Extra  死人人形




 それは古寂れた塔だった。


 数百年の歴史を孕むその塔は、風雪にさらされ蔦に巻き付かれながらも、その堂とした姿を空に向かって突き立てていた。


「なんとも」


 それしか感想はなかった。


 中世の頃の王宮のほとんどは崩れ石積みや骨が残るだけだ。


 雄大で広大だったという、中世アルシードを統べる代々の王の姿を知ることができるのは、敷地に点在する石像のみ。


 朽ちるにまかせるのは、最も隆盛を誇ったアルシード第十四代国王ジュリオ・アルシードの宣下に寄るとされていた。


 王位に着いてすぐ、十四代国王は遷都を計画した。


 理由については、何も残されてはいない。


 少なくとも、公的な書類はなにひとつとして。


 計画は遂行され、旧王宮は放棄された。


 以降、旧王宮は朽ちるにまかされることとなったのだ。


 おそらくは、遷都の折りに、旧王宮はある程度破壊されたのだろう。でなければ、強固な石造りの王宮が数百年ほどでここまで荒れ果てはしない。


 しかし、なぜ、この塔だけは残されたのか。


 判らない。


 理由を知るのは、おそらくは、既にこの世にはいないだろう一握りの人間だけだろう。もしくは、十四代国王だけかもしれない。


 問題はそこにあるのではない。


 ともあれ。


 自分は、ここに来た。


 ようやく。


 アルシード王国は、十四代で滅びた。


 賢王と呼び讃えられながら、それでも、最盛期にアルシードは滅ぼされたのだ。


 この世に滅びないものなどは存在しない。細々とした傍系の血脈が残るだけでも、奇跡なのかもしれない。


 このからだに流れる血は、最後のアルシードだ。


 王位も領土も、権力もありはしないが、それでも、確かにアルシードの血を引いている。


 そうして、なによりも、アルシードの血は、受け継ぐものたちに、断ちがたい呪いを繋げてもいるのだ。


 狂った血だ。


 悲哀に狂わせる血だ。


 呪いを解くには塔に登るしかないのだと、繋ぐものたちは知りながら、果たすことができなかった。


 それさえも、また、呪いに他ならないのだと。


 血族を呪う、狂った呪い。


 永遠の連鎖を断ち切ることが、アルシードの末裔の悲願だった。


 しかし———————。


 呪いは解けないまま、数百年。


 呪いを断ち切ることはできないまでも、自分が何も残すことなく死ねば、この血は潰える。


 血を繋ぐものが潰えれば、呪いも終わる。


 それでもいいと考えていた。


 アルシードの血は終わるが、苦しむものもいなくなるのだ。


 それでいい。


 それでいいと、思う。


 あんなこと!


