第8話 昭和台中市~新盛橋通:台中駅駅前エリア(榮町、綠川町、橘町)

【新盛橋通】

 さて、櫻橋通の西隣は、日本時代の台中で最も賑やかだった商店街の「新盛橋通(今は中山路)」。この名前は綠川の元々の呼び名が「新盛溪」だったことに由来します。当時はすずらん型の街灯が道の両側に設置され、「スズラン通り」の愛称で親しまれました。


 複数の電球を使うこのすずらん型街灯は幾つかのタイプがあったようで、同じ新盛橋通でも大正町通の北側ではもっとシンプルなデザインになります。また新盛橋通だけでなく榮町通でも少なくとも二丁目部分では同じ街灯が設置されていました。更に干城橋通でも、よりデコラティブなデザインのものが設置されていたことが戦後の写真から窺えます。

 ただし戦後の写真ではメンテが行き届かず、火屋が幾つか割れてしまった状態のままで使用されていた様子も見て取れ、現在これらの通りにすずらん型街灯は全く残っていません。

 しかしこの街灯は、実は近年になって復活しました。設置場所はなぜか、かつてスズラン通りだった中山路ではなく、櫻橋通だった臺灣大道の方です。臺中駅前の橘町から、梅ヶ枝町と大字後壠子の境目だった五權路まで、昭和時代の台中市エリアを貫いて通りの両側に輝くこの新たなすずらん街灯も、是非一度辿ってみていただきたいのですが、まずは昭和11年に戻りましょう。


 まずは橘町三丁目と二丁目の間。

 今に残る写真を見ると当時は左右共に赤煉瓦やモルタルによる洋風なファサードを持つ二階建てが並んでいました。

 駅に向かって右手に建つ、アーチ形の窓が二階に連なる建物は「旅館集賢館」。橘町二丁目6番地で営業していたこのホテルは、今も同じ位置で営業中。ただし建物はビルに建て替わっています。その奥に建つのは、これもまた今と位置が変わらない「橘町派出所」。今は「繼中派出所」としてやはりビルになっています。


 左手に建つ赤煉瓦二階建ての中で目立つ看板が「タクシークロキ」。これは通称で「黒木商行」が正式名称だったようです。橘町三丁目2番地にあったこの店は大正11年創業。店主の黒木豊彦さんは別に私の親戚ではないと思うのですが、宮崎県出身だそうなので遥か彼方で血が繋がっている可能性はなくもないかも知れません。この辺りは駅前という土地柄、運送業など車に関する会社が集合していました。


 新盛橋のたもとの三丁目側に建つのは、かの有名な「宮原眼科」。院長の宮原武熊医師は鹿児島県出身で大正14年(1925年)に初来台します。しかしこの時は、台南醫院の眼科部長を一年務めた後、翌年に帰国しました。その後、帰国後に東京で開業していた宮原医師は昭和2年(1927年)に再来台し、この場所で「宮原醫院」を開業したのでした。

 眼科病院ながら病室が22室、入院患者の可能収容数は55人と、市内の私立病院の中ではダントツの規模を誇る大病院です。

 終戦後、宮原医師は昭和20年の11月に引き揚げ、その後の消息は一切伝わっていません。


 昭和8年(1933年)に台湾人エリート青年たちが中心となって発足した「東亞共榮協會」は台湾人と日本人の相互尊重による融和を目指す組織で、宮原医師もこれに参加していました。台湾人との信頼関係も篤く良好な付き合いのあった宮原医師は引き揚げ時には既に71歳と高齢だったこともあり、「善良な日僑であり眼科医でもある宮原医師をこのまま台湾に留めたい」と国民党政府に寛大な処置を求める手紙が台湾人側から送られていました(手紙の中で73歳と書かれているのは、数え年での年齢)。

 宮原医師の引き揚げ後、病院は接収され台中市の衛生院として性病治療の拠点となります。1959年に衛生院が新たなビルを建てて移転すると、建物は民間所有となりました。その後、1999年の地震や2008年の台風で損傷を被っていた建物は2010年に「日出乳酪蛋糕」によって買い取られ、内部の大改修を経てスイーツショップの「日出・宮原眼科」が2012年にオープンしました。


 店舗の二階にある「醉月樓沙龍」は、昭和の台中に於ける台湾料理の名店「醉月樓」へのオマージュ。橘町四丁目にあった「醉月樓」は王川流さんによって経営され、台中の名士たちによる様々な会合、歓送迎会などの舞台となった名店でしたが、戦後いつしか歴史の中へと消えていきます。そもそもの店舗は櫻橋通に面する現在「屈臣氏」になっている建物だけでしたが、商売が非常に繁盛していたため、隣接する二階建て建物の一部を借りて内部で繋げ「醉月樓別館」としました。綠川に面したこの別館部分は、宮原醫院のちょうどお隣でもあります。別館部分の建物の本来の所有者は「全安堂藥房」の盧安さんで、盧家はこの建物の櫻橋通側を旅館の「群英館」に、櫻橋のたもとの角地の部分を旅館の「清水館」にそれぞれ貸し出していました。

