第14話 2015年 ~ヘヴィメタルのためなら…… -14

 その後はどこか白けた空気が流れつつも、メタル談義が続いた。次回からバンドとしてどんな曲をやっていくのか、それはうやむやのまま、会は終わりを迎えた。

 ユグドラシルは、ソファに座って酒を飲み、そのままソファにその小さな体を横たえて寝息を立て始めている。おれには一番小さな和室に布団をしいてくれているようだ。そして、瑠奈と胡桃は二人、奥の寝室に消えていく。


 布団に入るとすぐに眠気に襲われた。

 まどろみの中、フラッシュバックしてくるのは、夕方のバンド練習の映像だ。

 おれはドラムを叩いていたが、いつしかドラムスティックはギターのピックに持ち替えられる。たずさえているのは、黒いギターだ。そのピッキングハーモニクスの響きに、ヘヴィメタルファンであれば皆、悶えたものだった。


 ふわり、と鼻先をくすぐられたような感覚に、目を覚ました。

 艶のある髪が視界を覆い、次の瞬間にはシャンプーの香りが鼻腔に届いた。


「なっ――」

 目と鼻の先に、胡桃の顔があった。

 その切れ長の目はいつもよりもおとなしくこじんまりとしている。化粧を落としているせいだろう。じっとこちらを見て、ゆっくりとその手をおれの腕にまわしてきたところで、おれは掛布団をはねのけて体を起こした。


 部屋の隅にある青い小さなランプに、胡桃の姿が浮かび上がる。驚くことにすでに布団の中に入ってきていたらしく、よく見るとおれの隣に横になる形で寝転んでいる。

 白いワンピース型の寝間着の裾からは、白い太ももがちらりと見える。ボタンをちゃんと上まで閉じていないのか、肩からずり落ちそうなほどはだけ、胸の谷間までしっかり見えるほど肌が露出している。

 おそらく角度を変えればその小さな乳房をすべて視界にいれられるのではないか、とまで考えてしまってから、もう一度胡桃の顔に視線を移した。


 胡桃は、まだ、じっとこちらを見据えていた。

「なにを……しているのかな?」

 ようやく、それだけ言葉が出てくる。

「ハルキさん」

 青白く幻想的な姿態が、淡い光に浮かび上がり、固まっているおれに、ゆっくりと近づいてくる。その両手がおれの肩から両腕、そして背中にまわされ体が重なる。胸のあたりに、柔らかい塊が当たっているのがわかる。髪がさらさらと頬をくすぐったあと、やわらかいものが触れる。思わずそちらに顔を向けると、唇に濡れた何か――胡桃の唇が重なる。

 なにかを考える前に口の中に温かく粘液を伴った舌が侵入してきて、それはすぐに口内を暴れまわる。頭のなかが真っ白になり、冷静になにかを考えようとする前に、思いのほか強い力で体を押し倒される。口の中にはそのまま舌が暴れまわっている。

 ぐい、とシャツを引っ張られ、ボタンが一つ、はじけ飛んだような気がした。そして、ズボンの股間の部分に手が触れた瞬間、ようやく本格的に目が覚め思考が働くようになってくる。まずは頭を振って顔を引き離し、そして上から覆いかぶさってくる少女を両側から掴んで、無理やり引きはがした。

 きょとん、としたいつもの胡桃の顔が、そこにあった。ただその唇は唾液に濡れている。片側の服が完全にはだけ、乳房があらわになっているのに気づき、思わず目を逸らした。


「どういうつもりだ」

 おれは視線をそらせたまま、小声で叫ぶ。

「となりでは瑠奈が……お姉さんが寝ているんだぞ……っと、いや、そういう問題ではなくて」

「じゃあ、どういう問題?」

 まだ、頭がうまく働かない。

「どういうって――」

「いいじゃん」

 軽くそういった胡桃が、はだけた寝間着をようやく直したところで、こちらに近寄ってくる。おれは振り返るが、少し体を引く。

「いいじゃん。だってしたいんだもん」

「したいって、なにを……」

 ずりずりと畳をすりながら、こちらに近寄ってきて

「セックス」

 囁くように、いつものかすれた声で平然という。視線はこちらに据えたままだ。

「それとも、ここで服を脱いで大声を出してみようかな」

 フフフ、と口に手を当て、笑う。

 いつもの胡桃の笑顔だ。

 なにがなんなのかわからない。

 ひょっとすると、これが世代の差なのか? 今どきの子達にとっては日常茶飯事のことなのだろうか? 

