あとでお紅茶と一緒にお部屋に持っていきますから、晴子様はお部屋に戻っていてくださいね」

「ねえさまと一緒に食べてもいい? 待ちきれない。すっかりお腹がすいちゃったの。これ、持って行ってもいいでしょう? ねえ、だめ?」

 晴子がこんな風におやつを持っていこうとすることは、今までに何度となくあった。家の中で疎外されつつあるりつ子には、三度の食事を持っていくだけで、おやつを持っていくことすら最初はしていなかった。けれど、晴子にだけおやつを用意していても、晴子は必ずそれを姉の部屋に持っていき、一緒に食べたがった。

「思えば、りつ子様と晴子様は、こういったところがすごく似ておいででした。――まだ晴子様が生まれる前、りつ子様も、よく私をおやつに招いてくださったんです。少し休んで、一緒に食べましょうよって。そんなわけには参りませんと言うと、とても悲しそうな顔をするんです。一度ご一緒して、奥様に叱られてしまったときは、『私が我儘を言ってお願いしたの』と、前に出て私をかばってくださいました。……優しい子でした」

 声音の中には、少しの後悔と涙が滲んでいた。

「あの時、本当は、晴子様を何が何でもお止めするべきだったのかもしれません。……いえ、お暇を出されても、毒を入れるなんてことをするべきではなかった」

 その時女中を動かしていたのは、ひとえに保身だけだった。あまり渋っては怪訝に思われるかもしれない。そう思った女中は、迷った末に、皿を晴子に手渡した。それはお姉様の分ですよ、晴子様の分はあとで持っていきますから、食べてはいけませんからね。女中はその時、何度も念を押した。

「うん、わかってるわ!」

 ちっともわかっていなさそうな顔で晴子は言って、皿を手に台所を出ていった。弾むような足取り。

 元気な晴子を見たのは、それが最後だった。

 あの皿を晴子の手に委ねてしまったことが、女中には恐ろしかったが、同時にどこかほっとしていた。死に直接関わることを避けられたから、だけではない。あの頃、りつ子は笑顔どころか、人間らしい表情を見せることもほとんどなかった。泣けばまだ可愛げがあるのに。不吉そうに母親が言うことも多かった。ぼんやりと空を見るばかりで、食事を運んでも返事ひとつしなくなったりつ子には、最初は同情があったものの、次第に不気味に思うようになった。部屋に行くたびに向けられる空虚な視線が怖かった。

 屋敷には嫌な静けさが満ちていた。台所仕事をしていても、二階の方が気になって、どうも手につかなかった。別の仕事をしようと廊下に出た途端、「晴ちゃん!」と悲痛な声が聞こえた。晴ちゃん、晴ちゃん。声は何度も呼び続ける。たまらず部屋に駆けつける。恐れてしまったことが起こったのだ、と思った。

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