第36話 2015年 ~春紀君に聞いていないのなら……-3

「京津大学では」

 ぽつり、と、唐突に楢崎が口を開いた。

「もちろん別の課題を持ちながらだけど、ずっとヘヴィメタル症候群を追いかけていたんだ。まあ……説明すると長くなるけど、結論からいうと、原因は分からなかったよ」

 それはそうなのだろう。わかっていたら、メタル界を取り巻く状況も変わっていただろう。

「あっちは音響の専門だからね。音に関しては超一流の人材がそろっていたし、私自身も色々と勉強になる部分があったから、よかったとは思っているんだ」

「でも、けっきょくはわからなかった、と……」

「まあ、言い訳にはなるけど全員でその研究をしていたわけでもないし、それぞれが別の主テーマを抱えながら片手間にやっていたからね。忙しい時はこっちに手を出すことができずに半年とか、下手したら一年が経っていたり……」

「一年……ですか」

「そう。まあ、仕方ない。一社会人として、仕事は仕事だからね」

 そいって乾いた笑みを浮かべる楢崎。

 そういえば、目の前にいるのは楢崎『教授』なのだ。若くして教授になっているうえに、年齢よりもさらに若く見えるため、思いのほか気を使わずに話が出来ているが、よく考えてみると今対応してくれていること自体が稀有なことなのかもしれない。

「それで、けっきょく……移ることを検討し始めたのは、五年以上経ってからだったね」

「やっぱり、もっとヘヴィメタル症候群の研究が出来る環境がほしかった、ということですか?」

「うーん。それもあるけど……」

 楢崎は口ごもりながら、視線を上に向けてから、こちらへ目を向けてきた。じっとしばらく見つめられ、瑠奈の方がなぜだか少し恥ずかしくなって視線をそらしてしまった。

「音響のほうだけから攻めるのも限界があるかな、と思ったんだよ」

「ああ……」

 そういわれて、思い出した。ここは理系のなかでも生理学系の建屋だったのだ。

「音が人体に与える影響を解明するのに、ただただ、音響機器に囲まれていてもそれは無理だろう、と思った。それならば、次は人体にターゲットを絞ればいいんじゃないか、と発想を変えたんだよ。もちろん、音響のことが知りたければ前の大学に聞きに行けばいいわけだしね。――それはそうと」

 というと、ちら、とこちらを見る楢崎。

 こんどは目が合ってしまい、どきりと心臓が跳ねる。なぜだろう。人を射すくめる独特の目をしている。

「君は春紀君からどこまで聞いているのかな?」

「えっ? 先輩からですか? どこまで、といっても、そういえばそんなには聞いてないかも……」

 今日市川から聞いたこと以上の情報はない。その他、メタルの話であれば色々と聞いたのだが、ことヘヴィメタル症候群の話になると途端に口が重くなるのだ。

「そうか……それなら、私もこれ以上いうわけにはいかないな」

「え? それは……どうしてですか?」

 このストレートな問いに、楢崎が吹き出すように笑い出した。

「それがいえるなら、苦労はしない」

「はあ……」

 瑠奈が少しむっとして口をつぐむと、

「……そうだな、まあ、あの時は――」

 と、楢崎がすぐに取り繕うようにいった。

 ひょっとしたら、このまま駄々をこね続けたら全部吐きだしてくれるのではないか、とふと思ってしまう。

「あの〈キング・オブ・メタル〉のライブは、私もみていたんだが、やはり何か変な感じだったな……」

「変な感じ、とは?」

「こんな非論理的なことをあまり言いたくないんだけど、あの瞬間は神々しさを感じたね」

「神々しさ……ですか」

 ふと、胡桃の姿が頭に浮かんで、漠然とした不安に襲われる。しかし、彼女はすでに回復して日常に戻っているのだ。だけど――。

「その、具体的には、二者択一問題とかは――」

 瑠奈が身を乗りだして話し始めた矢先、携帯電話が鳴りはじめる。自分のものだとすぐに気づいた瑠奈は、すいません、といって鞄から取り出し、ディスプレイに目をやる。『ユグドラシル』という文字が躍っている。


 悪い予感を抱えながら電話に出ると、案の上、興奮した様子のユグドラシルが電話口にまくし立ててくる。どこか外からかけてきているのか、周囲がやかましくてなかなか聞き取れなかったが、どうもまたどこかでヘヴィメタル症候群が発生したということは間違いないらしい。それも、たった今、ということだ。


 瑠奈が場所を聞き出して、すぐに行く、という旨を伝えて電話を切ると、

「また起こったのか?」

 いつになく真剣な眼差しで、楢崎がいった。

「ええ……そうみたいです。場所は――」

 と、住所とライブハウスの名前を書いた紙を見せると、

「知らないな……新しいライブハウスかい?」

「いえ……私も知りません」

「そうか」

「すいません。自分から来ておいてアレなんですが、今から行かないといけないことになりました」

「もちろん、留める気はないよ」

「あの……もしよければ、ご一緒しませんか?」

 いってから、しまった、と気づいた。仮にも研究室の教授なのだ。平日の昼間から、行けるわけがない。

 しかし、そんな瑠奈の思いに反して、楢崎は『もちろん行く』という感情が視線に現れるほど、こちらになにかを訴えかけてきていた。それでも、けっきょくは思いとどまったのか、

「――いや、やめておこう。また、なにかわかったら知らせてくれると、こちらもありがたい」

「あ、はい。それでは、また来させていただきます」

 一度背を向け研究室を後にしかけたが、一つだけ、訊きたいことを思い出し、振り返る。

 楢崎はまだ、その場に立っていた。こちらの視線に気づき、首をかしげる。

「あの――。最後に一つだけ、いいですか?」

 楢崎が、無言で頷く。

「ヘヴィメタル症候群は女性……それも若い女性が多いのは知っていますね?」

「ああ」

「〈キング・オブ・メタル〉のギタリストの女性も、そうだったんですよね?」

「そう……だね」

「死んだ――と、そう聞きました」

「春紀君からかい?」

 瑠奈は迷わず首肯する。本当は胡桃からの情報だったのだが、この際どちらでも構わないだろう。

「まあ、そうだな」

 うん、そうだそうだ、と半ば自分にいい聞かせるようにいい、そして――。

「私の恋人だった」と、言葉を吐きだした。

 その後、何か話が続くかとしばらく待ったが、そのまま口を閉ざす。

「失礼ですが、先生はご結婚されているんですか?」

 この質問は意外だったのか、一瞬首をかしげた楢崎は、それでも微笑を浮かべながら首を振る。

「やっぱり、その――」

 瑠奈は口ごもると、逆に楢崎がふっと吹き出すような小さな笑い声を発したあと、

「そのときのことを引きずって結婚しないのか――。と、そういいたいのかい?」

「あの……はい。そうです」

 なぜか言いはじめた自分の方が恥ずかしくなる。

「さあ、どうだろうな……いずれにしても、私はこの仕事――ヘヴィメタル症候群の原因究明をすることしか、今は考えられないな。そうだな、結婚、ね……」

 意外にも考え込んでしまう楢崎に、瑠奈は頭を下げる。

「ありがとうございます。すいません、失礼なことを聞きました。……もう行きます」

「またいつでも来てくれ」

そういう楢崎の表情には、事務的な笑みが戻っている。

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