 どうすればいいのか考えがまとまらないまま、

「わかった。だけど、ちょっとまってくれ。考えておくから」

 と結局なんなのかよくわからない答えをすると、

「わかりました」

 と同じように応じた胡桃がいそいそと布団に戻り、こちらを手招きする。

「じゃあ、襲うようなことはしませんから、とりあえず一緒に寝てください。それでその気になったらいってください」

 ささ、早く早く、という胡桃の仕草に誘われるまま、まあそれが妥協案としては適当か、と麻痺してきているおれの頭はそう判断して、一緒に布団に入った。


 ぴたりと体を寄せてきて、そのままの体勢で二人ともしばらく微動だにしない。

 そろそろ寝たのではないか、と感じ始めた矢先、

「あの、女の人ですか?」

「女の人?」

「『シルバーメタル』のジャケットの」

「ああ――彼女が、どうかした?」

「付き合ってたんですか?」

 淡々と、乾いた声で、訊いてくる胡桃に、

「違うよ」と、断じて、

「おれと彼女はそんな関係じゃない」

「もうメタルをやらない……って、彼女に関係がある?」

 微妙な質問だ。

 関係はある。しかし、そういう問題ではない、といえばそうだ。

「彼女は」

 と、おれははぐらかして別の答えを返すことにした。

「死んだよ……もう八年ぐらい前かな」

「えっ?」

 びくり、と胡桃の体が反応したのがわかった。

「だって……あの『シルバーメタル』を作ったのもその頃じゃ……」

「そうだ。あれが彼女の遺作だ。そして、『キング・オブ・メタル』にとっても、あのアルバム製作が、その活動の最後になった。おれの中のヘヴィメタルも、そこで終わったんだ」

 それが嘘偽りのない事実だ。

 胡桃はなにも言葉を返さなかった。

 しばらくは沈黙の時間がすぎた。

 かち、かち、と、どこからか聞こえてくる時計の針が進む音がいやに耳についた。こんなときは、決まって眠れないのだ。


「ハルキさん」

 胡桃が、ぽつり、といった。

「わたし、変ですかね?」

「ん?」

「最近、なにがなんだかわからないんですけど、こうやって男の人に抱いてもらいたくて仕方がないんです……変、ですかね?」

「いや……普通なんじゃないか?」

 思春期の悩みを打ち明けられるのが新鮮で、どう答えていいのか分からない。たしかにどうにも歯止めがきかなくなる年頃なのかもしれない。

 男の人に抱いてもらいたくて、ということは、今までも何度もこんなことがあったのだろうか? と一瞬なぜか嫉妬にも似た気持ちが湧き上がってくるが、当然聞くことはできなかった。


「まあ、人それぞれだしね」

 結局、当たり障りなくなんの解決にもならない言葉しか出てこない。

「そうですか」

 胡桃は体を縮めたまま、

「じゃあ、明日、一緒に来てくれませんか? ライブがあるんです。ユグドラシルがチケットを持っているんですけど、何枚か余ってるみたいです。まあ当日券も買えるぐらいのものですけど」

 なにが『じゃあ』なのか文脈がよくわからないが、

「明日は特に予定も入れてないからいいけど……まあ、当然ヘヴィメタルのライブなんだよな……」

「もちろん……ダメ?」

 首を回してこちらへ向き直り、そのままも布団の中でもぞもぞと動きながら、こちらに顔を寄せてくる。その息遣いがわかるほどに、顔を寄せてきている。目が合った瞬間、おれはなにもいえなくなる。

「ダメ?」

 もう一度、胡桃が訊いてくる。

 この問いに、おれは喉の奥でぐう、とうなるだけで、なにも返せない。

 と、なにを勘違いしたのか、それともわざとなのか、

「よし!」

 頷いた胡桃は、先ほどまでの沈んだ声が嘘のように、

「じゃあ、明日は夕方四時半に、南阪茶屋駅の改札で。よろしくお願いします」

 むしろ楽しげな、囁き声で、いった。

 仕方がない。見るだけだ。

 おれは自分を納得させる。

「オーケー」

 そう答えながらも、このまま朝になってしまったらどうしようか、とそのことを考え始め、それでも睡眠欲には勝てず、いつしか眠りについていた。

 

 翌朝、八時ごろに目が覚めたときには隣に胡桃はいなかった。

 ひょっとすると夢だったのか、とふと思ったが、シャツのボタンが一つなくなっているのがわかり、事実だったことを確認した。

 さらにおれのものではありえない長い黒髪が布団に何本か残っており、思わず他にも残っていないかどうかを探しまわった。

 その他、胡桃がいた痕跡を消し去るべく部屋の隅々を物色しているときに、唐突に襖が広げられ、瑠奈が入ってきた。なぜか冷やりとして、その後家を出るまでまともに瑠奈の顔を見られなかった。


 帰りにリビングを通ると、ソファに昨夜の姿勢のままのユグドラシルが、死んだように寝ていた。

 胡桃は、おれが家を出るまで一度も顔を見せなかった。

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