第4話 白と黒と耳と尻尾と

 闇の中に深く沈んでいた千早ちはやの意識が、ゆっくりと浮かび上がる。目を開けると──


「あ、起きた」

「目を覚ました」


 ふたりの女の子が、彼女を見下ろしていた。七つか八つくらいだろうか。やや吊り上がった、ぱっちりとした目に、桃のような丸い頬。紅も刷いていないだろうに紅い唇が、三日月の形に弧を描いている。上げた前髪の生え際の、産毛の柔らかそうなこと。とても可愛らしくて、それに、とてもよく似たふたつの顔。


「え……?」


 寝惚けて視界がぼやけているのかと思って、瞬きをしてみる。でも、目に映るものは変わらない。瓜ふたつの愛らしい女の子が、同じ角度で口元に手をあてて、嬉しそうに笑っている。千早が寝かされた座敷の外に呼び掛ける声も、三味線の同じ弦の同じ個所を弾いたようにそっくりだった。確かに禿かむろはふたりで対になって花魁を引き立てるもので、着物や飾りもお揃いにしたりするけれど、こんな双子みたいな鏡合わせのふたりは珍しい。


「楼主様あ、娘が起きいした」

「起きいしたあ」


 女の子たちが首を捻ると、初々しい桃割れに結った髪が見て取れた。丸いまげを飾る手絡てがらの色は、ひとりが朱鷺とき色、もうひとりが青藍色。なるほど、これで見分けがつけられる。それに──


(耳……?)


 ふたりを区別するのは、ほかにもあった。頭の横から飛び出す三角の「耳」だ。朱鷺色の手絡には黒いの、浅葱のほうは白いの。ぴこぴこと動いて毛が生えていて、思わず触れたくなってしまう。


(尻尾……?)


 さらには、ふたりが纏う振袖の裾から覗く「ふわふわ」だ。「耳」の色と同じ、黒と白の毛に覆われていて、長くてしなやかな──尻尾、としか呼びようがない。化け猫、猫又。そんな言葉が千早の頭をぐるぐると回る。


「早く着替えて下に来やんせ」

「楼主様がお待ちでありんすよ」


 起き上がろうとしない千早に唇を尖らせて、布団を剥ぎ取った女の子たちは、古風な廓言葉を使っていた。私をわっちと呼んで、語尾にありんす、とつけたりする──昔の吉原で、郷里の訛りを隠すために、遊女が使った言葉のはず。でも、御一新以来、そんな習慣はすっかり廃れたと聞いている。花蝶屋でも、そんな言葉遣いをする者は、遣り手のおばさんにだっていなかった。


(子供だから、面白がって使っているとか……?)


 明らかに「普通の」子供ではない──猫の耳と尻尾が生えたこの子たちを、人間の子供と同じに考えて良いのか分からないけれど。


 姐さんたちや客たちがよく苦しんでいる二日酔いというやつは、こんな感じではないだろうか。頭を内側から揺さぶられるような、目眩のような感覚を味わいながら、千早はどうにか身体を起こした。手をついた布団は、花蝶屋で宛がわれていたのよりも三倍は厚いふかふかのものだったから、ここでもまた調子が狂う。こんな上等の布団は、売れっ妓の花魁か楼主の一家でなければ使ってはいけないのだろうに。


 自身の身体を見下ろせば、纏っているのは襦袢一枚。でも、枕元には着ていた小袖が畳まれている。その傍らには、大事に抱えていた荷物もちゃんとある。くたびれた蘇芳すおう色の絣、着古した木綿の感触に、やっとひと息吐くことができた気がする。


「貴女たちが畳んでくれたの?」


 少し崩れた小袖の様子は、子供が懸命に仕事をした姿が思い浮かんで微笑ましかった。千早が問うと、黒と白の「耳」の先が、得意げにぴくぴくと動いた。


「あい」

「ささ、早く、早く」


 女の子たちがまとわりつくのは、仔猫にじゃれつかれるようだった。寿々お嬢様が飼っている三毛の若菜わかなは、日向で寝ているばかりだというのにずいぶんな違いだ。


(この子たちが……ここが、何なのか──それは、まだ、分からないけれど)


