第29話 よもつへぐい
ジェットコースターが風を切って落ちる。レールと車輪の軋む音が不安を煽った。今にもこちらに向かって落っこちてきそうだ。
「富士急行きたいんだろ。乗れば」
「はあ? やだよ」
軽口で重い空気をごまかしながら、俺たちは遊園地を歩く。カラフルな舗装はあちこちが剥がれてひび割れている。ぶわぶわとして、歩きにくい。
まひろの言う通り、どこもかしこも人の気配が蠢いている。なのに姿がないのはなおさら薄気味悪い。まひろは真っ青な顔をして、みっきーの腕にしがみついている。
不意に、何かが腰のあたりに触れた。おぞましさを帯びた冷気。思わず「うわっ」と声が出ていた。
触ってはいけないものを触ったような気がした。
俺は手汗をズボンで拭う。
場内には相変わらず音割れした不協和音が鳴っている。
「にしても変な感じだな、客がいないのに動いている遊園地……」
「客なら、いっぱいいるけどね」
拗ねた様子で、まひろが呟いた。
「観覧車にも、ジェットコースターにも、いるよ。さっきあくつにぶつかったのも……多分みんな、ここで死んだ子供」
「何人もこうやって呼ばれたのかな……」
思わせぶりに言ったのは、みっきーだ。
「子供じゃないのもいる。あそこのホテル――」
まひろが指さした先には、巨大な廃墟がある。窓があちこち割れて、真っ黒に焦げたカーテンが見える。風もないのにカーテンが動く。
「ずっと見てるよ。大勢で。おれたちのこと」
途端、おびただしいまでの視線を感じ、ぞっと肌が粟立った。
……錯覚だ、きっと。
「道連れにしたな、てめー」
「だっておれだけ見えんのフェアじゃないじゃん」
まひろがふくれっ面を作る。
廃墟から目をそらしても、誰かに見られているような気配は消えない。
誰かが後ろから足音を鳴らした、バイトの帰路を思い出す。
「……声、しない?」
みっきーに訊かれたが、俺もまひろも首をひねる。
「じゃあ、僕だけかな……」
「どんな?」
「帰りたくない、って泣く声。小さい子の」
みっきーは苦しそうに息を吐く。
帰りたくない、なのか。帰りたい、ではなく。
「ちょっと座っていいかな。ここに来てからずっと、身体が重たくて」
だめだなんて言えるはずもなかった。とはいえ、近くには、用をなさなくなった噴水か、朽ちかけたベンチしか座れるものはない。枯れた噴水の底にはヘドロのようなものが溜まっていて、水面近くに蚊が群れている。水と有機物の腐ったにおいがした。消去法でベンチに座る。食べかけのポップコーンが傍に置かれている。白い粒が座面にも地面にもこぼれている。気は進まないが、仕方ない。俺も少しばかりくたびれていた。なんせ電車から立ちっぱなしだ。座面は二人が埋めてしまったので、俺は肘掛に軽く腰掛ける。
そばではポップコーンの屋台が騒々しく鳴っている。入り口から見えたものだろうか。日に焼けた屋根の色が淡く、たわんだところに埃と雨水が混ざって溜まっている。スピーカーからは、陽気で場違いな音楽。場内のBGMよりずっと存在感が強い。ショーケースの中には真っ白なものが詰まっている。……腐っていないのか?
見てはいけないような気がして、俺は視線を外す。
「……寂しくて、怖くて、帰りたくないんだよ。満たされない。楽しい時間が忘れられない。おうちなんかに戻りたくない、って。そうしたら、帰らなくていいんだよ、って甘い声がする。大人の男の人の声だ」
――大人の男?
話に不穏な気配が漂う。大元は女の子なんじゃないのか。
「それから、飴を差し出されるんだ。ここにいる子はそうやって留まったんだと思う。……うっすら見えて、聞こえる。この間みたいなはっきりした感じじゃないけど」
「……よもつへぐい」
まひろが顔をあげる。
「よも……何?」
「よもつへぐい。漢字だと『黄泉(よみ)の国』の『黄泉』と……なんだったかな。この世でないところのものを食べると、そっちの世界の住人になっちゃう、ってやつ。前に部長が言ってた」
「……じゃあ、苦しんで死んだわけじゃないのかな。よかった」
みっきーはほっとした様子で微笑む。それでも表情は固い。子供はここにとどまってもなお、寂しい、という気持ちが、焼き付いたままなのかもしれない。みっきーは自分ごとのようにそれを感じている。
「つまみ食いは厳禁ってことか」
口にすると、こんな状況なのに、忘れかけていた空腹感が戻ってきた気がした。ポテトを少しつまんだだけでは少々胃が寂しい。「そーそー、拾い食いすんなよあくつ」「しねーよ、犬じゃないんだから。お前こそすんなよポチ」「誰がポチじゃいっ」
んもう、とまひろが手を払ったとたん、顔が凍り付いた。彼は弾かれたようにベンチから飛び出し、よろよろと後ずさる。
「ぐにっ、てした……」
……ぐに?
そもそもまひろが手を払ったのはなぜだ?
まひろの視線の先を、思わずたどる。
――何かが蠢いている。
ポップコーンの容器の先に、同じものが一つ、二つ。よく見ると、どれもがかすかに動いている。脳は警鐘を鳴らしているのに、目が離れない。
白く、肥えた、何かの幼虫だ。
ぱんぱんに張ったクリーム色の身体を、もぞもぞとくねらせている。
ふくらはぎのあたりで何かが動いた。
咄嗟に手で払い、俺もベンチから飛び退いた。ぐちゅ、とスニーカーの底がやわらかいものを踏み潰した。痺れるほどの寒気が駆け上がった。
「……蛆だ」
驚いたことに、みっきーはあれを平然と摘まみ上げている。白い幼虫は指の間できゅっと丸まっている。「うわ、嘘でしょ」まひろがぎょっとした顔で吠えた。
「じゃああの、ポップコーンの中身……」
転がっている容器に嫌でも目が行く。見たくない。やめておけ。なのに目が釘付けになる。容器の奥で、無数に蠢くもの……真っ白の中にある輪郭が、少しずつあらわになっていく。ところどころに黒い頭が見える。胃から何かがこみあげそうになる。
では、あの屋台は?
タイミング悪くBGMが止む。
かすかに、音がする気がする。何かが動く音。透明な壁を上っていた白いものが、体重に負けて、ころん、と落ちる。
落下の衝撃を受けとめた白い塊が、いっせいに、無秩序にのたうつ。
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