第40話 2004年 ~わたしはただ、眠りたいだけなのに……-3

 地図が、展開された。

 知っている日本の地図ではない。どこか外国か、とも思ったけれど、地名は明らかな日本語で表記されており、それも違う、と分かる。

 地図の中央付近には白い塔が描かれている。その周囲には高くそびえたつ山々と、そしておどろおどろしいモンスターの絵柄が描かれている。

 わたしの脳内には、次から次へと情報が注ぎ込まれてくる。

 ――そうだ。

 わたしは認識する。

 今から旅の仲間を集め、この白い塔へ向かうのだ。そして、ヘヴィメタルウォーリアーの称号を授けてもらうのだ。

 そのために、まずは経験値を積み、モンスターに負けない武器を手に入れなければならない。

 そう決意した途端、重力が戻ってきたように感じられた。オレンジ色の街の風景が、戻ってくる。今までは感じることができなかった住民達の息使い、そして街のざわめきが、肌に感じられる。

 ふと視線を落としてみると、いつの間にか浅黒いローブを身に着けていた。手には、不恰好に湾曲した樫の木の杖が握りしめられている。


「魔導師さん」

 背後から声が聞こえ、振り返る。

 逆光の中に佇んでいるその小さな影が、こちらに歩いてくる。一歩一歩、踏み出すごとに、小脇におさめられた剣の鞘が揺れる。

 目の前で立ち止まったシルエットが、手を差し出してくる。

「さあ、行こう。共にあの『最期の塔』へ」

 握りしめたその手は、思いのほか小さく、そして冷たく柔らかかった。

 


 ここで一旦、わたしの記憶は途絶える。



 ――これはいったい、どういうことなんでしょうか?

 どこかから、声が響いてくる。

 わたしの声ではない。

 ――間違いない。

 ――これこそが、ヘヴィメタル症候群の最終形態です。

 ヘヴィメタル、という言葉が、体の中で反響している。

 呼応するように、ヘヴィメタルウォーリアー、というフレーズが心の奥底から湧き上がってくる。

 ――東欧のあの時も、カオスの時も?

 ――知られてはいないけど、どちらでも数例報告されている。

 ――聞いたことがないが。

 ――ああ、それは実は……。

 つかみかけていた意識の糸がまた遠くなっていく。

茫洋とではあるが展開されようとしていた視界が、急速に小さくなって、そして途切れた。



 わたしが目覚めたときにまず目にしたのは、真っ白い天井だった。よく見ると、蛍光灯が三対ほど確認できた。無機質な白色光が灯されている。

 体を起こすと、部屋全体を視界にとらえることができた。硬質な白い壁に覆われた、殺風景な部屋だ。テレビもなければ、オーディオもない。それどころか、家具らしきものの姿がなにも見当たらない。そのせいか、生活感が欠如している。少なくともわたしの知っている場所ではない。

 ふと手元に目を落とすと、そこには腕があった。見慣れない肌色が、そこにあった。見慣れない指先がシーツをつかんでいる。

「――あれ」

 声が聞こえてきた。そちらに顔を向けようとしたけれど、なぜか異様に頭が重く、思うように動かせない。

「起きたのかい?」

 その声の主が、わたしの前にまわってきた。

 少し顔を上げるだけで、男の顔を視野にとらえることができた。

 無造作に髭を伸ばした中肉中背の中年男性だ。白衣を着ている。おそらく医者なのだろう。

 面識はない。少なくとも、わたしの方は覚えていない。

「ここがどこか……なぜ自分がここにいるか、わかるかい――と、まあ分かるわけないな」

 そういうと、男は柔和な笑みを見せた。目じりに刻まれたしわが、なぜか目についた。

 男のいうように、当然わたしはなぜここにいるのか、わからない。この状況からの推測としては、おそらく、事故にあったか病気になったか、そのどちらかによって病院に入院していたのだろう。しかし、なぜこうなっているのかは全くわからない。

わたしがただ黙っていると、男が続けていった。

「そうだな……まず、自分が誰だか、わかるかな? 名前をいってみてくれないか?」

 それならわかる。

「わたしは……」

 声が、おかしい。いつものものではない。

 一度、咳払いをすると、その咳にすら違和感を覚えた。

「わたしは」

 再度、声を出してみたけれど、やはり聞いたことがないような低い声だ。

「君の名は?」

 男が助け船を出してきた。

「わたしは」違和感はあるものの、それでも、続けていった。

「水瀬……春紀、です」

 この答えに、そうだ、と手を打った男は、

「偶然というかなんというか、幸い君は男女いずれにも使えるような名前だった。これからも、その名前を使えばいいだろう」

 なにをいわれているのか、わからなかった。

 わたしにはわからない言葉で話されているようだ。

「だが、今までの人間関係や戸籍などは、ごまかすことはできない。君は一度死に、そして生まれ変わったのだ。日本では初めての症例だが、心配しなくてもいい。そのあたりは私がなんとかする」

「いったい――」

 野太い声。無骨な腕、そして先ほどから感じている下半身の違和感――。

 うっすらと、頭のなかに状況が推測されてくる。

「私と……そして、楢崎君が、君を生まれ変わらせる」

 ――楢崎。

 その言葉が、一気にわたしの意識を呼び戻し、そして全身に冷や汗が流れる。

 我知らず、わたしは体を起こして立ち上がろうとしていた。そしてバランスを崩し、男があわてて駆け寄るのを視界におさめながら、地面に転がった。硬くて白い、リノリウムの床が、視界に広がる。

「大丈夫か!」

 無理をするな、とどこかから聞こえてきた。

 その体に慣れるまでは、とも男がいうのが、耳に入ってきた。

 わたしは目を閉じた。

 なにが起こったのかは、なんとなく認識された。理解はできないけれど、これが現実なのだろう。

 それでも、わたしはどこか上の空で、他人事のようにその事象をただただ字面だけで追っているだけだった。とにかく、眠りたかった。強い酒でもなんでも、あるなら一気に飲み干して意識を失いたかった。

 

 ――ヘヴィメタルウォーリアーになる覚悟があるか?

 

 体の中でこのフレーズが反響し、直接鼓膜が震えているように感じられる。

 いったい何のことなのか、わからない。

 ヘヴィメタル、といわれても、不思議となにも感じない。空疎なフレーズだ。

 なんなのだろう。なにをいっているのだろう。わたしはただ、眠りたいだけなのに。わたしはただ、消え去りたいだけなのに。ああそういえばもう、わたしは居なくなったのだ。それなら、ここにある意識は誰のものなのか。

 わたしは消えてしまったのに。

 いなくなってしまったのに。

 それなのに、わたしは――。

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