 心を緩めて、良いのだろうか。悪いようにはされないと──吉原にあって若い娘が甘い考えを抱くのは禁物なのだろうけれど。布団の柔らかさに、禿たちの愛らしさに、心がふわふわとするのを抑えられなかった。


 手伝われたのか邪魔をされたのか、それもまた分からないような有り様で、千早はどうにか帯を締めて、乱れた髪を梳き直した。身なりを整えることで、気持ちも少しは落ち着いた。これで、あの綺麗な人の前にも出られそうだ。


 楼主様というのは、きっとあの人のことだから。


      * * *


 猫耳尻尾の禿たちに手を引かれて、千早は内所ないしょに案内された。暖簾の向こうに広がっていた土間のさらに奥、楼主が見世を見渡す場所のことだ。花蝶屋の楼主、寿々お嬢様の父がいつも腰を据えている場所でもあるから、初めての建物でも戸惑うことなく足を進めることができた。遊郭というものは、たぶん、多かれ少なかれ似たような構造なのだろう。ただ──


(すごく、明るくて綺麗だわ……)


 とろりとした飴色に磨かれた床にそっと足を乗せながら、千早はきょろきょろと辺りを見渡した。それは、花蝶屋だって毎日のように彼女たちが雑巾がけをしていたから清潔さでは劣らないはずなのだけれど、それだけの話ではない。いくら間仕切りをなくして窓を開けて採光を良くしても、建物の中とは薄暗いものなのだろうに。遊郭ならば、灯りを点す夜のほうが明るいかもしれないほどだ。客もいない日中に石油ランプを点すのは不経済だし、そもそも独特の臭いもしない。この見世には、何か変わった仕掛けでもあるのか──それとも、仕掛けが「ない」のに「こう」だったりして?


 埒もないことを考えながら内所に入ると、い草の青い香りが爽やかに匂い立っていた。季節ごとに畳を張り替えることができるなら、やはりここはとても格式が高い見世なのかもしれない。だって、千早に用意された座布団も、花菱模様を刺繍した絹のもの、木綿の着物でお尻を乗せるには、恐れ多いほどの品だった。


「娘をお連れいたしいした」

「ああ、ご苦労」


 恐れ多いというなら、楼主という人と差し向かいになることも、だけれど。神棚を背に、長火鉢を傍らに。銀細工の煙管きせるを手に弄びつつ、千早を待っていたのは──やはりあの綺麗な大島紬の人だった。さっきはあんなに間近に見つめられて、触れられさえしたのを思い出すと、自然、千早の頬は熱くなってしまう。


「ただ今、お茶をお淹れいたしんす」


 猫耳と尻尾の禿たちが、可愛らしくお辞儀をしてから退出すると、空気がぴりりと張りつめたような気がした。といっても、花蝶屋の楼主の前に出た時のように、何かしらで叱られるのか折檻されるのかを恐れる、嫌な感じではない。喩えるなら──そう、琴でも三味線でも、名手の演奏が始まるのを待つ時のような。


「顔色は悪くないな。良かった」


 だって、綺麗な人は声も澄んで、音楽のように綺麗だから。必死だったとはいえ、着物を掴んで訴えるなんて、よくもあんな大胆なことができたものだ。今さらながら、はしたなさと図々しさに、消え入りたい気分だった。


「驚かせて申し訳ないことをしましたねえ」


 綺麗な人の脇には、柔和な笑みの四郎しろうも控えている。そう、笑顔が見えるからには、彼の目鼻はちゃんとあるべき場所についている。それでも、卒倒するほど驚いた記憶がよみがえると、千早の顔は引き攣って、喉はとたんに干上がった。でも、また同じことをするなんて、恩知らずにもほどがあるだろう。


「いいえ……私こそ」


 やっと、まともに声を出すことができた。そして、深呼吸すること、数度。心を落ち着けて居住まいを質してから、千早は畳に掌をつき、深く丁寧に頭を下げた。

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