後編

 息苦しい。


「やっぱり、阿野さんは甘い味がするね」

 野崎さんは私から離れると、そんなことを口にした。私は目をつぶったまま、野崎さんの言葉を聞いていた。まだ、何もかも受け入れることができていなかったから。どうして、野崎さんは私にキスなんてしたの? 少しでもこの状況を処理したい。その為に視覚は邪魔でしかなかった。脳と心のリソースが追いつかなくなってしまうから。

「いつも飴舐めてたし、来る前にも舐めたりしてたんじゃない?」

 私はまだ黙っていた。口をつぐんでいても、目を必死につぶっていても、今を無かったことになんて出来ないのに。やはり、怖さが打ち勝ってしまう。このまま、離れて欲しい。

 ジッパーを開ける音が聞こえてきた。野崎さんが何かをしている。私はようやく現実を受け入れる決心をした。

 視界に最初に入ってきたのは、頬に血をベッタリとつけた野崎さんの横顔だった。私は声を上げそうになって、手で口を抑えた。血が付いた姿に驚き、その血を付けたのが私自身の愚かさだったことにすぐに気がついてしまったから。

 口の中に何か液体が入ってくる。鉄っぽい味がした。手を見てみると、さっきガラスを握った所から血が出ていた。

「ちょっと待っててね。今、準備してるから」

 呆然としている私をよそに、野崎さんは自分のリュックからペットボトルの水を出して自分のハンカチを濡らした。その濡らしたハンカチで私の手を少し拭くと、そのまま出血している手の平を縛った。私は先ほどまで感じていなかった痛みを感じ始めていて、小さな声をあげてしまった。

「ごめん、痛かった?」

 野崎さんが心配そうに私の顔を覗き込んできた。私は確かに心臓の鼓動と共にジンジンとした痛みを感じていた。でも、私の痛みよりも野崎さんの顔に付いてしまった血を拭き取ることの方が私にとって重要なことだった。

「顔に血が付いてて、私のハンカチを使っていいから」

 私は自分のハンカチを渡すために立ち上がった。野崎さんは自分のバックから既にタオルを出していて、自分の顔を拭いていた。野崎さんと目が合う。

「あ、大丈夫だよ。タオルあるから」

 私のか細い声など野崎さんに届いていなかった。私のちっぽけな勇気はなんの価値もなく、ただの欺瞞ぎまんとも言えた。私はまた、俯くことしかしなかった。

 目線の先に野崎さんの足が見える。その足は目に見えて小刻みに震えていた。私はハッとして野崎さんの顔を見つめた。

「どうしたの?」

 野崎さんのいつもの透き通った声がうわずって聞こえた。よくみればタオルを持つ手も震えている。私は自分だけが他人をあざむこうとしているとばかり思っていた。私が失態に対して黙り込んで、自分を守ろうとするように、野崎さんが恐怖に対してあえて気丈に振る舞っていると何故考えなかったのだろう。

「私のせいで」

 その声は自分が思っていたよりも大きな音となり、二人きりの教室に響いた。野崎さんの身体が一瞬、大きく震える。きっと、驚かせてしまった。でも、どうしても伝えたかった。安心して欲しかった。

「私のせいで野崎さんを怖がらせてしまって、ごめんなさい。ガラスの破片なんて持っていたら、どれだけ恐ろしいかなんて」

 考えなかった。私はそう言うつもりだった。でも、自分の欲望のために凶器が必要だと考えたから、野崎さんを脅すのに有効だと考えたから私はあの破片を持ってきた。私は結局、物事を自分の目線からしか考えられない人間なんだ。

「自分が好きなものを手に入れたい。それはきっと誰しもが思うことなんじゃないかな? 私、ここに告白されにきたつもり。さっきはちょっと意地悪しちゃったけど」

 野崎さんが私を見つめながらそう言った。はにかみながら照れ臭そうに、それでも真剣に私を見つめている。

「本当はすぐに、答えてあげるつもりだった。好きですとか、愛してますとか、一緒に居たいですって言われたらね。でもさ、阿野さんが男の人と女の人、どっちが好きですか? なんて聞いてくるから。ちょっとかちんと来ちゃった」

 私は野崎さんの言葉を黙って聞いていた。私は確かに好意があることを伝えていなかった。私を受け入れてもらえるのか不安で、それを初めに確かめようとしていた。

「阿野さんがガラスの破片を持って私に近づいてきた時、正直怖かったよ。でも、阿野さん泣いてたから。私が受け入れてあげれば大丈夫かなって、勇気だしてみた。なんかやばい人にみたいになっちゃったけどね」

