第44話 女中

「お嬢様!」

 と、廊下に出るなり声がした。

 ぼんやりとした人影が立っている。ぼやけて捉えどころのない、黒い影。輪郭が霧散しているせいで、身体は病的なほど細く見える。

 呆気に取られていた俺たちを前に、人影は気まずそうに顔を伏せた……ように見えた。ごめんなさい、とか細い声。あの曲、お嬢様が好きでよく弾いていたものだから……だから、てっきり……。声の末尾はすすり泣きに変わってしまう。

「えっと……」みっきーは困ったように目を泳がせながらも、果敢に話しかける。「ここの人ですか?」

「……はい。女中でございます」

 女中とはまた古風な響きだ。……当たり前か。明治時代にあった建物だし。

 どう動いたものか。言葉を探している最中に、ふと、背後に違和感を覚えた。ぬるい風に背中を撫で挙げられるような、嫌な感覚。

 目を向けた先には、煤けた色の廊下しかない。

 はずだった。

 まっさらな廊下の床には、澱んだ空気が沈んでいる。空気より重いガスが地を這うみたいに。本来は目に見えないそれが、今は、目視できそうなほど重々しく漂っている。

 途端、光の隙間になった暗い部分が、ぶわりと濃い闇の色に変わる。黒煙のような何かが細く立ち昇る。影は不安定で、輪郭が時折溶けたり崩れたりする。先端の球形と肩の形から、人影らしいことはかろうじてわかった。あれの周りだけ、空間が褶曲している。下手な加工をした写真みたいに、幾何学的な壁の模様が歪んでいる。

 おぉぉお、と低い唸りが、地面から、天井から、轟いた。

 焼けそうなほどの強い怨嗟を、肌で感じた。ぞわぞわとまとわりつくこれは、剥き出しの負の感情だ。人という器にも、理性にも、遮られることがない。思考や意思すらその中にはない。恨み、怒り、殺意。ぐちゃぐちゃに混ぜられた感情が、身体中に突き立てられる。剥き身の刃物を向けられているような気分だった。

 頭を左右に揺らしながら、影はこちらに近づいてくる。人が歩くよりずっとゆっくりなスピードで。重心の定まらない動き方は、ゾンビか何かのようだ。

「人が生えたっ」

 まひろにはあれが、人に見えているのか。

 手の辺りにゆらりと何かが覗く。――斧だ、とわかった途端、すっと体温の下がる感覚がした。

「いけません、こちらへ!」

 女中が声をあげ、俺たちを廊下の奥へと導いた。

 促されるまま、ばたばたと走る。一度曲がり、二度曲がり、追ってくる影は見えなくなった。女中はそのまま扉の中へと入る。

 扉の先は台所になっていた。こちらも西洋風の瀟洒な造りだ。真っ白なタイルの壁にも、灰色の土間の床にも、赤黒いものが飛散している。

「ここならきっと旦那様はお入りにならないでしょう……今まで旦那様が立ち入ったのはたったの一度だけでしたから……」

 言って、何かを思い出したように、わっと顔を覆ってしまう。

 台所に入ってから、女中の影は少し明瞭になった。細かなところはぼやけたままだが、結い上げた髪や、たくし上げた着物の袖の形が見て取れる。

「……あの人は、『旦那様』なんですか? りつ子さんのお父さん?」

 みっきーの問いに、女中は「ええ」と控えめに答えた。沈黙が重くのしかかる。

 耳鳴りのしそうな静寂を、濁った咆哮が貫いた。反射で内臓がぎゅっと縮む。言葉にならない怒声。男の声だということだけがわかる。嫌でも親父の声を思い出す。

 耳を塞ぎたくなるような声は、少しずつ細くなって、聞こえなくなる。

「旦那様は……お嬢様を――りつ子様を、殺そうとなさったのです」

 その言葉に、あの時見た、斧の切っ先を思い出す。不吉に鈍く光る白銀。

「けれどりつ子様に退かれてしまった。……その繰り返しが、今も続いているのです。何度でもりつ子様を殺そうとなさる。その度にりつ子様が旦那様を殺すのです。あの時したみたいに。それがずっと、何千回も続いています。今では旦那様にはもう、執着しか残っていません。自分が殺そうとしているものすらわからなくなっていると思います」

 だからあの影はあんなに歪だったのか。

 腑に落ちて、同時に気が滅入る。壮絶な死の痛みが何千回と繰り返される。その度に理性が削られ、憎しみや怒りといった感情だけが強く残る。衝動に盲目的に動かされるだけのモノになる。想像することはたやすかったから、なおさら想像したくなかった。肉体的にも、精神的にも、執拗に痛みが繰り返されれば、人は簡単に壊れる。

 痛みを感じないために思考を消すのも、痛みを自分から切り離すのも、一種の自己防衛だというのは変わりない。その末路は見るまでもなかった。

「……この家で、何があったんですか」

 俺は単刀直入に切り込む。暗いところに落ち続ける思考を断ちたかった。自分の内側を見続けているようで、苦しかった。

「あの日は……旦那様が、お仕事から急にご帰国なさった日でした」


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