音楽の帝王サリエリと秘密のスイーツレシピ

柴田 恭太朗

善意にあふれた素晴らしき人格者、それはサリエリ先生。

「先生、先生!」

 ピアノ椅子に腰かけた蓬髪の若者が野太い声を張り上げた。彼の声が必要以上に大きかったのは驚きのためもあろうが、若さに似合わず難聴が進行していたせいでもある。鷲のような鋭い目をした青年は、ピアノの譜面台に置かれた手書き楽譜を食い入るように見つめ「驚いたぁ、まったくこりゃ驚いたぁ」と独り言をつぶやいていた。

 さらには興奮収まらぬ様子で、ピアノの上にあったバイオリンをすばやくひっつかむと、ギターのように横抱きにして和音をかき鳴らした。歯を食いしばった口からはグヌヌ……とうなり声さえ漏れている。


「何がどうしたというのかね? ルートヴィヒ君」

 わしは、あらかじめ召使に運ばせてあったを、銀のナイフを手に切り分けながら彼に問うた。ピアノの脇に置いたティーテーブルはイタリア風のしつらえで、ぜいをこらした大理石製である。

 切り分けたスイーツから、甘いカスタードソースとエスプレッソのほろ苦さを連想させる極上の芳香が立ち昇る。その心をときほぐすような甘やかな香りをかいで、猛禽類に似た目つきの若者と儂とは、思わず顔をほころばせた。


 それは、午後の柔らかな陽射しが差し込む応接間でのことである。華麗なツタの装飾模様がほどこされたカットガラスを通し、明るく照らし出された広い室内。緻密に織られたペルシャ絨毯の上には、ピアノを中心として数々の弦楽器、管楽器が整然と陳列されている。それは、この都市まちウィーンで成功した音楽家だけが持ちうる最高のステータスシンボルだった。


 今の世で頂点に登りつめた音楽家とは、言うまでもなくウィーン帝室首席宮廷楽長たるアントニオ・サリエリ、つまりこの儂のことに他ならない。


「サリエリ先生ッ! こ、こ、こ、このタタタターンという転調しながら繰り返すリズミカルなフレーズ。実に新しい! 古色蒼然とした先生がこんな魔術を使うとは。寝ぼけた頭がシャキッと目ざめるほど新鮮だ。音にギュッとつかまれた心臓が痛いぐらいです。イタリア原理主義を標榜ひょうぼうする堅物のサリエリ先生らしくない斬新な音じゃないですか」

 鷹のような眼をした蓬髪ほうはつの青年はとても早口だ。そのうえ皮肉屋だ。ボンからやって来た才能ある若者、儂の一番弟子。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン君である。


 音楽界のトップに君臨し、揺るぐことのない地位と権力を得た儂は、徐々に作曲活動を控えるとともに、見どころのある若い音楽家を自宅に呼んでは無償でレッスンを行っていた。このベートーヴェン君も、弟子として抱え入れた一人である。

 なぜならそれは、成功した音楽家が後世に果たすべき聖なる責務であるからだ。少なくとも儂はそう信じている。


「キミキミ、その言葉の端々はしばしに散りばめられたトゲをなんとかしたまえ」

 儂は切り分けた特別なスイーツを、金のケーキサーバーで皿に盛り付けながら、無礼な若者ベートーヴェン君をたしなめた。

「ください! 先生、このアイデアを僕にください!」

 青年は儂の手書き楽譜を何度も指でつつきながら、ツバを飛ばした。

「いいとも。そんな粗野なフレーズでよければキミにあげるよ。自由に使いたまえ」

 その数年後、ベートーヴェン君が彼の交響曲のメインモチーフとしてシレッと採用してしまうとは露知らず、儂は安請け合いをした。なぜならそのとき儂の関心は完全に、今日の新作スイーツへと向いていたからである。


 儂は皿に乗せたスイーツを右手で優雅に示し、若者へ勧めた。

「うわぁ感激だなぁ、素敵なものをありがとうございます!」

 ベートーヴェン君はフレーズに対する感謝とも、スイーツに対する賛辞ともつかぬ風に言う。この落ち着きのない男はいつもこんな調子である。儂はにっこりとほほ笑んだ。

「ふとアイデアが浮かんで作ってみたのだが。キミの口に合うかどうか」

「ほ~、今日のご褒美は格別美味しそうですね」

 我が家で厳しくも充実したレッスンをした後は、決まって儂の手作りお菓子を楽しむ時間としている。弟子たちの多くは、いやおそらく全ての弟子はこのお菓子タイムを心待ちに、いそいそと我が家へ足を運んでくる。

