第15話 自己の証明

 それからしばらく魚は全く釣れず、時間だけがただ過ぎていった。


「シン、調子はどうだ?」

「いえ、全然ですよ。ルーカスさん、釣り上手なんですね。さっきもあんなに大きい魚釣って」

 それを聞いてルーカスは少し自嘲気味に笑った。


「そんなことはないぞ。俺は釣りが下手なんだ。魚なんてほとんど獲れたことないしな」

「え? じゃあどうして釣りを?」

「俺は釣りが好きなんだ」

「釣れないのに?」

 ルーカスは今度は優しく微笑む。


「釣りは良い。川や海、それに大地と空、自然の全てを感じることができる。釣れなくたっていいんだ。獲物を待ってる間に、いろいろ考えるんだよ。自分の事とか、誰かの事とか、悩みとか、思い出とか。そうやって自分自身と向き合う。そうすれば大抵の答えは出るもんだ」

「へぇ、そういうものなんですかね」

「坊やにはまだわかんねぇか」

 ルーカスはそう言って、陽気にガハハと口を大きく開けて笑った。


「もうすぐ日が暮れる。俺は薪を拾ってくるから、シンはもう少し釣りでもして待っていてくれ」

 そう言い残してルーカスはそそくさとどこかに行ってしまった。言われた通り、神坂は釣りを続行する。程なくして辺りは、黄色と茜色のグラデーションがかった夕暮れ空になった。上空はうっすらと暗くなりはじめている。


 こっちの世界も日は暮れるんだな。


「自分自身と向き合う……か」


 今まで散々、嫌というほど向き合ってきたはずなんだけどな。 


 自分って何なんだろう?


 改めて考えてみると答えられないもんだな。おまけに見た目まで変わってるんだから、ますます自分が何なのかわからなくなってくる。


 俺って、どんな人間だったっけ?


 辺りは静まり返り、川のせせらぎだけが聞こえる。頬に触れる優しい風が気持ちよくて、腰掛けた地面はほのかに温かい。


 全然、思い浮かばない。


 やっぱり俺には何もないんだな。


 そんなことより。


 釣り、悪くないな。


 知らなかった。俺、こういうのが好きだったのか。


 自分ことなのに、こんなことすら今までわからなかったんだな。


 そんな事を考えていると、ルーカスが大量の薪を抱えて戻ってきた。薪の束はルーカスの体よりはるかに大きかった。どうやって運んでいるのか疑問なくらいに。

「シン、戻ったぞ。こんだけあれば、まぁ大丈夫だろ。って、ん? おいシン!」

「え?」

「引いてるぞ」

「ちょっと! どうするんですか? これ」


 もの凄い勢いで竿を持つ手が大きく震える。ルーカスの手を少し借りて、神坂は悪戦苦闘しながらも一匹の魚を釣り上げた。よほど暴れたのか、まだ手が指先まで痛む。


「なかなか大物じゃねぇか。シン、これが釣りだ。どうだ、楽しいだろ?」

「はい! でも、手が痛いです」

 神坂は少しだけ困ったような笑みを浮かべて言う。


「それが命の重みだ。これが感じられるのもまた、釣りの良いところでもあるな」

 それを聞いた神坂は、その後すぐに自分の手を見つめ、思った。


 これが、命か。


 神坂が生きているということを本当に実感したのは、これがはじめてだった。


 まだその手に残る僅かな痺れを、神坂はしばらく噛み締めていた。


 自分が何だろうと構わない。


 だって俺は、はじめから何者でもなかったんだから。


 それにそんなことは、この目の前に広がる自由な世界からすれば、特に意味のないことなのかもしれない。


 

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