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 みんみん、じりじり。みんみん、じりじり。

 月が変わってからというもの、蝉の鳴き声は一層大きくなるばかりだ。加えて日差しも厳しさを増し、貴重な紙を汗で湿らせてしまう。

 朱華はむくりと顔を上げて、額の汗を大雑把に拭った。どうやら文机ふづくえに突っ伏して眠っていたらしい。着物の袖が汗でぐっしょりと濡れていた。

 月日が経つのは早いもので、千世ヶ辻の一件から一月が過ぎようとしている。

 朱華はあの後数日を千世ヶ辻で過ごし、十分に動けるようになったことを確認するとすぐに其処を経つようにと言い渡された。持ってきていた荷物もそれほど多くはなかったので、滞りなく千世ヶ辻を出立することが出来た。

 千世ヶ辻で起こった惨劇は、決して外部に漏らすなと和比古に口止めされた。諸々の始末は彼が付けてくれるらしく、あくまでも朱華は途中離脱したという体を取ってくれるようだ。白木院家への申し開きも和比古と近永家で行うのだという。ありがたいやら申し訳ないやらで、朱華としては言葉も出ない。

 出立の日も、粗相を犯したのは白木院なのだからお前は早く帰れ、と和比古は素っ気なく吐き捨てていた。そのように言っている割りには紹介状をしっかりと記してくれたり、自宅に戻るまでの費用として決して少なくはない旅費をくれたりしてくれたので、和比古なりに朱華のことを気遣ってくれていることはよくわかった。

 朱華が何者であるか知らない和比古は、殿を買って出た彼には感謝しているらしい。甲斐甲斐しく世話をしてくれたのも、置いてきてしまった負い目があるからだろうか。

 何にせよ、朱華は無事に自宅まで帰ることが出来たし、美代との戦闘で負った傷もすっかり回復した。和比古が紹介してくれた医者様様である。傷跡は残るが、今では包帯を巻かずとも普通に生活が出来るようになった。

 決して少なくはない数の人を殺した者が、平凡な生活を送っている。その自覚は朱華も持ち合わせているつもりだ。

 自由になるために人を殺めたという事実から、朱華は逃げるつもりも隠れるつもりもない。当時はよくわかっていなかったが、人間として暮らしていくうちに責任というものは覚えたつもりでいる。奪った命は今更どうこう出来るものではない。人でなしは自由を得たいが故に、人殺しになったのだ。

 詫びることも、償うことも出来ない。だからこそ、朱華は人として精一杯生き尽くす心積もりでいる。それが己の望んだことなのだ。それが斯波朱華の生きる理由なのだ。人になるため人殺しとなったからには、せめて最期の時まで人でいなければなるまい。

──と、此処で玄関口がどんどん、と大きく叩かれる音がした。賑やかな客人は、感傷に浸らせる時間もくれないらしい。


「はいはい、今行くよ」


 ばちん、と頬を叩いて気を取り直してから、朱華は玄関口まで小走りで向かう。

 戸を開けると、其処には汗だくの宗一郎がぬんと立っていた。予想通りである。


「よ、朱華。暑さでばててないか?」

「おかげさまで元気だよ。汗だくなのは君といっしょさ。それよりも、今日はどうしたんだい? もう見舞いが必要な程ではないけれど」


 宗一郎は朱華が帰宅してからというもの、以前よりも頻繁に顔を出すようになっていた。箝口令が敷かれているため千世ヶ辻での出来事は知らないが、朱華が怪我をしたと知ってそれはそれは慌てたようだ。

 もう十分に歩けるというのに、頻りにごめんなあ、ごめんなあと謝られ続けたのは記憶に新しい。それゆえに、朱華は宗一郎にだけは真実を伝えまいと決意した。でなければますます宗一郎が罪悪感に苛まれてしまう。