 もう誰にも。


 流れた、血。


 絨毯の密な毛足を掻きむしる、白い指先。


 絡む蜜色の絹のような髪。


 前髪のあいだから、見上げてきたすみれ色の瞳。


 散らされた命。


 自分を求めるあのたおやかな手。


 赤い、艶やかなくちびる。


 愛しい存在を殺めたのは、いったいどれほど昔のことだろう。


 あれは、この血を絶やすためには必要な。


 違う。


 ただ、自分は怯えていたのだ。


 罪を犯すことを。


 愛しいものを殺したことよりも、より恐ろしい、罪を犯すことを。


 狂おしいすみれ色のまなざし。


 自分を求めた、血肉を同じくする存在。


 片割れを殺した罪は、償った。


 あの、清潔で冷たい、整然とした灰色の部屋の中で。


 そうして、ようやく、ここに来ることが叶ったのだ。


 双子の姉を殺した時は、未だ幼い少年に過ぎなかった若者が、塔への一歩を踏み出した。


「いったい、何のための塔なんだ」


 抵抗もなく開いた鉄の黒い扉をくぐると、ただ広い空間が明かり取りの窓から射す琥珀に薄ぼんやりと照らし出されていた。


「台所?」


 目を眇め見渡した視界に小さな木の扉が見えた。その奥にあるのは、中世の当時としては完璧な設備だったろう。


 他にあるものと言えば、塔の壁に埋め込まれた階段だった。


 壁全体をくるりと取り巻くように、上へと。


 見上げた若者を、遥か高みにある深い闇が手招いた。


 そんな気がした。




※ ※ ※




 罪だ。


 罪ばかり。


 流れる血の一滴まで、アルシードの末に与えられているのは、罪だけでしかない。


 肉親に対する執着、劣情。


 その結果生まれた己たち。


 幾世代もの血の澱みを受け継いだ、罪にまみれた存在だった。


 それを知りつつ互いを求め、認めることもできずに片割れを殺した。


 新たな罪の子を生まれさせることはできなかった。


 若者は、思う。


 罪に狂えた姉がうらやましいと。


 狂えなかった己を、どれほど嫌っただろう。


 狂った姉を、どれほど、厭い、どれほど、愛しただろう。


 飽きるほどに流し終えたはずの涙が、また、若者の頬を濡らし落ちた。




 高い塔の上。


 幾重にも鍵をかけられた鉄の扉が若者を待ち受けていた。


 それを見た途端、背筋を悪寒が走り抜けた。


「この奥か」


 頑丈そうな南京錠を見ながら、それでも、不思議と解錠に不安を感じることはなかった。


 手を伸ばせ。


 それだけでいい。


 操られるように、若者は、錠に触れた。




 息を呑んだ。


 白い、清浄な部屋を彩るのは、獣毛をしとどに濡らす赤い血の色。


 視界が眩んだ。


 背中を袈裟懸けに裂かれた細い肢体が蹲る。


 風雪に窓が鳴る。


 いつ部屋に現われたのか。


 それは、黒い髪黒い瞳の、壮年の男だった。


 若者は、その男を知っていた。


 いや、見た記憶があった。


 旧王宮の広い廃墟の石像群の只中に、悲嘆の王と名うたれた石像があった。


 アルシード第十三代国王グレンリード。


 アルシード史上記録に残る善政をひいた王は、また悲劇をまとってその生を終えた。最愛の王妃との間にもうけた第一王子を失い、やはり数年後、王妃を亡くした。十数年後に取り戻した第一王子はやはり数年後に死んだ。歴史に、その名を失われた王子とだけ残して。


 十三代国王は、第一王子の死後ほどなくして死んだ。


 まるで、第一王子の後を追うかのような死だった。


 そうして歳若くして王位に就いた第十四代国王の最盛期に、国は滅んだ。


 それはまるで何かの呪いのようだったと。


 おそらくは、それこそが、アルシードの末裔に伝わる呪いの最初だったのだろう。


「オイジュスよ」


 グレンリードの口が空気を震わせた。


「我が王子よ」


 嘆く王の流す涙が、血にまみれた若者の顔を濡らした。


 瞼の下から現われた褐色のまなざしが、ひときわ大きく見開かれ、涙を流す。


 首を横に振る。


 その弱々しい抵抗を、王が止める。


「動くな」


「今、医師を呼ぶ」


 それに、引き結ばれていた若者のくちびるが歪む。


 何かを言いかけて、力つきた。


 鋭く黒いまなざしが、刹那光を失った。


 次の瞬間、王のくちびるから、絶叫がほとばしった。




※ ※ ※




「判っている」


「知っている」


「だれがおまえをこうしたのか」


 どれほど愛そうと、少しも反応のない王子を、王は揺さぶりつづける。


 芯のない人形よりも力なく、ただ揺さぶられるままに揺れ続けるその姿は、すでに、目を背けたいものへと変貌を遂げていた。


 悪趣味な死人人形。


 救いは季節が凍てつかんばかりの冬であると言うことだったろう。


 暖かな気候であれば涌いたに違いない虫からは守られ、腐敗の進行は緩やかだった。


 それでも、確かに、死せる王子は腐敗してゆくのだ。


 傷口から血痕はぬぐい去られ、てらりとした肉と骨が露出していた。


 王の指先が傷口をなぞる。


「この太刀筋が誰のものかを読めぬほど愚かではない」


「ジュリオ!」


 双黒が見開かれる。


 憎悪を宿した黒いまなざしが、オイジュスを通り越して、もうひとりの王子に向けられていた。


 オイジュスを抱きしめる。


「冷たいな。おまえは。生前と変わらずに、私を見ようとすらしない」


 だから私は狂わされたのだ。


 一度でいい、おまえが心から私を父だと認め呼んでくれていたら。そうであれば、私は狂わなかったろう。おまえを息子としてだけ愛していることができたに違いない。


 息子であるおまえに、狂うことはなかったはずだ。


 我が子を抹殺することなど。


 愛している。


 愛しているのだ。


 殺すほどに。


 殺してしまえるほどにまで。


 私以外の誰にもその存在を見せたくないほどに。


 愚かな男を、嗤うがいい。


「オイジュス。我が息子よ」


 冷たい屍を撫でさすりながら、王はただつぶやきつづける。


 塔の扉は固く何重にも鍵をかけられていることなど、もはや王には何の意味もなかった。


 ただひとつだけ。


 悔やむことがあるとすれば、ただひとつだけ。


 オイジュスを殺した者に対する復讐だった。


 閉ざされた身では、果たすことはできない。


 ならばーーーーと。


 狂気と正気とを行き来する頭で、王は考えた。


 呪いを。


 もはやここから出ることは叶わないだろう。


 ならば、この血を持つジュリオの血を引く者に、逃れ得ぬ呪いを。


 そうして。


 今ひとつ。


「私は、おまえを、取り戻してみせる」


 この身は死しても。


 滅びようとも。


 どれほどの時を経ようとも、いずれ、澱んだ血の中によみがえるだろうおまえを取り戻してみせる。


 それまでは、いかように苦しもうとも、ジュリオの血縁者が滅びることはない。


 アルシードの最後のひとりにこそ、おまえの魂はよみがえるだろう。


 その時こそ!