 野崎さんは流石に血を付けたのはやり過ぎたなんて笑っている。本当なら逃げだしたい位怖かった筈なのに。

「阿野さんは私になんで告白しようと思ったの」

 野崎さんが私に問いかけた。私は自分の心の中を整理する。私が野崎さんに告白した理由は、その瞳の美しさとか、話していて楽しかったからとかそういう色々な理由があって……でも、一番は私と一緒に居て欲しかったから。

「野崎さんと一緒に居たかったからです。一緒に居て欲しいんです……でも、怖いんです。私は怖がりで寂しがり屋だから、野崎さんが隣に居てくれることさえも怖いんです。野崎さんが私に愛想を尽かして去って行くことを想像してしまう。その温もりよりも、その温もりが私の手から失われるのが怖いんです」

 そう思っているのに、私は野崎さんをここに呼んでしまった。感情を抑えることができなくて、私はまた泣いてしまっていた。

「私は楽しみだな」

 野崎さんが泣いている私を見かねたのか、そう言った。

「阿野さんがどんな人なのか、きっと私は全然知らないんだろうし」

 野崎さんは優しい人なんだ。私と違って相手のことを考えることができる人なんだ。私の独りよがりの愛とは違う。もう、終わりにしよう。もう、野崎さんに迷惑をかけることはやめるんだ。

「やっぱり、やめましょう。こんな私は野崎さんに相応しくない。こんな私と付き合おうと思わないで。野崎さんにはもっと良い人が」

 野崎さんが私を抱き締める。野崎さんの匂いが私を包み込む。

「阿野さんはやっぱり可愛いよ。私に相応しいかなんて、阿野さんが決めなくていいんだから。これから確かめてけばいいよ」

 私はその唐突な抱擁に少しパニックを起こしている。嬉しいのに、怖い。離れなきゃいけないのに、離れたくない。私の中の感情は滅茶苦茶だった。

「こ、怖いんです。愛が怖いんです。愛は色褪いろあせてしまう、いずれ壊れてしまうんですよ。幸福な記憶が確かにあった筈なのに、消えちゃって、辛い記憶だけが残るんです」

「もしかしたら、それって阿野さんだけが思ってるかもよ」

 野崎さんが寂しそうに笑う。私はそう考えて生きてきた。人間というものはそういう風にできているのだと思う。

 だって、楽しい気持ちはフラッシュバックしたりしない。いつでも私の記憶の底から甦ってくるのは、あの時の苦しい記憶や恥ずかしい記憶だったから。生き物というのはそうやって、生き長らえてきたのだと思う。痛い思いを忘れて、何度も何度も火に飛び込んで火傷をしたり、毒で体調を崩すような生き物がいれば長生きなど出来ないだろうから。

「たぶん、阿野さんが何度も思い出してしまったんじゃない? そういう、今まで感じた気持ちみたいなのを引きずって生きてきたんだと思う。そうやって何度も思い出すうちに、阿野さんに植え付けられちゃったんじゃないかな。辛い記憶が、悲しい気持ちが」

 私の想いを聞いて、野崎さんがそう言った。

「だから、忘れられないくらい楽しい記憶をこれからふたりで作っていけばいいんじゃない! まあ、もしも私達の相性が悪かったら、その時は別れちゃえばいいんだし」

「えっ」

「合わないなら別れちゃったほうがお互いの為になるでしょ、当たり前だよ。人間関係なんてそんなもんじゃないの?」

 そんな突き離す様な事を言うのに、野崎さんは私を更にきつく抱き締める。

「だからって、人を愛す努力を怠ったりなんて私はしないからね。人を愛すのだって努力が必要だし、人に愛されるのにも努力って必要なんだから。我慢しあうのは長続きしないでしょ? お互いにその我慢が無いように話し合ったり、譲り合ったりする必要があるってことだよ」

 野崎さんはそう私の耳元に話しかけてくれた。そして、抱き締める力を緩めて私と向き合った。

「とりあえず、保健室行こっか」

 野崎さんが、ハンカチで縛っていない手を取る。

「あ、告白は受け付けたからね、取り消すとかないよ。だから、私達は恋人同士ってことでよろしくね。そうなると……初めてのデートは保健室ってことになるのかな」

 野崎さんが笑う。彼女のひまわりがそこに、確かに咲き誇っていた。私はやはり俯いてしまう。それでも、彼女の手だけはしっかりと握り返す。今の私には、これくらいしかできないから。それでも、今できることをしたかった。

 そうして、私達は喧騒の聞こえる方へと歩き出した。

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