 才能ある作曲家を育てること、そしてまた彼らをスイーツでもてなすこと。それは、お菓子作りを趣味とする儂の密かな楽しみでもあった。


「さぁ、召し上がれ」

「なんですか? このココアパウダーがかかった不思議なプディングのような……ひとさじ口にすれば、なめらかなクリームの豊穣な香りに包まれて……」

 ベートーヴェン君は初めてのスイーツを口に含んで、目を白黒させた。

「気に入ったかね?」

「素晴らしいです先生! 素晴らしい! 疲れた頭に活力が戻ってくるようだ。これ何という名前のスイーツですか」

「新作だよ、まだ決めとらん。キミならなんと名付ける?」

「『ひとさじごとに元気元気!』はどうですか」

「ハハッ。キミの作曲センスは最高だが、ネーミングセンスは最低だな」

「ヘヘッ。自覚してます」

 ベートーヴェン君はバツが悪そうに片手でワシワシと褐色の蓬髪をかき回した。

「そうだなぁ。では『ティラミス』というのはいかがかな?」

「ティラミス……それはどういう意味ですか」

「イタリア語で『私を元気づけて』って意味だ」

「なんだ。要するに『元気元気!』じゃないですか」

「その通り。命名者はキミだよ」

「ください! 先生、ティラミスのレシピを命名者の僕にください!」

「ダ~メ」

「えー、ナゼどうして。先ほどのフレーズは気前よく譲ってくれたのに」

 ベートーヴェン君は不満げに口を尖らせる。儂の前では本当に子どもに返ってしまうようだ。儂は、近年死去した彼の父親代わりでもあるのだから、それはそれでまあ悪い気分はしない。


「ルートヴィヒ君。音楽ならば、いくらでも分け与えよう。音楽は神から授かったもの。つまり神の子たる我ら万民の所有物だ。しかし、お菓子のレシピはいかん。スイーツは儂のアイデア。儂だけの専有物なのだよ」

「ちょっと待ってください、音楽って万人のものですか?」

「その通り。昔からそうと決まっとる」

「先生。僕ねぇ、曲は作曲家の所有物だと思います。作曲家が書いた音楽は人々の魂に焼き付ける烙印だと思っているのですよ」

「烙印? だと?」、儂は眉をひそめた。「過激な発想だな。民を感動させ楽しませる音楽は、天からの配剤だとは思わんかね?」

「失礼ながら、その概念は古いですよ。まさに今、音楽は変わり始めています。耳にした途端、心に焼き付けられる曲ってあるじゃないですか。ほら、たとえばモーツァルトの曲とか」

 モーツァルトの名を口にして、すぐにベートーヴェン君はという顔になった。


「キミの言うとおり、確かに心に残る。モーツァルトの曲は素晴らしく愛らしい」

「えっ?」

「どうした?」

「先生はモーツァルトを憎んでらっしゃるのでは」

「違うな。モーツァルトがこのサリエリに嫉妬していたのだ」

「『サリエリがモーツァルトに』ではなく『モーツァルトがサリエリに』ですか」

「くどい。長年、儂はモーツァルト親子から一方的にねたまれていたのだよ。根拠のない妄想を元にしてな」

「では、あの噂の真相は?」

「噂とは」

「イヤだな、とぼけないでくださいよ先生。あれです、先生がモーツァルトに毒をもったという噂。その真相を教えてください。僕は何を聞いても驚きませんし、誰にもしゃべりませんから」

 ベートーヴェン君は好奇心にあふれた瞳で儂を見つめ、指についたマスカルポーネクリームをチュッと下品な音を立てて吸った。


――またか。

 儂はした。この数年、同じ質問を幾度問いかけられたことか。

「ルートヴィヒ君、特に語るべきことは何もない」

「そうですか? モーツァルトにお菓子を食べさせたりしてないですか」

「あ……」

「あ?」

「そういえば」

「食べさせましたか」

「何度も新しい菓子を作っては振舞った」

「そこです。疑われているのは。先生は人が良すぎるのです、いつか足元をすくわれますよ」

「とはいえモーツァルトと一緒に同じ菓子を食べた儂はピンピンしとるぞ、ほれこのとおり……」、儂は椅子から立ち上がって、軽々とワルツのステップを踏んで見せた。「見よ、この健脚。他人に足などすくわれてたまるものか」

「一緒に食べたなら無実ですよねぇ、状況的に」

 テーブル越しに前のめりになっていたベートーヴェン君は肩を落とした。

「だから最初からそう言っているではないか」

 儂は残りのティラミスをゆっくり味わいながら、鷹揚に笑った。


 実はこのとき、口にしなかった事実がある。

 モーツァルトが新しいスイーツを度々ねだるものだから、儂はイタリアから取り寄せた様々な香料をスイーツに混ぜ込んだ。その中に『ナポリすい』と呼ばれる大変高価な化粧品があった。困ったことに、これが後日、猛毒の薬品であることが判明したのだ。

 誤解のないように、ここはぜひ強調しておきたい。儂がスイーツにナポリ水を垂らしたときは、誰もが心の底から安全な液体だと信じていたのだ。現にモーツァルトと同じ菓子を口にした儂には何の健康被害も生じていない。


 さらにもう一つ付け加えておかねばなるまい。昨年、皇帝主催の舞踏会で大規模な牡蠣中毒事件が発生したときのことだ。あのときは皇帝を含めて参加者のほぼ全員が寝込んだし、確か、死人もでたんじゃなかったかな。無論言うまでもなく、儂一人だけ何ごともなくケロッとしていたが。

 いま思えば儂って、人並外れて毒物に耐性がある特異体質なのかも知れんね。それもこれも神から愛されているがゆえ。儂に罪はない。そうだろう?