 恐らく昭和11年の年末までにこの建物の「醉月樓別館」以外の部分は鉄筋コンクリートの三階建てに建て直され、テナントとして喫茶店の「サロン日活」が入居します。戦後になると盧家はこの建物の「醉月樓別館」に隣接する綠川側部分を今度は「鐵路飯店」に貸し出しました。「鐵路飯店」はその後「交通飯店」となり、今はセブンイレブンがこの部分に入居。今も三階建ての姿を維持するここだけが、日本時代の名残りです。

 一方の「醉月樓別館」は「醉月樓」自体が恐らく1980年代頃に閉店し、別館部分も別な店となります。その後建物は取り壊され、跡地は宮原眼科の駐車場として使用されています。


 さて、橋を渡りましょう。新盛橋通は戦後に中山路となりますが、日本時代から商店街として個人商店が多く建ち並んでいた土地柄、商店主たちの力が強く、戦後の道路拡幅計画を徹底拒否。そのおかげで新盛橋も日本時代の橋のまま残りました。


 渡った先は商店街ですが、新盛橋通と櫻橋通の間の綠川西岸、ちょうど醉月樓別館と宮原醫院二階の川沿いの病室から眺める対岸には、この時代は大日本製氷株式會社の臺中營業所があって製氷工場が稼働しています。今では当時の敷地のまま大きな雑居ビルに姿を変えているここは、物流拠点としての台中を支えた工場でした。


 橋のたもとの綠川町三丁目側はカフェー。続いて小間物の名取屋、教育玩具からひな人形まで幅広く扱う松井玩具店などが続き、臺灣大道一段81巷との角地にはレコード販売店でもある千代時計店が建っています。当時はカフェーと千代時計店から流れるレコードの音色が楽しめたかもしれません。

 千代時計店は、隣接する榮町側の建物が鉄筋コンクリートに建て替わった着色写真の中では、時計以外の機械の修理も開始し、扱う品もどうやら輸入品の占める割合が増えているようです。


 反対側の二丁目には、新盛橋通沿いに印刷所が少なくとも二軒あったようです。松井玩具店の創業が昭和2年なので、この写真はそれ以降の光景だとわかりますが、建ち並ぶ店舗は基本的に和風の二階建て長屋か看板建築だった様子が見て取れます。今、この綠川町部分に並ぶのは三階建て以上のコンクリートビルが中心で、日本時代を偲べる建物は一軒もありません。


 榮町に入ると二丁目側は印判彫刻の南光文堂、竹下製桶店、下駄草履類の村松商店、と職人系の店が新盛橋通沿いに並び、三丁目側は製菓商の佐賀利七さんの店や和洋雑貨の平野商店。今に残る着色写真の中では鉄筋コンクリートの三階建てになっている平野商店も蓄音機を扱っています。


 平野商店の手前、臺灣大道一段81巷に面した建物は現在「一心電子材料」が入居していますが、この建物をよく見るとこれは着色写真に写っている日本時代からの建物の、本来は屋上だった部分に三階を増築した状態。路地側から三階部分を見上げると、着色写真に写っているのと同じ屋上部分の手摺がまだあるのが見て取れます。残念ながら残っているのはこの建物だけで、平野商店から先は全て建て替え済み。


 角を曲がった榮町通の三丁目側では、老朽化してしまった芝居小屋の二代目台中座が恐らく取り壊しを待っていたはず。昭和8年(1933年)の火災保険地図を見るとこの芝居小屋の周りには観劇前後のお客を呼び込もうと飲食店が多数並んでいたようですが、最大の店舗だったビヤホールは台中座の老朽化と新劇場建設の間に経営者が見切りをつけてしまったのか、昭和10年(1935年)には台湾特産品の土産物店「樋口兄弟商會」が入居しています。

 逆に二代目台中座からはやや離れた大正町二丁目4番地の新盛橋通沿いにあった小さな喫茶店「日活」がこの後大躍進。昭和12年の地図では「サロン日活」と名を変えて櫻橋通沿いの三代目台中座向かいに移転し、醉月樓の隣の盧家のコンクリート三階建てにも出店して『臺灣公論』の表紙の台中イラストマップに登場するまでになっていたのでした。


 榮町通の二丁目側で当時目立っていたのは西洋風な二階建ての商工銀行支店のビル。そして通りを挟んでそれと向かい合う履物屋「村松商店」の大店舗と、その隣の旅館「足利屋」。


 この村松商店の二階建て店舗と足利屋の和風旅館建築はつい最近まで残っていたのですが、残念ながら取り壊されてしまいました。このため新盛橋を渡ってから榮町通までの間の新盛橋通沿いで「これは明らかに日本時代の建物」と言い切れるものはもうなくなっています。

 商工銀行支店は今ではもっと大きな四階建てのビルに建て替わり、第一銀行の文字が壁には残っていますが、今は空き家。

 大正町通までの新盛橋通沿いでは、三丁目側の建物は「第四信用合作社」を含め全て戦後の建物で、二丁目側にちらほらと当時の二階建て店舗が残っています。面白いのは「中山73」とその右隣の中山路75號の建物。左右同じ建物なので、75號側にどういう魔改造が施されたのかがはっきりわかる状態に。新盛橋通に関してはむしろ大正町通を渡った寶町、錦町、新富町側の方が当時の建物は多く残っているので、是非そちらにも行ってみてください。


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