狐に嫁入り神隠し

ヨシコ

狐に嫁入り神隠し

「ほうら、お逃げ」


 男は、上半分だけの白い狐面で顔を隠していた。

 真っ白な水干姿に所々見える飾り紐は禍々しい血色。裂けたように歪む口元から、鋭い犬歯が覗いている。


「お逃げ」


 男が一歩を踏み出すと、その動きに合わせ、りぃん……とどこかで鈴の音が鳴った。


 男の動きに合わせ、わたしも一歩後退する。意識の外で脚が勝手に動いた。


 りぃん……


 男が、更に一歩。

 わたしも、一歩下がる。


「逃げて」


 囁くように、男が言う。


 怖い。


 声も出せないぐらい、怖い。


 まるで滝のように涙が溢れて零れる。頬を濡らし顎を伝い、落ちる。

 歯の根が合わない。かちかちと、触れ合う歯がわたしの口の中で小さな音を立てる。


「逃げて」


 りぃん……


「逃げて。逃げて。逃げて。逃げて。逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて」


 怯えるわたしを嘲笑うように、哄笑の如く男は狂ったように同じ言葉を繰り返す。


 その異様さに、わたしは制服のスカートをひるがえして背を向けた。

 脚が震えて縺れる。

 うまくバランスが取れない。


 それでも、逃げないといけない。


 必死で走って逃げているのに、男の嘲笑は直ぐ傍にいるみたいに離れない。

 背後を振り返る。わたしが走った分だけ、男との距離は離れている。


 それなのに、声だけが離れない。


 走って走って走って走って走って、走り続けているその時、ふいにその声はぴたりと止まった。


「――捕まえたら、次は右のかいなを」


 耳元で囁かれているように、その声は聴こえた。


 声だけが、すぐ近くに。



 * 



 神楽の笛の音が、何もない空間にこだまする。


 どこから聴こえてきているのかわからない。でも、笛の音以外、何も聴こえない。


 わたしはただ脚を交互に動かしていた。

 何処かへ向けて歩み続けているがどこへ向かっているのかはわからない。ここがどこかすらもわからないでただ歩き続けている。


 今日は、夏休み前の最後の登校日だった。

 友人と三日後に駅前のショッピングモールへ行く約束をして、短い別れを告げて下校した。

 下校したのは陽がのぼり切ったちょうど正午ぐらい。

 毎日の登下校で近くを通る稲荷神社の辺りで天気雨に当たって、境内で雨宿りをした。

 ちょうど稲荷神社だし、狐の嫁入りだね、なんて古風ぶって空を見上げたまでは覚えている。


 そこから先が、はっきりしない。


 夏のきつい日差しと湿度の高さと気温、急に降られた雨で、半袖のセーラー服も短いスカートも濡れてしまっていたはずなのに、今はもう、すっかり乾いている。


 暑くもなく、寒くもなく、風もなく、陽の光もない。

 暗くもなく、明るくもなく、色のないただの空間。

 建物も、草も、土も、コンクリートも電柱も電線も、地面も何もない場所にいた。

 気が付けば、ただ何もない空間をぼんやりと歩いていた。


 笛の音が聴こえる。


 背負っていたはずのリュックは消えていて、スカートのポケットに入っているのはスマホだけ。そのスマホも電源が落ちているようで、電源を入れようとしても画面はずっと暗いままでうんともすんとも言ってはくれない。


