第3話 鶏だって喋り出す

 人力車が花蝶かちょう屋の前で停まると、里見さとみ千早ちはやを抱えて座席から下ろした。まるで荷物のような扱いだ。身体が密着する恥ずかしさに、雑な扱いへの憤りが加わって千早は唇を噛む。


(落ち着いて……これは、好機でもあるんだから……!)


 今日、こんなにも早くになるとは予想していなかったけれど、渋江しぶえ子爵に何を言うかは考えてある。寿々すずお嬢様の激昂を聞いた後だと、いくらか増えてさえいるくらいだ。彼女は、変われたはずだ。先のことなど考えずにぼんやりと過ごしていたころとは違って、やりたいことも守りたい場所もできた。


(奪われて、堪るものですか……!)


 千早が決意を新たにする横で、里見は無造作に花蝶屋の暖簾を潜った。


「どうも、上がらせてもらいますよ」


 まだ昼間の早いうちで、娼妓たちはまだ眠っていてもおかしくない時刻だった。でも、その割に見世の中が騒ついているのは、やはり渋江子爵が訪れているのだろう。貴い御方の存在に、誰もが落ち着かずに様子を窺っているのだ。


「すみません、まだ見世は開いてなくて──」

「知っていますよ。ちょいと、失敬」


 立ちはだかろうとする若い衆を軽く押しのけて、里見は遠慮なく足を進める。彼に引きずられた千早とすれ違う瞬間、その若い衆の目は面白いほどまん丸く見開かれた。


「千早!? お前、いったい今まで──いや、なんで、今……!?」

「すみません、ご無沙汰してます」


 たぶん、千早を追いかけて四郎しろうののっぺらぼうに驚かされたうちのひとりなのだろう。たぶん、人の世の吉原界隈を、彼女を探して右往左往してもいたはず。そう思うと、あの時の恐怖よりも申し訳なさが先に立って、千早は素直に頭を下げた。


「楼主様は、内所ですよね?」


 幽霊か、それこそあやかしでも見たかのように若い衆が立ち竦んだ隙に、里見はさらに見世の奥へと入り込む。もちろん、千早の胴に腕を回して拘束したままだ。遊郭の造りはだいたい似たり寄ったりだから、案内されるまでもないのだろう。


「あ、こら、お客が来てるんだぞ!」

「存じてますよ。こちらの旦那より、そのお客様に用があるんでねえ」


 言い合いながら廊下を進むうちに、千早にも聞き慣れた声が聞こえてきた。寿々の父──花蝶屋の楼主の声だ。


「──娘はもうじき帰って参ります。よく躾けて、あいや、華族様のご令嬢にはなはだ僭越ではございますが、とにかく良い娘ですので。きっとお気に召して──いやあの、やんごとない御血筋を、感じ取っていただけるものと……!」


 ご落胤について説明するはずが、客に娼妓を売り込むようなもの言いが混ざるのが少しおかしくて、そして悲しくもあった。だって、花蝶屋が語っているのは実の娘についてのことなのだから。


(お嬢様は、本当にお父さんがこんなことを言うのを望んでいたの……?)


 寿々お嬢様の姿を頭に思い浮かべる前に、里見は千早の背をとん、と突いた。内所とは見世の一階を見渡す場所なのだから、壁や襖でしっかりと区切られている訳ではないのだ。花蝶屋と、恐らくは相対する渋江子爵の姿を遮っていたのは形ばかり置かれた衝立だけで──


「きゃ──」


 突き飛ばされた千早は、その衝立を押し倒して転がった。痛みを堪えて身体を起こすと、そこには目と口をぽかんと開けた花蝶屋の、福福しい顔がある。


「ち、千早……!?」


 そして、お尻のほうからは重々しく冷ややかな声が響く。


「なんだ、お前は。そちらは──里見と言ったか? 何をしに参った」


 千早は、慌てて衝立の上から退くと、畳の上に正座した。花蝶屋と、「その人」の間のあたり、ふたりに同時に顔向けできるような位置に。不躾だとは思いながらも、「その人」の顔をまじまじと見つめてしまう。


(この人が、私の……?)


