第4話 花蝶屋炎上

 渋江しぶえ子爵の注意は、もう千早ちはやではなく寿々すずお嬢様に向いていた。


「お前が、そうか。花蝶かちょう屋の申す通り、確かに悪所には似つかわしくない佇まいだが……」


 たぶん、千早よりもお嬢様のほうが子爵令嬢には相応しいと思ったのだろう。その辺り、お嬢様の評価は正確だった。でも、子爵が喜んだ風でもないのは、里見や千早の言葉で疑いを持ってしまっているからだ。ひとりふたりの言葉でひっくり返る──華族の血なんて、そのていどのものでしかないのだ。


「そう……そうでしょう。大事な娼妓が遺した子なので、責任を持って、我が娘と思って──」

「嘘」


 また長々と口上を述べかけた花蝶屋を、けれどお嬢様はあっさりと遮った。


「お父さんは、娼妓を大事にしたりしないでしょ。いつまでも借金を返せないように、何かと工夫してるじゃない。千早だって、そう。いずれ搾り取れると思ったから見世に置いていたのよね?」


 一瞬だけ千早のほうを向いたお嬢様は悲痛に顔を歪めていた。よく言われたように、千早を哀れんだのか。何か──悪いと思ってくれたのか。問う隙もないまま、お嬢様は父親のほうへと顔を戻した。


「私は、華族の令嬢になりたかったんじゃない。女郎屋の娘が嫌だったのよ! どうして見世を畳むって言ってくれなかったの? 私が本当に大事なら、なんで──っ」

「お前……親に向かってその口の利き方は、何だ!」


 寿々お嬢様の叫びを呆然と聞いていた花蝶屋は、我に返ると娘に思い切り平手打ちした。身が竦む──だって、千早もその痛みを知っているから──鋭い音に、寿々お嬢様の悲鳴が重なる。しかも、一度打っただけでは飽き足らず、花蝶屋は憤然と立ち上がると倒れたお嬢様を足蹴にした。


「見世のためにもなると、言ってただろうが! お前が上手くやるからと──孝行娘だと思ったのに、この、恩知らずが……!」

「や、止めてください……!」


 お嬢様が箱入り娘だったのは本当で、千早が知る限り手を上げられているのは見たことがなかった。慌てて割って入った千早の肩や背に、鈍い痛みが走る。下に庇ったお嬢様は無事だろうか、と。覗き込もうとするのだけれど──


「もう良い! 見苦しい!」


 千早の肩が、強く引かれた。頭ごなしの荒々しい声の主は、渋江子爵だ。それぞれの言い分に耳を傾けるのを止めて、業を煮やして立ち上がったらしい。きっと、華族様はここまでも歩いて来たりなんてしていないのだろう、真白い足袋がやけに目に眩しい。


 年齢に似合わぬ力強さで、子爵は千早の腕を捩じり上げた。千早、と。寿々お嬢様の喘ぐ声が耳に入る。


「痛……っ」


 腕に引っ張られて腰を浮かせた千早の耳元で、渋江子爵が怒鳴る。


「語るに落ちるとはこのことだな。とんだ茶番だ……! 寿昭ひさあきの胤は、こちらなのだな。躾はなっていないが、儂が性根を叩き直してやる……!」


 子爵の怒りの矛先は、その場の全員に向かっているようだった。高貴な御方を無視しての言い合いに、そもそも欺こうとされていたのが露見したことに。矜持を傷つけられた鬱憤の捌け口が、千早になっているのだ。でも、彼女はもう怯んだりしない。


「私は、行きません!」


 強く叫んで──そして、朔のほうへ目を向ける。この人は──この、神様は。助けを求める声には必ず応えてくれる。


「楼主様──」


 ほら、朔はこんなにも嬉しそうに頼もしく微笑んでいる。


「分かっている」


 朔がしっかりと頷いた。と、思うと、その場の空気が変わる。清らかに、静やかに。猥雑な遊郭にいるはずなのに、まるで神社にいるかのような。誰もが口を噤んでしまって、微かな呼吸の音さえ耳につく──その静粛さを確かめるように、朔は一堂を見渡した。


「娼妓見習いの千早。花蝶屋の娘、寿々。お前たちは九朗助くろすけ稲荷に願掛けした。社を守る者として、吉原のか細き祈りの声に耳を傾ける神として──その願いを叶えよう」


 寿々お嬢様が小さく息を呑んだのが聞こえた。お嬢様は、朔の本性のことを知らなかったのかもしれない。……というか、そうそう信じられるものではないのだろうけれど。現に、渋江子爵は掴んでいた千早の腕を放って、顔を赤くして朔に詰め寄っている。


「なんだ、貴様は。稲荷? 神? 明治の世に何を世迷いごとを──」


 不躾ぶしつけに指を突き付けられても、朔は軽く苦笑するだけだった。子爵の胡乱な眼差しも、もっともだと言うかのように。


「世迷いごとに、なるところだった。千早がいなければ、もう少しで。……だが、今なら違う」


 朔は、流し目で千早に微笑みかけた。彼女のお陰だと、言ってくれたのだろうか。その黒い目に宿る温かさに、微かに持ち上がった口元が湛える優しさに、千早が真っ赤になったのは見られてしまっただろうか。彼女が頬を抑えるのとほぼ同時に、朔は高らかに宣言した。


