ジャック・ザ・リッパーvs荊軻 4
『と、倒壊した三階建て……二人共、下敷きに――』
“
両手の手刀で切り開いた大穴から、ジャックが這い出て来る。
体中に着いた塵や埃を叩き落としながら、下敷きになったはずの荊軻を見下ろし。
「これにて、終い……閉幕です、な」
「常勝が、勝鬨の場を誤ってはいけやせんよ」
背筋に悪寒が走るような感覚。
ふと背後に感じた殺気と悪寒とに促されて背後に目をやると、ジャックが手刀で開けたよりも綺麗な真円が描かれて、落ちたと思った瞬間。荊軻がせり上がって来た。
「もう終わりと思いんした? やっと終わったと、思いんした? 否、否、否……拙を殺せるのはこの世で一人。世界最初の皇帝だけでありんす」
真円を描いた匕首が、真っ直ぐに、上から下へと振り下ろされる。
描いた軌跡に残された斬撃が無色透明な像を両断した時、荊軻の双眸が万華鏡のように転じた。
「躯体を映せ、匕首」
無色透明。不可視の虚像は両断されても、ジャックの体に傷一つ付かない。
が、荊軻が匕首を振り下ろしてから、ジャックの身に確かな異変があった。
体が、熱を感じない。
先程まで肌寒いと思っていたのに、走って汗を掻いた体に染みるとさえ思っていたのに、今は何も感じない。
それに、感触もない。
手袋をしている感覚がない。マントをしている感覚がない。ハットを被っている感覚も、服を着ている感覚もない。
さながら裸一貫で立ち尽くす変温動物にでもなったかのように、ジャックの肌は何も感じなくなっていた。
「あなた。私に一体、何を……」
一笑した荊軻は匕首を投擲。
近くにあったドローンを撃ち落とし、糸を手繰って投擲した匕首を回収した。
「これで声は聞かれませんでありんしょ。故に、先に答えだけ教えるでありんす」
「何……?」
「拙の能力。それは、毒。この身、この体に流れる体液の全てが、毒」
自身の手を貫く荊軻に、痛む様子はない。
短い悲鳴を発する観客に見せ付ける様に、新たに飛んで来たドローンカメラへと、自ら貫いた手を見せ付ける。
「おんしの罠を解除するため、この匕首で糸を斬りまくりんした。それもまた、罠を解除するのみに非ず。この匕首にも、拙の血から作った致死毒が染み込ませてありやす。そしてこの都市、街の至る箇所にも、匕首で切り傷を付けやした。無味無臭。すぐに気化する。そんな毒を」
だが、それだけでは説明し切れていない。
これまで披露して来た三つの合図からなる匕首の異能は、とても毒に穢されているだけとは思えない影響ばかり。
影の喪失。異様な虚脱感。そして、感触の消失。
「それだけじゃあ……ない、ですよ、ね……?」
「……然り」
荊軻の雰囲気がガラリと変わる。
第一の生涯より因縁浅く。第二の人生においても関わる事無く。現世においても殺すだけの一方的関係だったジャックに、荊軻の正体がわかるはずもない。
まるで皇族とそれに関わる親族のようだなどと、そんな感想を持つはずもなかった。
大酒飲みの飲んだくれも影。
品性を意識した口調と拙の一人称も影。
本性はこれ。この姿。
血に塗れて汚れる事知らず。
反吐に塗れて損なわれる品格を知らず。
其は歴史に刻まれずとも、歴史の隅にさえ遺されずとも、曰く、かの皇帝の子を産み落とせし側室の一人。
故に、ジャック・ザ・リッパー。たかが切り裂き魔に、その身穢される事を知らず。
「朕の匕首は、殺し方を選ぶ。影諸共灰となって消え去るか。骨を失い、肉塊となって朽ちるか。肉を失い、骨を残して死ぬか。そして――この歴史そのものから、存在そのものを失うか」
舞台が一挙に赤く染まる。
無色無臭だった荊軻の毒が血の色を帯び、血と同じ異臭を放って埋め尽くす。
