第24話 昭和台中市~木下町、有明町今昔:頂橋仔頭へ続く道

 日本時代初期、明治時代の「臺中縣知事」であり、台中市の最初の都市計画を作った木下周一さんの名前にちなんで命名された街である木下町と、その南側、曙町と並んで昭和台中市の一番南東に位置する有明町は、日本時代だとまだ三丁目までしか街の形ができていません。

 木下町通は今の信義南街で、当時は製酒工場の裏手までしかなく、今は忠孝路となっている有明町通は東側と違ってこちら側では今とほとんど変わらないルートを走っていましたが、丁目の境がはっきりとあるのはやはり三丁目、今でいう合作街との交差部分までです。


 木下町一丁目には彰化銀行俱樂部が、二丁目13番地には「錦川パナマ工業合資會社」というパナマ帽子を製造販売する会社があったようですが、どちらも創業年代や所在地がはっきりしません。

 昭和11年に「あった」と明言できるのは「張眼科醫院」。昭和4年(1929年)の商工名鑑に載っているこの病院は、入院設備を備えていたため『台中市概況』にも名前が掲載され、その後も昭和16年(1941年)の『台中商工案内』で名前が確認できます。1893年生まれで大正9年(1920年)に台北醫學專門學校を卒業した張叔荷医師が大正15年(1926年)に開業したこの病院の所在地は、有明町四丁目5番地。頂橋仔頭集落に近い有明町は有明通の南側に人家が密集していましたが、病院があったのは通りの北側です。

 張叔荷医師のプロフィールは『臺灣人士鑑』に載っていますが、実はその息子さんもプロフィールが『台中市人物志』に載っています。大正10年(1921年)生まれのこの息子さんも医師でした。お母さんである吳鳳娥さんの姓を継いだ、息子の吳仁祐医師は東京齒科專門學校を卒業。台湾に戻った後はお父さんの眼科を手伝い、戦後は「栗原齒科醫院」の管理を引き継いだのと並行して、大正町通(民權路)沿いで「仁祐齒科醫院」を開業しました。

 その後は政界にも進出する一方、医師としても活躍を続け、さらに吳医師の子供たちも日本へ留学して医者になっています。引退後は、息子さんの一人が日本で開業していたことから日本へ引っ越して同居し、2004年に日本で亡くなったとのこと。

 当時病院があった忠孝路と合作街の交差点角地には、今は残念ながら眼科も歯科もありません。


 台中を舞台とした楊双子先生の小説『綺譚花物語』及び、星期一回収日先生による同作のコミカライズに於ける第四作『無可名狀之物』で、小説家志望の自称「ニート」な阿貓と大学院生の羅蜜容が虎爺を探しに行く廟の内、一つ目はこの有明町にある「媽祖廟妙天宮(頂南媽)」。台中南區妙天宮(忠孝媽)とも通称されるこの廟の所在地は有明町一丁目で、忠孝路の南側。日本時代から既に住宅密集地の中でした。

 ここの媽祖様は「頂南里」と呼ばれるこの辺りの開拓が始まったばかりの頃に新富町の台中萬春宮から分祀されたもの。だいたい日本時代になるかならないかの時期のことだったようです。

 「頂南媽」と呼ばれるこの媽祖様には、長らく廟がありませんでした。毎年三月の媽祖誕の時期になると祭壇が築かれ、それ以外の時期は信者の家が持ち回りで祀っていた、というこの状態は、やはり日本時代に萬春宮が受けた扱いに起因していたのではないでしょうか。

 戦後の1987年になってようやく廟の建立が計画され、翌年、現在の場所に廟が完成して今に至っています。


 二人が次に向かうのは有明町六丁目にある台中南區城隍里福德祠。

 この城隍里という地名は、付近に台中城隍廟があることからついたもので、有明町四丁目に建つこの台中城隍廟こそが、吳部爺によって高砂町の製糖工場敷地内から移築されたあの城隍廟です。

 工場建設に先立って廟を解体し、城隍神様を引き取ってきた吳部爺たちは大正8年(1919年)に委員会を組織して廟再建に着手。この再建委員会には当時は北京にいたはずの吳子瑜さんも名を連ねています。

 新しい廟が現在の位置に完成したのは大正12年(1923年)。残念ながら吳部爺は、完成を見届けることなく大正11年(1922年)に死去しました。


 一方、台中南區城隍里福德祠は戦後の1947年に創建。その後、1991年に補修が行われ、従来のお堂の上に屋根が掛けられるなどして今に至っています。

 この廟で特筆すべきはむしろその隣に聳えるガジュマルの大樹の方で、こちらは樹齢百年の日本時代からここに立つ木。忠孝夜市周辺の住民はこの木のこともご神木として崇めていて、このために戦後、城隍里福德祠を建立するにあたり、この場所が選ばれたのだそうです。


 台中南區信義福德祠の所在地は日本時代でいうなら木下町五丁目。このブロックから西へ流れる綠川のルートは戦後に整備されたもので、日本時代はまだ自然のままの状態で流れています。日本時代の整備計画では四丁目五丁目の境をそのまままっすぐ有明町方向へ進ませる予定でしたが、この計画は戦争のため実現しませんでした。

 日本時代にはまだ綠川の中だったこの場所に廟が建つのは1980年。ただしこれは移転であって、それ以前は川の反対側のどこかに建っていたそうです。

 小さなお堂のため、以前の位置が正確にはどこだったのかも、いつ創建されたのかも伝わっていません。

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