 朱華が本調子に戻ってからは、宗一郎も以前と同じように気楽な性格が前面に出るようになった。今日も単なる見舞いではなく、何か催し物に誘おうとでもしているのだろう。

 宗一郎はにっと歯を見せて笑う。余程機嫌が良いらしい。


「いやあ、此処のところ連日この暑さだろ? 俺の知り合いにちょっと良いところのお嬢さんがいるからさ、知り合いと連れ立って氷屋にでも行かないかって話が持ち上がったんだ。費用はあちらさんが出してくれるってさ」

「気持ちはありがたいが……その、知り合いの方は真っ当な方なんだろうね?」

「疑り深いなあ、朱華は。心配しなくてもまともな家の子だよ。結構お転婆なお嬢さんなんだが、実家は相当な名家だぜ。ほら、此処からずーっと東に行った辺りにでかいお屋敷があるだろ? 彼処のお嬢さんだよ」

「ああ、あの」


 朱華の住んでいるこの町は、閑静ではあるものの東に行くと名勝にも劣らない風光明媚な景色を見ることも出来る。そのため、あの辺りには上流階級の屋敷が少なくはない。朱華の住んでいる地域にも、時々良い身なりをした者が通りかかることもある。

 宗一郎の銭湯に平太もよく通っていたらしい。富ノ森家の屋敷も、あの辺りにあるのだろうかと朱華はぼんやり考えた。

 

──が、ばしばしと肩を叩かれて朱華の意識は思案の内から引き戻される。


「なあ、頼むよぉ。朱華もたまには息抜きしたいだろ? この前は山で怪我して散々だったことだしさ、今度こそはその……何だ、季節の移ろいだとか、風情だとかを感じられる場所に行こうぜ? 氷屋もそう遠くないところにあるみたいだしさぁ」

「わかった、わかったよ。君が氷菓を食べたいだけだろう、まったく……。たしかに、まだ僕は夏らしいものにあまり触れられていないし、氷菓なんて口にしたことがないからね。創作意欲も刺激されるかもしれない」


 結局千世ヶ辻では面倒事に巻き込まれてばかりだった。創作など出来るはずもなく、ついでに怪我までして帰る羽目になってしまった。恩人の故郷を、人並みに見て回りたかっただけだというのに。 とにもかくにも、夏を満喫出来るのならば願ったり叶ったりである。朱華は気を取り直して宗一郎に向き直る。


「それじゃあ僕は支度をしてくるから、とりあえず中に入って待っていてくれるかい。この姿ではみっともないからね」

「へへ、何だかんだ言って朱華も氷菓を食いたいんだろー。創作意欲だの何だので誤魔化さなくたって良いのに」

「失敬な。僕は物書きを目指しているんだよ。ふとした出来事も、何処かで役に立つかもしれない。何事も経験あってこそ、だ」

「そういうものかねぇ」

「そういうものだよ」


 いまいちわからないなぁ、とぼやく宗一郎に苦笑してから、朱華は支度するために自室へ戻る。

 夏。夏だ。かつては季節すらよくわからず、日々の移ろいに目もくれなかった自分が季節の事物に心躍らせている。

 人でなしが心を手に入れたら、何をしでかすかわかったものではない。ある人でなしはただ一人の人間を想って墓守となり、またある人でなしは煌めきを求めてその手を血に染め、人間となった。

 望んだもののために、我武者羅がむしゃらに駆けた者たち。たとえ八苦の娑婆しゃばを生きることになろうとも、少なくとも朱華に後悔はない。死後に地獄に落ちようとも、どのように裁かれようとも、悔いのない生き方が出来るのならそれで良い。

 望んだ世界は、俗物的なものかもしれない。儚く無常なものかもしれない。

 それでも構いはしないのだ。世界は移り変わる。変化のない人生など、それは滅法つまらない。

 すっかりぼろぼろになってしまった一冊の和装本を、手拭いで丁寧に包んで懐に入れる。人でなしを人間たらしめた恩は、まだまだ返せそうもない。


 みんみん、じりじり。みんみん、じりじり。

 暑い暑い夏の日。御一新の波紋が小さくなりつつある時代。

 人でなしだった青年は、今を生きる。まだ見ぬ世界と、両手には収まりきらない万の言の葉に出会うために。

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人でなしの影ふたつ 硯哀爾 @Southerndwarf

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