 ベートーヴェン君が気まずそうな態度を取ったので、儂はとりなすように話題を変えた。

「グラーベン通りを下ったところにあるレモネード屋。あそこで出すアイスクリームがこれまた絶品でのォ。キミも今度一緒にどうだ、ルートヴィヒ君」

「そのレモネード屋って、こないだ腸チフスの患者がでたところでしょ?」

「そう。だからこそ衛生面には細心の注意をはらっていると思うのだが、違うかね」

「嫌ですよ、僕はまだ死にたくないし。書きたい曲がたくさんあるし。それにほら、先生からいただいた『タタタターン』ってフレーズもまだ使ってないし」

 頬を紅潮させて、早口でまくし立てるベートーヴェン君。

「そうかそうか。無理にとは言わんよ。それよりキミも30を超える歳だったね? その子どものような浮ついた態度はそろそろ改めねばならん」

「ええと、それはつまり身を固めろとおっしゃってます?」

 若者は眉をひそめ、身を硬直させた。

「いや、そうではない。儂を見なさい、この歳でも独身だ……」

 儂は立ち上がって、ずらりと壁際に並べてあったワインの中から一本を選び出し、そのボトルを手にして戻った。

「これをオススメしたい。先日、かかりつけ医から鉛入りのワインが心の平静に効くときいた。医者の言うことには、鉛や水銀といった重い金属が心を休ませるそうだ。このワインをあげるから、飲んでみてはいかがかね?」

「良い情報をありがとうございます、先生。鉛入りですね。早速今晩から試してみようと思います」

 鷹の眼を持つ蓬髪の若者は頬を染め、何度も感謝の言葉を口にし、身軽に立ち上がるとマントを羽織って颯爽と玄関から出て行った。


――せっかちで傲慢ではあるが、彼はまぎれもなくこれからの音楽界を牽引けんいんする天才である。そして、いずれ儂の元から飛び去っていくのであろう。


 儂は窓辺に立ち、猛禽の羽のごとくマントを翻しながら大股で歩み去っていくベートーヴェン君の後ろ姿を見送った。その光景は、一人の音楽家を立派に育て上げた達成感と、痛がゆい喪失感とがないまぜになった不思議な感情を呼び起こした。儂はしばし、その面映ゆい感情を心のうちでつつき、水面みなものように揺らして楽しんだ。


 ◇


 その夜。今日の出来事を日記にしたためながら、儂はこんなことを考えた。


 この世に神がおわすことは間違いない。とすれば対局の存在である悪魔もいると考えて良いだろう。しかし、悪魔の対局は果たして神なのだろうか?


 いや、悪の対語は善である。


 つまり悪魔の対局とは即ち、ぜ……善魔ぜんま

 そうだ、善魔という概念があってしかるべきではないだろうか。


 善意をもって人々に富を分け与え、知恵を授け、便宜を図ることで民を苦悩に陥れる。良かれと思ってした助言が、その者をかえって苦しめることになる。


 それはつまり……儂?

 儂か。

 儂が善魔か?


 いいや、儂の施しは疑いの余地などない純粋な善。

 誰も苦しんでなどおらぬではないか。

 うっかりベートーヴェン君の毒気に当てられて、つまらぬ妄想をしてしまった。


 次に若い作曲家を育てるなら、従順な性格の者にしよう。あの幼い少年はどうかな? 土鳩どばとのような愛くるしい目をした純朴な少年。彼もまた早熟な天才であることは間違いない。名を何といったか……そうそうフランツ、フランツ・シューベルト君だ。


 明日はシューベルト君たち若き逸材を引き連れて、グラーベン通りのレモネード屋へ行こう。そこで、たんとアイスクリームを食わしてやろう。彼らときたら、それはそれは無類のアイス好きだからの。


 善き行いこそ儂の信条。

 ホッホ。ホッホッホ……


 完


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■参考文献

「サリエーリ  -生涯と作品 モーツァルトに消された宮廷楽長-」 水谷 彰良/著 復刊ドットコム

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音楽の帝王サリエリと秘密のスイーツレシピ 柴田 恭太朗 @sofia_2020

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