 逃がしはしない。


「もう二度と」




※ ※ ※




「もう二度と」


 耳元でささやかれた声に、若者は全身で反応した。


 目の前に展開されていた白と赤に黒が混じった光景は消え去っていた。


 目を瞬かせる。


 そうして、一歩、後退した。


 凶悪なほどの歓喜に満ちた顔を見出したのだ。


「オイジュス」


 開いているはずの扉はいつの間にか閉ざされていた。


 開かない。


 何故。


 目の前の男が、生きている者ではないことは一目瞭然だった。


 その古めかしい服装も、古めかしい発音さえも。


「私の愛しい王子」


 どれほどこの時を待ったと思う。


 ジュリオの血の中におまえがよみがえるのを。


 私とお前のためのこの古寂れた伽藍の中で、おまえが戻って来ることを、気が遠くなるほど待ちつづけた。


 冷たい掌が、若者の頬を撫でた。


 全身が、凍えつく。


「思い出せ」


 おまえの血の中の記憶をよみがえらせろ。


 そうして、未来永劫、この伽藍の中で私とともにありつづけるのだ。


 若者が首を振る。


 拒絶の意味を込めて。


「この褐色の髪も瞳も、私を煽るそのくちびるさえ、私のオイジュスにそっくりだというのに」


 いや、だからこその拒絶か。


 思いいたる。


 どれほど愛そうと、求めようと、嫌悪と拒絶を隠そうとはしなかった王子だった。


 絶望に閉ざされた褐色のまなざしが、悦楽に塗りつぶされることは無かった。


 決して。


 無理無体な暴虐に曝され、涙も悲鳴もすべてが失われ、オイジュスの心は壊れたのだ。


 壊したのは自分自身。


 悔いはあれど、歓喜もあった。


 殻に閉じこもったオイジュスの、自分を決して見ようとはしないまなざしは、同じく、誰に注がれることも無いのだ。


 それがゆえの、歓喜だった。


 育ての親にも、血の繋がらない兄にも、血の繋がった弟にすら。


 この先、永遠とわに。


 オイジュスは、誰も見ることは無い。


 自分を決して見ることの無い、褐色のまなざし。


 虚ろに見開かれ、ただ恐怖に彩られるだけの。


 まなざしは惑い、自分を認めることは無い。


 救いを求める手が、自分を抱きしめることは無い。


 それでも、この手の中に熱は残る。


 その熱が愛おしかった。


 心の底から、求めた。


 一方通行と痛いほどに知っていながら。


「生まれ変わっても、私を拒むか」


「お、オレは、オイジュスじゃないっ」


 両手で頬を挟まれて、怖いほどの黒いまなざしが見下ろしてくる。


「テオと言いはるか?」


 男の黒瞳が剣呑な光を宿したような錯覚があった。


「ち、違うっ」


 たとえそれが本当であったとしても、諾ってはいけないと、本能が告げていた。


 例え、テオ・ラウル・アルシードが自分の名前だとしても。


「そんな名じゃない」


 途端、男の瞳から、剣呑な色が消えた。


「で、あろうな」


 にやりと、口角を持ち上げる。


「そうだとも。テオなどであるはずがない。私の与えた名があるのだからな」


 オイジュスよ。


 おまえの名は、オイジュス以外ありえない。


 許さない。


 ぼやけるほどに近づいた黒い瞳が、脳の中まで入り込んでくるかの錯覚があった。


 目をつぶろうと脂汗を流すものの、叶わない。


 閉ざされた血の記憶をさかのぼり、男の鋭いまなざしが、記憶の奥を掻き乱す。


 やがて滲み出すのは、あるはずのない、血の記憶。


 弟の血筋であるのなら、オイジュスの記憶などあるはずもない。しかし、滲み出すものは、まぎれもなく、オイジュス本人の悲嘆と絶望だった。


 実の父親に蹂躙された恐怖だった。


 若者は、知らず、


「嫌だ!」


 叫んでいた。


 しかし、


「今更だ、オイジュス」


 触れてくるくちびるは、心を震わせるほどに冷たかった。



 

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王さまのお気に入り 七生 雨巳 @uosato

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