「千早の願いも寿々の願いも、要は鳥籠を出ることだ。寿々を捕らえる鳥籠は、俺の狐火が燃やしてやろう」

「え……?」


 寿々お嬢様の戸惑いの呟きに応じるように、ごう、と空気が鳴った。里見に対して振るったのと同じ、朔の力が作り出した炎だ。でも、以前に見た時よりも炎の勢いはずっと強い。一瞬にして立ち上がった火柱が、花蝶屋の天井を舐める。高さだけでなく、横にも膨れ上がって柱に襖に燃え移る。ゆらゆらと揺らめく炎は、室内のあらゆるものを真紅に染めて、影を黒く濃く躍らせる。


「ひ──か、火事だ……!」


 内所で起きた異変を、すぐに見世中が察したようだった。二階からは激しい足音が響き、若い衆の悲鳴のような叫びが炎の轟音を縫って聞こえてくる。


「水を、早く!」

「余所に移すな!」


 江戸の御代から、吉原は何度となく大火に見舞われている。塀とお歯黒溝に囲まれた中に遊郭が密集する街の造りゆえに、火にはめっぽう弱いのだ。花蝶屋からの出火で周囲の見世に被害を及ぼす訳にはいかないという焦りは、当然のものなのだけれど──


「必要以上には燃やさないのに。要らぬ心配なのだが──だが、ものでないものも、燃えるかな」


 逆巻く炎の激しさと、右往左往する見世の者の狂乱を余所に、朔は涼しげに楽しげに笑っている。謎めいたことを口にしておいて、彼が視線を向けるのは、今度は寿々お嬢様のほうへ、だった。


「千早への後ろめたさも蟠りも、共に灰になれば良い」

「貴方──」


 朔と千早の間で、視線をさ迷わせては絶句するお嬢様の髪にも着物にも、炎は移っていなかった。それを見て、千早はようやく安堵する。狐火は、燃やす相手を選べるらしい。渋江子爵の着物の肩に、袴に、降った火花が燻っているのは──ならば、わざと、なのだろう。


「そしてもうひとつ、己が血筋への妄執も、俺が焼き切ってやる」

「ひ──」


 朔の言葉までもが炎を纏って灼けているようだった。熱さだけではなく、怒りを帯びた視線と声を浴びて渋江子爵は顔を引き攣らせる。


「こ、こんなところにはいられるか──儂は、帰るぞ……!」

「は、はは……っ」


 危うい黒い煙と焦げ臭い異臭を纏って、渋江子爵は一目散に逃げだした。主君を守るため、供の者らしい男たちがあるいは露払いをし、あるいは子爵の盾になって降りかかる火の粉を受ける。


(この場は引き下がってもらえた、けど……)


 喉元過ぎれば、とはよく言うものだ。炎から逃れて我に帰れば、子爵はまた千早を手に入れようとするかもしれない。


「私の願いは──まだ、あります」


 急なことに、なってしまったけれど。神隠しを演じるならば、今をおいてほかに機はない。人ならざる力を見せつけて、朔に攫ってもらわなければ。千早の言外の言葉を聞き取ってくれたのだろう、朔は微笑んで頷いた。


「ああ、そうだな。俺の願いでもあるんだ、忘れたりするものか」


 朔が言うと同時に、ひと際大きく炎が巻き上がった。花蝶屋の屋根の一部が崩れ、二階の花魁が逃げ惑って翻す、着物の裾が目に入った。青い空を赤い炎が彩り、煙が立ち上り──熱風に乗って、どこからか涼やかな声が聞こえてくる。


「ああ──花蝶屋とは『そこ』でありんしたか」

「禿ども、勢いよく走ってきたと思ったら、見世の場所は知らぬ、などと」


 月虹げっこう楼の、姐さんたちの声だ。


(人の世に、来てくれたの……!?)


 辺りを見渡しても、炎に阻まれて見えないのだけれど。でも、馴染んだ声が幾つも、その主がすぐ傍にいるかのようにはっきりと聞こえた。


「も、申し訳もございんせん……」

「だって、夢中で」


 瑠璃るり珊瑚さんごは──この声の調子だと、へちゃりと耳を寝かせているような気がする。言われた仕事を忘れて遊んでいた時なんかに、よく見る姿だった。今はいったい何をしでかしたのか、千早には分からないのだけれど。


「楼主様が派手に狐火を上げてくださって助かりましたねえ」


 四郎が良かったところを探すのも、よくある一幕だ。月虹楼では滅多にないけれど、ちょっとした諍いや、煩いお客が帰った後に、これでおしまいと言うかのように朗らかな笑顔で締めくくってくれるのだ。あの、のっぺらぼうで場を和ませながら。


「まったく、ろくに準備もできておりいせんのに」

「わっちらは十分きれいだもの、まあ良しといたしんしょう」


 溜息混じりの声に、軽やかに笑いを含んだ声。いずれも艶を帯びた、涼やかな──唇を尖らせる葛葉花魁と、口元に手をあてる芝鶴花魁の姿が目に浮かぶ。


(ああ──皆……)


 月虹楼のあやかしたちが、揃って迎えに来てくれたのだ。まだ計画を立てていたところだというのに、駆けつけてくれた。煙の刺激ではなく、喜びと安堵によって千早の目を涙が潤ませた。

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