かつてロンドンを恐怖のどん底にまで貶めた切り裂き魔でさえ、実際に見た事がない。ロンドンが血の色。血の雲海に沈んでいる光景など。
今、ロンドンが狂気に満ちている。恐怖に落ちている。
最初の嘔吐から既に布石。
罠の破壊さえ布石の延長線。
走りながら、時間を掛けながら、彼女は必勝の陣形を固めていた。
何が敗者。誰が歴史改竄失敗者。もしも相手が始皇帝でなければ、絶対に成功していたのではないかとさえ思えるほど有能で、強力な力ではないか。
「上の空とは、朕の力を甘く見ておる証拠よな……天蓋落として羽衣纏い、日の星落として虹彩燃やさん――“
南條だけが、荊軻の勝利を確信していた。
南條だけが、荊軻の奥の手を知っている。能力の内容は知ると死ぬので知らないが、その中二病患者が付けたような名前だけは知っていた。
刻限は十。
十数えるまでに決めなければならない。選ばなければならない。自分の最期を。自分に最も相応しいと思う死に様を。
しかしおそらく、人はどうしようもないくらいに抗いたくなる生き物だ。相手に選択の余地を与えると、新たな選択肢を提言したくなるものだ。
人は、本来死を恐れる生き物だ。
それはきっと、おそらく、切り裂き魔だって例外ではない。
「くっ、くかっ! くきかかっ! 奇貨! 奇禍! きか!!!」
否――どちらでもない。
これは、天恵だ。
「“
ジャック・ザ・リッパー最高の奥の手。
触れた物全てを壊し、触れた者全てを殺す両手。
媒介として自身の血液を大量に消費するのだが、今のような状況では構わない。
猶予は十秒。
十秒で肉薄し、触れ、殺す。
簡単なようで簡単ではない。だがやるしかない。やらなければ自分が死ぬ。
その生と死の境を行き来しているような感覚が堪らなくて、背筋のゾクゾクが止まらなくて、手の震えが止まらなくて、笑いが止まらなかった。
一方的に殺す側だった。
いつだって悲鳴を上げるのは、絶望するのは、死ぬのは相手だった。
殺しに行って殺し返される事もなければ、殺し返そうと度胸を見せる者もいなかったから、とても、とても、とてもとてもとても寂しかったし、恋しかった。
そう、寂しかったのだ。そう、恋しかったのだ。
今、自分が殺されそうになっている事で気付いた。三度目の人生でようやく知った。殺される側の気持ちを。
こんなにも――面白いだなんて。楽しいだなんて思いもしなかった。
『窮鼠猫を嚙む』という言葉が日の本にはあるらしいが、その言葉の意味がずっと理解出来なかった。ずっと猫の立場だったが、噛んで来たネズミなど一匹もいなかったからだ。
だがジャックは、本来の意味合いとはまるで違う意味で体感していた。
恐ろしいだなんて思わない。怖いだなんて思わない。畏怖も恐怖もなく、ただただ相手を殺す事。殺さなければ自分が殺されるそのスリルを、殺人鬼は十秒という時間で堪能していた。
故に、選ばない。
肉塊になろうが、骨だけになろうが、何も残せず死に逝こうが、どうでもいいし何でもいい。
殺したい。殺したい。心の底から殺したい。今目の前の、自分を殺そうとしている相手を殺したい。こんなにも誰かを殺したくなったのは、いつ以来だろうか。
殺人鬼としての衝動が奔る。
殺人鬼としての本能が目覚める。
殺人鬼の才能しかなかった自分が、ようやく才能を生かす時が来たと思った。生かすべき時が来たと思った。
相手が誰かなんて、もうどうでもよかった。
「サァ! 共に殺し合いま、しょう!!!」
ジャックの魔の手が、迫る。
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