第4話 寿々の願いごと

 千早ちはやの強張った表情に気付いているのかいないのか、寿々すずお嬢様は口元だけの微笑を浮かべて彼女を覗き込んできた。


「持ってきてくれた?」

「え、ええ……」


 白い手が千早の腕を掴もうとするのは、身体を捻って辛うじて避けた。懐にしまっておいた形見の煙草入れを、奪われそうな気がしてしまったのだ。胸元を抑えて身構えた千早の姿は、まるで物取りに遭った時のよう。警戒心は、お嬢様にもはっきりと透けて見えただろうけれど──


「……そう。ありがとう!」


 一瞬、能面のような無表情になった後、宙に浮いた手を収めながら、寿々お嬢様はにっこりと笑った。そのまま、すたすたと河原へ降りていくのは、人目を避けてゆっくり話そうということだろう。


(人に聞かれたくないのは……普通のこと、だわ)


 ちらりとはじめを見上げると、細い顎がしっかりと頷いてくれた。神様が、ついていてくれるのだから大丈夫──そう、自分に言い聞かせて、千早は黒髪が躍るお嬢様の背を追った。


「寿々お嬢様。これ──」


 草す河原に降りた後も、念のためにお嬢様とはゆうに背丈ぶんの距離を取った上で、千早はようやく切り出した。懐から取り出した煙草入れ、その螺鈿らでん細工が、陽の光を反射して複雑な色の煌めきを振り撒いた。その輝きに魅了されたかのように、寿々お嬢様の目は煙草入れに釘付けになる。


「ええ……確かに、それね。早く──」

「これは!」


 お嬢様が手を伸ばして近づいて来るのを遮るように、千早は引き攣った声を張り上げた。


「──この紋は、渋江しぶえ様という華族の御家の御紋だそうです。知ってましたか?」


 千早がごくたまにしか手に取って眺めることをしなかった、両親の形見の煙草入れには、確かに家紋があしらわれていた。五瓜ごか内唐花うちからはな──亡くなった若君が馴染みの女に渡した品として、あの男たちは渋江家の紋も詳しく語ってくれていた。


「そうなの? よくある紋だと思っていたけど」


 確かに、ありふれた紋ではある。唐花の花弁の数や形、それを囲む瓜の配置などで少しずつ変化をつけた紋は幾らでもある。千早も、ずっとただの模様としか思ってなかった。


(でも、お嬢様だって。これの紋を区別するほどじっくり見たことはなかったでしょう……?)


 あからさまに惚けられたのが悲しくて口を噤んだ千早に、お嬢様は少しだけ眉を寄せた。ほんのわずかだけど、声にも棘が滲む。


「その子爵様が、どうしたっていうのよ。早くちょうだい」

「私、子爵様とは言ってません。渋江様という……華族様としか」


 失言を指摘されて、お嬢様の唇がわなないた。後悔を示してかきゅっと噛み締められた後、けれど、お嬢様の声は一段階高くなっていた。


「……だから、何よ! あんたも知ってるんじゃない。言いたいことがあるなら言いなさいよ……!」

「私のお父さんは、子爵様の若様……みたいです。今いる見世にも探している人が来て、教えてもらいました」

「運が回ってきたとでも思ってるんじゃないでしょうね!? 娼妓の娘が華族のご令嬢なんて、そんなに上手く行くはずないわ……!」


 子爵家は千早を迎えるつもりだ、ということもまだ言っていなかった。お嬢様は、聞いたことに言葉では答えてくれていないけれど、態度ではっきりと教えてくれている。眉を吊り上げて喚く寿々お嬢様からは、いつもの溌溂とした愛らしさが消え去って、悲しい。怖いと思わないでいられるのは、千早の背にそっと触れる、朔の指を感じているからだった。


「はい。相応しくないし、嫌だ、と思っています。今お世話になっている見世がとても良いところなので。……だからお断りしようと思っています」

「ちょっと……!」

「だから子爵様にお会いしないといけないし、説明するにはこの形見がないといけません。今日は、お嬢様に渋江様の……お屋敷の場所とかを聞きたくて来ました。形見を渡せるのは、お断りした後になります」


 形見の煙草入れを、ぎゅっと胸元に握りしめて、千早は言い切った。これは、彼女にとっては本当に大した価値のないものだ。父も母も、触れ合った記憶が少なくて感傷を覚える余地さえない。だから、思い出としてお嬢様にあげるならそれで全然構わなかった。お嬢様もそれで良いと言ってくれたらと、思っていたのだけれど。


「それじゃ意味がないじゃない! なんでそんな勝手なことをするの!?」


 お嬢様が──あるいは花蝶かちょう屋が、形見の品を何かに利用しようとしているのだろうとは、さすがに察しがついていた。千早が確かにいたということの、証拠や時間稼ぎに使うとか。


「勝手、って……」


 だから怒ったり慌てたりするのは、一応は予想の範疇ではあった。でも、これは千早自身の身の振り方の問題のはずで。勝手だなんて言われる筋合いはないはずで。──でも、お嬢様は千早がひどい間違いを犯したかのように髪を振り乱して手を振り回して責め立てる。


「渋江様にはもう言ってしまってるのよ。若様の子は、花蝶屋の娘として育てました、って!」


 千早が驚きの表情を浮かべたことさえ、寿々お嬢様は口答えのように捉えたらしかった。ぱっちりとして可愛らしかったはずの目が、かっと見開かれて眼窩からこぼれ落ちるのではないかと思うほど。激情のままに地団太を踏む足が草をへし折り潰して、青臭い匂いが鼻に届いた。


