第27話 電車
電車は動き続けている。
車内は薄暗いまま明かりが戻らない。
車窓から見えるのは、鬱蒼と茂った緑だけ。ドアの上に流れる文字は、文字化けして乱れている。
呼吸をするたびに、肺が重くなる。この空気には覚えがある。
「げ、またかよぉ……」
まひろがよろよろと椅子から立ち上がる。
長椅子にはまだ人の体温が残っていそうなのが不気味だ。網棚にもまだ誰かの紙袋や鞄が残っている。
在来線は空いている時間でもそれなりに人はいる。まして俺たちが乗ったのは夕方の電車で。
こんなにもがらんとした姿は見たことがなかった。
「この電車、どこに向かってるんだ……」
外には光も届かないような森しか見えない。見覚えはない。仮にも東京を走っているのに、こんな景色がずっと続くわけがない。走っても走っても電車は森を抜けない。普段ならとっくにどこかの駅に停まっているのに、電車は軋んだ金属音を立てながら走り続ける。ドアの上にぐるぐる回る文字は、文字化けしてわけのわからない言葉を映している。
誰も、何も言えないでいるうちに、電車がトンネルに入った。どっ、と突き上げるような振動とともに、周囲が闇に呑まれた。耳が詰まる感覚。
窓に何か、白くまだらなものが浮かんでいる。
深い暗闇の中で、その白さだけが朧気に光を持っていた。
無数の手形だ。窓を埋め尽くすほどの。
「やだ……」
まひろが袖を握ってくる。
手形はどれも小さい。その指の跡から、子供のやわらかな手の形がありありと浮かぶ。白くべたついた跡の中、中央にぽかんと浮かぶ空洞の一つ一つが、ひどく虚ろなものに見えた。
苦い唾を呑みこむ。胸に鈍く痛みが走る。試しにティッシュペーパーで擦ってみると、なぞられた形に手形が消える。
ということは――これはすべて、内側からついている。
俺は窓から数歩後ずさる。歪な文字の明かりだけがうっすらと車内を照らす。
どっ、と再び揺れが来て、車内に薄藍色の光が戻った。トンネルを抜け、車窓からはますます深い森の景色が見えた。
暑くもないのに、汗が襟の中に向かって垂れていく。
「阿久津くん、どこ行くの?」
不安そうな声が俺を呼び止める。
「先頭車両。電車が走ってるなら運転手がいてもおかしくない」
「でも」
「仮にいなくても、何か手掛かりくらいはあるかもしれない」
本当はじっとしていたくなかっただけだ。この場に留まり続けるのが耐え難かった。汗で張り付くティッシュペーパーを強引にポケットにねじ込む。
俺たちのいる車両は三両目だ。車両の間をつなぐドアは、すんなりと開いた。連結部分はぐらぐらと不安定だ。走っている電車の音がいやに増幅されて聞こえる。
二人もなんだかんだと俺についてきているようだ。迷いを振り切るように俺は足を速める。先頭車両に近づいていくほど、空気はまがまがしさを増していく。どの窓にも目を凝らせばうっすらと手形が見えた。見ないように意識すればするほど、存在感を増していくのが皮肉だった。
一両目へのドアを開けた途端、呼吸をためらうほどの窒息感に襲われた。気温が低い。エアコンの人工的な冷気とは違う、足元から立ち昇るような冷たさ。
「あくつ、ここ……」
まひろが言うや否や、
くす、と耳元で声がした。
さえずりのような、薄い笑い方だった。幼さを帯びた笑い声は、最初の一声から、瞬く間に車両中に伝播していった。声がいくつも反響して、重なる。
「すごい数だよ、戻ろう」
まひろに腕を引っ張られるが、足が打ち付けられたように動かない。
新しいおともだち?
こんどはだれ? だれ?
りっちゃんによばれた?
怖い?
怖いの?
不協和音のような笑い声がぐるぐる回って、頭蓋骨の中に響く。頭が痛い。
「うるせえよ」
彼らはますます愉快そうに声を立てる。親父が再婚したばかりの時、我先にと囃してきた近所の同級生たちを思い出す。サイコン、という言葉を罪であるかのように浴びせた奴ら。姉が追い払おうとすると、余計に増長して、面白がって真似をしたりしながら、手を叩いて笑っていた。子供は純粋で善良だなんて誰が言い出したんだろうと思った。同じように面白がっている大人が背後にいるのは嫌でも分かった。奴らはただ無邪気で、無知で、無神経で、それがいっそう、むき出しの邪気より質が悪かった。
子供の甲高い声は嫌いだ。
嘲笑う声はどんどん大きくなる。
俺は鞄のポケットに手を突っ込む。つるりとしたものが指先に触れた。紐を手繰って引っ張り出すと、ざわめきを伴って、少しずつ静かになった。
「へえ。お前らでも、これが何かわかるんだ」
組紐と、黒水晶。見た目はちゃちなアクセサリーだが、意外と効果はあるようだ。
石の表面は冷たいが、芯はほのかに温かい。手の中に握りこむと、頭痛と呼吸が少しずつ落ち着いてくる気がした。
途端、声が悲痛なものに変わった。切り裂くような悲鳴。泣き声。耳が引きちぎれそうだ。
ぎゃぁあ、と泣く声は獣のようだった。窓ががたがたと音を立てて揺れていた。照明が点滅する。割れる。やめてよ、嫌だ、やだ、怖いよぉぉ、おかあさぁぁん。悲鳴と動乱が車内をいっぱいに満たした。夜ごとに聞いていた泣き声とよく似ていた。本能的に身体が拒否するような声。ぎり、と再び頭が痛み、俺は手を強く握る。まるで俺が悪いことでもしているみたいだ。加虐心と苛立ちが、混乱の中に溶けていく。どこか笑いだしてしまいそうな感覚に襲われる。
何かが、す、と俺の手をおろした。みっきーの手だった。
「やめてあげて。大丈夫だから」
淡々と言われて、少しずつ頭が冷えてくる。
こめかみのあたりがまだ、引きつったように痛む。
「この子たちは縛られてるだけ。害を加えたりはしない」
「……根拠は?」
「ない。けど、わかるんだ。大丈夫」
俺はしぶしぶ石をしまう。それだけで効力は弱まるようだ。当たりは水を打ったように静かになる。
「……あくつがいじめたから、怖がってるよ」
まひろが俺を責めるような目で見た。かすかな反発を覚えたが、声には出さない。彼の目には、あれは人間の形として見えている。子供が泣き叫ぶ姿に胸を痛めたか。情に流されやすいのが彼の弱さだ。
「車掌さん、いないね」みっきーが静かに言った。
「君たちは、僕らをどこに連れて行こうとしているの?」
ひそひそと、伺い合う声がする。まだ警戒しているらしい。
楽しいところ! と思い切ったような声がした。それを皮切りにして、また言葉が雪崩れ込んでくる。
でも内緒。ないしょ。
ついてからのお楽しみなの。
怖いの?
怖くないよ。
みんなが一緒だから。
おともだちだから。
声の出所は定まらない。
ざざ、と砂嵐のような音の後に、スピーカーからアナウンスが聞こえた。次はー、の後は声が急に低くなっていく。ノイズも入り乱れて、言葉はまともに聞き取れない。最後だけはかろうじて聞き取れた。
――ォ足元にごチュウ意くださァい
ぎぃい、と金属が軋んで、電車が止まった。
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