 どれくらい歩いただろう。


 時計も無く、景色どころか周囲には何もない。もうかなりの距離を歩いた気がするけど、それを計るものが何もない。

 ただわたしの中の疲労だけが、歩いた距離の長さを物語っている。


 でも、脚を止めてはいけない気がする。


 りぃん……と、どこかで鈴の音が鳴った。


 どうしてこんなことになっているのか、ここはどこなのか、どこに向かっているのか、何一つわからない。

 でも、確信のような、勘のような、強いて言うなら第六感のような何かが働いて、今まで信じてもいなかったようなその何かで、思うことがある。


 脚を、止めてはいけない。

 歩き続けなければならない。

 諦めてはならない。

 逃げ続けなければならない。


 そうしないと……


「捕まってしまうから?」


 生温い声は、すぐそばで聴こえた。


 声の主は、急にわたしの目の前に立っていた。

 いきなり、瞬間移動みたいに現れた。瞬間移動なんて馬鹿みたいだけど、それ以外、なんて表現したらいいか分からない。


 上半分だけの白い狐面。左右の房飾りと目の周りの隈取は禍々しい血の色。

 目があるはずの穴の奥は、真っ暗で何も見えない。

 長身を包む真っ白な水干姿、その所々についている飾り紐も血の色をしている。

 ただの赤い色だ。でも何故か、血の色だ、とそう思った。


 何が起こったのかもよくわからないままで、剝き出しの腕が粟立った。

 ぞわりとした何かを感じる。肌を這うような、恐怖のような何かを。


 気付けば、笛の音が止んでいる。


「せっかくの良い勘だったのに、脚を、止めてしまったねぇ?」


 ねっとりとした声で、男は嗤うように言った。


 声は、出なかった。

 狐面の男に、説明できない恐怖を感じる。怖い。すごく、怖い。

 よくわからないのに、あまりの恐怖に、叫び声はおろか呻き声一つ出すことができない。

 麻痺したように、何もできない。ただ、目を離さないでいることしかできない。


 わたしの二の腕を、鉤爪のような鋭さを持つ男の手が掴んだ。


 りぃん……と、男の動きに合わせるかのように、どこかで鈴の音が鳴った。


「まずは、左のかいなを」


 ぽきん、と音がした。


「え……?」


 おやつのビスケットを折るぐらいの気軽さで、男はわたしの肩から先、左の腕を折り取った。


 痛みはない。血も出ない。

 初めからそんなものなかったかのように、左肩から先がなくなった。


 狐面の男が、わたしのむき出しの腕を、その両手に大事そうに抱える。

 断面から滴る血もないそれは、まるでマネキンの腕のようだ。


「可愛らしいねぇ。食べてしまいたいぐらい可愛らしい。愛らしいねぇ。愛おしいねぇ」


 頬擦りしそうな様子で、わたしの腕を男が愛でる。


「こんなに愛おしいものは、隠してしまわないとねぇ」


 愛しいものを心底愛おしむように、男の鉤爪が折り取られた腕をつつ……、と撫でた。


 気付けば涙が出ていた。


 悲鳴の代わりに、胃液が込み上げてくる。

 思わず残った右の手で、口元を覆った。


 りぃん……


 わたしの左腕を、男が片手で摘まむように高く掲げた。

 首を傾け、上向きに口を大きく開ける。

 鋭い犬歯を見せて、大きく、真っ赤な口が裂けるみたいに歪んだ。


 いや、裂けた。

 裂けて広がった真っ赤な口が、たった一口で左腕を呑み込んだ。


 男は咀嚼すらもなく、喉を一瞬大きく膨らませただけ。

 それだけでもう、わたしの腕はその存在を消していた。


「嗚呼」


 その身の内に腕一本を丸呑みで収めた男が、わたしに向かって口元を歪めて見せた。

 目を反らすこともできない恐怖心に襲われる。男がニタリと嗤う。


「もっと、欲しい」


 りぃん……


 鈴の音が、鳴る。


「ほうら、お逃げ」



 * 



 逃げて、捕まって、食べられた。


 最初は左腕。

 次は右手首。

 次は右の腕。

 右耳。

 左目。

 右目。

 逃げて、捕まって、食べられて、逃げて、捕まって、食べられて。


 両目を抉り出されたわたしは、真っ暗闇の中にいる。

 どうにかなりそうなほど暗い闇の中。それでも、逃げろと言われて脚を動かした。


 神楽の笛の音が聴こえる。


 ふらふらと少しだけ走って、崩れ落ちる。

 支える腕はもう既にない。顔をしたたかにぶつけ、気が遠くなった。

 いや、とうにそんなものは遠い。


 どこか夢を見ているような、それともこれは、自分の中の何かが、現実と捉えることを拒否しているのだろうか。


 もう、自分の中のどこを探しても、起き上がる気力を見つけることができない気がした。


 それに、逃げる場所なんて、ない。

 だって、何が起きているのかわからない。

 ここがどこなのかすらも、何もわからない。


 りぃん……と鈴の音が響く。


「もう、いいのかい?」


 のし……と、背中を踏みつける何かの重み。


「諦めてしまったのかい?」


 獣が吐く生臭く温い息が、首筋を舐め上げた。


「安心おし。必要な部分はちゃあんと残してあげるから」


 地にわたしの身体を縫い留める鉤爪、首筋に食い込む鋭い牙を感じる。

 不思議と、痛みはない。


「せっかくの、お嫁さまだもの」


 もう、逃げられない。


「約束しようねぇ」


 もう、何も感じない。


 大切に、それはもう大切にするよ、と嗤う声をきいた気がした。

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