「だってそのほうが良いでしょ? あんたより私のほうがしっかりしてるし美人だもの。子爵様だって、娼妓見習いを娘に迎えるよりは、女郎屋の娘のほうがまだマシでしょう? いかがわしいことはさせてないって。実の娘同然に大事にしてたって言えば、世間体も良いでしょうに!」


 では──花蝶屋は「そういうこと」にすることにしたのだ。もう少し前から思いついていたことを、昨日のことがあって、形見を手に入れられそうだと判じたから決行したのかもしれない。


(二度と会えないって、そういうこと……)


 華族のご令嬢ということになれば、確かにもう会えないのも道理なのかもしれない。でも、それは寿々お嬢様の本当の華族についても同じだろうに。


「お嬢様……楼主様が、そんなことを? 親子の縁を切ることになるんじゃ……」


 親の顔も覚えていない千早とは訳が違う。千早からすれば花蝶屋の楼主は怖いところもあったけれど、実の娘はそれこそ蝶よ花よと可愛がっていた。華族の暮らしと引き換えでも、子爵家からの圧力があったのだとしても、お嬢様を差し出すとは信じられなかった。


「望むところよ。お父さんは嫌がったけど、私が押し切ったの」


 ──でも、寿々お嬢様はひどく昏い笑みを浮かべて嘲った。千早が絶句する姿の何がおかしいのか、喉を反らせて高い笑い声を響かせる。


「女郎屋なんて汚らわしい。私はずっと嫌だった。恥ずかしかった。学校でも家のことも親のことも言えないで、いつバレて後ろ指をさされるかと気が気じゃなかった。……あんたは、大門を出ないから、孤児だから知らないんでしょうけど! だから親子の縁とか言えるのよ! せっかくの機会を、ゴミみたいに投げ捨てることができるのよ!」


 歪んだものとはいえ、お嬢様が笑顔らしき表情を浮かべていたのは、ほんのわずかな間だけだった。お嬢様の、堂々とした明るい表情しか知らなかった千早には、どす黒い顔で彼女に指を突き付けて怒鳴り散らすのは知らない人にしか見えなかった。


「あんたよりはまだマシだから耐えられると思ってたわ。私は身体を売る訳じゃないから。同じ年ごろのあんたがいてくれて本当に良かった──それが、何よ! 実は華族のお嬢様!? 馬鹿にしないでよ!」

「お嬢様──」


 馬鹿にしたりなんかしていない。千早はずっとお嬢様が好きだった。逃がしてくれて感謝していたし、恵まれた幸せな暮らしをしているものだと思っていた。目を逸らしたのは、投げつけられた言葉を受け止めきれなかった、逃避のようなものだっただろう。でも、視線を彷徨わせたことで、千早はようやく気付いた。


(こんなに騒いでいるのに誰も来ない……?)


 若い娘の大声に、暴漢でも現れたかと様子を見に来るのが普通だろうと思うのに。一度気付くと、辺りの様子はさらにおかしい。すぐ近くを多くの人が行き交っているはずなのに、話し声も足音も、まるで気配がしないのだ。

 慌てて朔のほうを振り向くと、彼も気付いていたようで、整った眉を寄せながら頷いた。見渡す仕草をするのは、異常の原因を探ろうとしているのだろうか。


「まやかしの術を使われているな。ほかの人間は、誰も見えていないし聞こえていない……!」


 昨日、渋江家の使いから月虹げっこう楼を隠したのと同じことが、この場でも起きているらしい。


(でも、楼主様がやったことではないなら──)


 狐の葛葉くずのはや、狸の芝鶴しかくにも同じことができるそうだけれど。でも、姐さんたちがこの場に来るはずはなくて──立ち尽くす千早の目の前に、寿々お嬢様の手がにゅっと伸びた。


「千早が来るか不安だったから……形見をくれるか心配だったから……私、九郎助くろすけ稲荷にお参りしたの。そうすれば良いって言われたから。願いが叶いますように、ってお祈りして──あんたが来たってことは、お稲荷様は叶えてくれたのよね!? それは、私のものよね!?」

「お嬢様、落ち着いて……!」


 寿々お嬢様を躱したことで、朔と離れてしまった。草に足を取られてよろめきながら、千早は必死に声を上げる。形見の煙草入れを持ってきたのは、これを見せればお嬢様の気を惹けて、話ができるかと思ったからだった。でも、この様子だと逆効果になってしまったと分かる。今のお嬢様とでは、渋江子爵についてまともに話ができそうにない。


(出直すか……やっぱり、ほかの人に……!?)


 考え事をしながらで、足元の悪い河原で動き続けるのは無理があった、のだろう。千早は何かに躓いて転びかけた。でも、さっきの石段と違って、受け止めてくれたのは朔ではない。馴染みのない体温と体格に、千早の全身が粟立った。ただ、その相手の声だけは、嫌な聞き覚えがある。


「人間がこれほど必死に願掛けするのは久しぶりでしょう。さぞ嬉しいでしょうねえ、ご楼主様?」

「貴方──」


 千早をしっかりと抱えて、口の端が耳元まで裂けるような、狐の本性を透かせた笑みを浮かべていたのは、朔に追い払われて逃げたはずの里見さとみだった。

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