 痩せた、年配の紳士だった。確かに千早の祖父に相応の年のころに見える。子爵というと洋装の軍服に勲章を下げている姿を思い描いていたけれど、私用だからか和装の袴を纏っている。さすがに身分を伏せているからだろう、紋付ではなかったけれど。


 温かい情が湧くはずは、なかった。父のことは何も知らず、母も記憶もほとんどないのに。子爵は、千早のことを孫と認識してさえいないだろう。物見高い小娘が粗相をしたと思っているなら、眉を寄せているのも得心がいく。ただ──それにしても、冷たい眼差しで、冷たい表情だった。まるで、その辺の石ころでも見るかのような。これが、世が世なら旗本の殿様だった人なのだ。


 気圧されたように固まる千早の横に、里見もさっと腰を下ろした。窮屈そうに見える洋装なのに、正座もできるらしい。和の設えに、西洋式の上下はどうにも不釣り合いだったけれど、彼は気にした風情もなく笑っている。それはもう朗らかに、揉み手をせんばかりの腰の低さだった。


「覚えていただけて光栄ですねえ。いえ、私は女郎屋なんぞに騙されませんように、ってご注進に上がったまでですよ。言ったでしょう? ご落胤の居どころに心当たりがあると。こうして、ちゃあんと連れて来たんですよ!」

「な──」


 花蝶屋が絶句する声を聞きながら、千早は糸のように細まった里見の目線を受け止めた。言いたいことがあるなら言ってみろ、と。その三日月のように笑う目は告げていた。


(ええ、言ってやるんだから!)


 唇を噛んで、深く息を吸って──そして、千早は三つ指をついて頭を垂れた。


「花蝶屋の下新の、千早と申します。楼主様には、亡き母ともども『とても』良くしていただきました」


 とても、聞き逃せないような含みを持たせた上で、懐に手をやる。一連の騒動にも関わらず「それ」はしっかりとそこに収まっていてくれた。


「母の形見が、これです」


 螺鈿細工の輝きが、燦然と煌めいた。渋江子爵にとっては、きっと見慣れた紋だろう。五瓜いつつうり内唐花うちからはな──千早の父である若殿さまが、母に、馴染みの女に贈ったもの。


「……花蝶屋よ、これはどういうことだ……?」

「こ、この娘は嘘を吐いています! 手癖も悪いから追い出したところで──これは、うちの娘のものです!」


 子爵にぎろりと睨まれて竦み上がった花蝶屋に、里見が追い打ちをかけた。


「嘘吐きも手癖が悪いのもお前の娘のことじゃないかねえ。幼馴染の幸運を妬んで、形見の品を巻き上げようとしたんじゃないか」

「貴様、何を根拠に……!」


 怒りか、あるいは動揺によって声が出ない様子の花蝶屋に、里見はなおも迫る。片膝を立てて身を乗り出して、洋装でなければ歌舞伎の一幕のようだったかもしれない。


「形見の品は、今の今までこの見世にはなかった。こっちの『本物』が、持ってたんだからねえ。早とちりで逃げたところを、お前の娘が見つけ出して、思い出に欲しいと泣き落として──それで、手に入る目途が立ったから、今になって子爵様を呼びつけたんだろうが!」

「違う! 手塩にかけた娘を手放すんだ、そうやすやすと決められるか!」


 里見は、花蝶屋をやり込めて、その主張の苦しさを子爵に見せつけているつもりなのだろうか。ふたりの間で視線を左右に動かす渋江子爵は、確かに迷って悩んでいるとは見えるけれど。でも──これは、千早にとっては好機だった。里見の注意が彼女から逸れた隙に、子爵にそっと呼び掛ける。


「──子爵様は、どちらを信じますか」

「……何だと」


 子爵は、軽く目を見開いて千早に注意を移した。まるで、彼女が口を利けたことそれ自体が意外だったとでも言うかのように。


お世継ぎを生むための鶏が喋り出したら、驚くでしょうね)


