第32話 ミラーハウス

 天井が高い建物は、足音が嫌に響いた。手に冷たい壁の感触を感じながら、俺はあてもなく走る。見えない壁にごんとぶつかった。鏡だ。もがくように体制を立て直す。舞い上がった埃で痛いほど咳き込む。胸は苦しいのに、足を止められない。止めてはいけない気がしている。スピードを落とすことが怖い。強迫感にかられるがまま走っても、すぐに壁か分岐路に突き当たって、嫌でも足を緩ませなければならない。そのたびにもどかしさに煮えたてられる。

 鏡に自分の像がいくつも映る。いくら撒いたと思っても、どこかにちらりと、煤けたオレンジ色の足が見える。

どこが通路で、どこが壁なのか。道だと思った空間にぶつかって、壁を警戒すれば肩透かしを食らう。錯綜した景色に混乱しそうになる。

「あの子たちは、必死に君を探しているよ」

 足音は一定の音量で背後から聞こえ続ける。

 その中にばたばたと、他の足音が混ざった。合わせ鏡の奥に、二人分の脚。見たことのある靴に思わず気が緩みそうになる。

――ここかな。

――こんなところに本当にいるのぉ……?

――でももうここしか残ってないよ、他のところは探したし……

朧気な声が、遠くに聞こえる。

これは幻聴? それとも、

「君が勝手な行動をしたばかりに……危険を冒して……」

 重たい水音がして、目の前が赤く繁(し)吹(ぶ)いた。鏡一枚を隔てた先。何かが落ちる音。血濡れになった、見覚えのある制服。無造作に何かが転がる。人の首だ。引きちぎられたような無秩序な断面からどくどくと血が流れる。

ごろり、と転がった拍子に、顔が見える。

悲しげな眼がまっすぐに俺を見る。

――まひろ。

違う、これは鏡だ。

幻視だ。

 もつれながら足を動かして、別の鏡に正面からぶつかった。もう一度あの場所に目をやると、硬い顔をした自分と目が合った。あとは合わせ鏡の中に薄い暗闇だけを映している。血の跡も、首もない。――やはり幻視だ。

俺は再び、よろよろと走り出す。

「見捨てたとかっ、必死に探してる、とか……どっちかにしろよ……っ!」

 絶え絶えな息の隙間で、俺は吠える。

 自分がどこにいるのか。あいつはどこにいるのか。どこから入ってきて、どこに向かっているのか。

 鏡面が映し出す景色は、どこまでが本物なのか。

「君が君自身の都合で、余裕を失って、彼らを振り回したのは本当でしょう?」

 うるさい。うるさい。うるさい。言葉にできない苛立ちが臓腑を満たしていく。足がもつれる。靴が重い。息が苦しい。うまく呼吸ができない。自分の喘鳴すらどこか他人事のように煩わしい。

 身体の方が耐えられなくなって、俺はいよいよ足を止めた。肩で呼吸をする。顎から落ちた汗が埃に落ちて染みを作る。

 うすぼんやりとした照明は、それでも場内の輪郭を辿るには事足りる。床に積み重なった埃の中に、ゴキブリや鼠の死骸が混ざっているのも、その中にまだ動いている奴がいるのも、見える。足の甲に上ってきそうになって、慌てて振り落とす。

「視界というのは人の鏡なんだよ……とくにここでは」

 四方は見渡す限りの鏡だ。どの角度からも自分の像が見える。目が合う気がする。三六〇を鏡に囲まれていると錯覚しそうになる。

 足音はまだ背後から聞こえてきていた。一定のリズム、一定の音量。機械じみているまでに変化がない。気配がどこにあるのかは辿れない。しいて言えば、どこにでも充満している。

「その人が恐れているもの……見たくないものを映す……意識するほどに」

 俺はどの方向から来た? あいつはどこから来ている? 道はどこにある?

 どこに逃げればいい?

「君は何を恐れている?」

 あれが近づいていることだけが、肌でわかった。

 目に見えるものは鏡だけ。袋小路に追い込まれたのだ、とわかる。

無理に走り続けた反動なのか、足は萎えたように力が入らない。俺はどうにか壁伝いに後ずさる。どん、と背中に固いものが触れる。冷たさが絶望とともにゆっくり浸食してくる。

 目の前にある道は一本。その果てに、黒い人影が見えた。

 まず目に飛び込んだのは、広い肩幅だった。

 ――嘘だ。

 地面を踏みつけるような大股。背丈の割にがっしりとした体つき。浅黒く焼けた肌。

 近づいてくるほどに、人相が徐々に浮かび上がってくる。

 ――違う。そんなわけがない。

 偏屈そうな口。どろりとした目。酒を飲んだとき特有の赤銅色の顔色。

 ――あれはただの着ぐるみだったはずだ。ただの薄汚れて、埃にまみれた――

 なんだその目はよぉ、と今にもそれが言いだしそうで。

 身体が凍る。

「……来るな」

あぁん? と威圧する声が聞こえてくるような気がした。てめぇなんだその口の利き方は。そう言って壁の鏡が蹴り割られる気がした。

 肩が強張る。身体は自由に動かない。息を吸って吐くことしかできない。

「君には何に見えてる?」

 声はあくまでやわらかで。親父の姿のままで言うから、不気味だった。

 俺は眉の間にぐっと力をこめる。

「……来るなっつってんだろ」

 これは親父じゃない。

 俺を何度も分厚い手で張り倒した親父じゃない。

 不機嫌になるたびにモノを投げたり壁を蹴る親父じゃない。

 部屋に逃げてもかまわずドアをぶち開けてベッドから引きずり降ろそうとする親父じゃない。

 口答えや抵抗をすれば何倍もの力で圧してこようとする親父じゃない。

 目を瞑って、息を整える。あれはただの幻影だ。俺の心が見せたものだ。あれの実体は単なる、無表情な笑顔を浮かべた着ぐるみだ。

 うっすらと目を開ける。視界が翳っていた。顔を上げるより先に、背後から首を掴まれた。引きずり込むような、強い力だった。

 ――背後? 鏡しかないのに?

 これは人の手の感触だ。忘れられそうもない。ぞっとするほど冷たい指が、喉にめり込んでいく。身体は抵抗しようとするのに、凄まじい力で壁に押さえつけられる。

 指に圧迫されて、空気が通らなくなっていく。喉は容赦なく締め上げられる。あ、が、と変な音が喉から漏れた。(――息が吸えない)唇から唾液が落ちていく(――痛い)反射的に剥がそうとした手が、(――助けて)冷たくて硬い二つの手に(――苦しい)爪を立てた。(――誰か)ああ、親父のあれはお遊びだったんだな。俺は他人事みたいに悟る。

 視界が白んで、手に力が入らなくなる。



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