 というか、そもそもこの人は千早がご落胤だとはまだ認めていないのだったか。それなら、見ず知らずの遊郭の小娘に話しかけられるのは、華族様としては不本意なのかもしれない。でも、千早がそんなことを気に懸ける必要はないだろう。


「楼主様も里見さんも、子爵様はそんなにご存知ないでしょう。胡散臭い……怪しい連中だと思っていらっしゃるでしょう。大事な跡継ぎのことを、こんな人たちの言葉を真に受けて決めてしまって良いんですか?」


寿昭ひさあきが入れ込んだ女がいるのは確かなことだ。事実さえ明らかになれば──」


 子爵が言い切らなかったのは、彼自身も気付いているからだろう。事実なんて、不確かなものでしかないのだと。千早は、すかさず畳みかける。


「楼主様は花蝶屋の人たちに口裏を合わせるように言ったかもしれない。問い詰めれば違うことを言う人もいるかもしれないけれど、楼主様に恨みがあるからかもしれない。里見さんだって、都合の良い証人を用意することぐらいできるでしょう」

「……だから、何だ。お前の言うことこそが真実だとでもいうのか」


 子爵が目を細めた。たぶん、この件については色々な人が色々なことを言ったのではないのだろうか。それをひとつひとつ吟味して、中にはすぐに嘘や欺瞞が露見したりもして、すっかり疑い深くなっているのでないかと思う。


「まさか」


 騙されたことに対しては気の毒に思いながら、それでも千早はあっさりと首を振った。


「十六年も会おうとも、探そうともしなかったのに、今さら祖父だの孫だの御家だの言い出すのは無理なことです。形見を持ってるかどうかで確かめられると思っていたなら、これだけお返しいたします。ご都合の良い相手に渡せば良いんです。私でも寿々お嬢様でも、誰かほかの娘さんでも」


 言い切ると、千早は畳に置いていた形見の煙草入れを、渋江子爵のほうへ押しやった。寿々お嬢様があれほど欲しがった品ではあるけれど、千早にしてみればこんなものがあるから、としか思えない。


 気付けば、里見も花蝶屋も口を噤んで彼女を見つめていた。言いたいことはあるのだろう、口を開閉してはいるけれど、どうすれば子爵を納得させられるか分からないから言えない、という様子だ。その点、千早は気に入られようとか機嫌を取ろうとか思っていないから楽なものだ。


「でも、もしも私にくださったとしても──私は、嫌です。娼妓の娘でも。あるいはだからこそ、ものみたいにやり取りされたくはありません!」

「小娘が、無礼な──」


 腰を上げて怒鳴ると同時に、子爵は拳を振り上げた。殴られるのを予想して、千早はぎゅっと目を瞑る。──そこへ、何人かの慌ただしい足音と話し声が耳に飛び込んでくる。


「お嬢さん、今はいけません!」

「あの、予定と違って──」

「いいの。私はお父さんに用があるんだから!」


 寿々お嬢様の声だ。はっと目を開けた千早の視界に、矢絣模様の小袖が翻った。お嬢様は、いつものはきはきとした所作で、千早の隣に座り、流れるように三つ指をつく。里見によって隅田川に突き落とされたのに、髪も着物もまったく濡れていないのが不思議だった。


「お初にお目にかかります、子爵様。花蝶屋の娘の、寿々と申します」

「ほう、お前が……?」


 寿々お嬢様を見る渋江子爵の目は、千早に対するものよりはいくらか感情が籠っていた。石ころや鶏ではなく、少なくとも、人間を品定めしようという目つきだった。


(お嬢様は、何を言い出すの……?)


 また、埒もない水掛け論が始まってしまうのか、と。千早の胸は不安に掴まれる。でも──


「心配いらない。あの娘にも自分の願いが分かっている」

「楼主様! 来てくれたんですね……!」


 はじめの声が耳元に囁いてくれたから、心はすぐに軽くなった。朔が、寿々を連れてきてくれたのだ。それならもう大丈夫。この神様は、とても優しいのだから。

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