隣室

山田 詩乃舞

第1話


 二〇〇七年、夏。中国広東省での出来事。

 勤め先の出張で訪れた、とある地方都市に宿泊した時の事だ。



 関西国際空港から香港へ、そして広東省へ入った、その日。宿泊手続きのトラブルで予定していたホテルとは別の場所を取る事になった。


 此処には何度も出張で訪れていて、何回かあったトラブルなので、それで焦る事は無かった。


 本来の宿泊場所からは徒歩圏内、現地の事務所からも近い。初めて利用するホテルだったが、特に疑問も無く荷物を抱え、そのホテルまで向かった。

 

 徒歩で約十五分程度の距離を緊張しながら歩く。何故緊張するのかと言えば、これは海外、特に治安の悪い場所を歩いた経験がある人なら理解出来るだろうが、日本とは本当に常識が違う。


 現地の駐在員からも出張者に対しては、まずその点について注意がなされる。


 荷物を手で提げて持つな、抱えるか背負え、出来れば身体に紐で括れ、そもそも盗られて困るものは持つな。

 

 他にも、夜九時以降に路地裏を歩くと事件に巻き込まれるかもしれないから迂闊に出歩くな。屋台で売られているものは無闇に口にしない、現金は盗まれてもいい額だけ持つ、現地のタクシーには乗らない、手配した車に乗る、など。日本ではまず無い内容だ。


 何度訪れてもこの内容に慣れる事が出来ず、緊張感を持ってしまう。駐在員とでもなれば毎日の事なので慣れて来るのだろうが。


 そんな注意を受けて歩く異国の夜七時。まだ日が沈みきらず夕闇といった空。


 急激に発展を遂げたせいで不揃いな高さで乱立するビル群と時代から取り残されたように立ち並ぶ、屋台や露店が合わさった不思議な街並み。

 

 それらは空の色と相まって身体を飲み込んでくるような不気味さを放ち、余計に緊張感を増幅させる。


 行き交う人々は日に焼けた顔で日本人とは違い、鋭い目つきをしているように見えた。ジロジロとこちらを見ているのは気のせいでは無い。


 この街では、日本人は一目で分かる程度には目立った。身に付けている物、靴。肌の質感、顔つき、全てが違う。

 

 駐在員の付添いでもあれば幾分気持ちは楽だが、それは無い。三十歳にもなろう大人が外国だからと言って、ホテルのチェックインの為にわざわざ力を借りるのは、多少ではなく憚られるし、怖いからと言って付いてきて貰う訳にもいかない。


 そんなことを頼めば「アイツはホテル一つ自分で辿り着けない」なんていう話で会社の話題に登ってしまう。


 見るからに怪しげな路地裏、ビニールプールに入ったザリガニや蛙を売る露店。刺青の入った腕で刃物を研ぐ青年達が目の端にチラつくような細い道は通らず、なるべく大きな通りを選び、わざと遠回りのルートで進む。


 交通ルールなどあってないような縦横無尽に走る車と、それを気にもせず道を横切る老人や子供達にソワソワしながらもなんとか目的地に到着する事が出来た。


 ホテルロビーの受付係員にパスポートと準備して貰っていた予約表を黙ったまま差し出す。英語も日本語も驚くほど通じない場合が多いので、喋らない方がチェックインはスムーズに行くことが多い。


 時折、通じる人もいるが本当に稀だ。今回も中国語で何か言われている、さっぱり聞き取れはしないが。……どうやら無事手続きができた様でカードキーを手渡された。


 案内された部屋番号は一六〇六、十六階、エレベーターで昇った先から直ぐの位置。カードキーも問題無く動作し、一泊二百元(日本円、当時のレートで三千円〜四千円、宿泊費としてはそれなりの部類)の部屋に入る。


 見かけだけはかなり豪華な造りの部屋、ダブルサイズのベッド、広めのクローゼットがあり、浴室もシャワー、浴槽と分かれ広々としている。日本で泊まろうと思えば三万円、都市部であればその倍からは必要なグレードだろう。


 しかし、細部をよく見ると至る所に雑な仕事が見て取れるのも中国仕様というのが面白い。壁紙の繋ぎ目は隙間だらけ、備え付けテーブルの塗装も角は剥げている。時間が経ち過ぎて萎びたウェルカムフルーツは食べられるかどうか、カーペットの染みも至る所にある。


 クローゼットの中にかけてあるハンガーは何故か木製とワイヤーの材質が違う種類が並んでいる。その他にも良くも悪くも中国らしさを沢山確認しつつ荷解きを進めていく。


 あらかた終わったあたりでふと、部屋の奥にあるドアに違和感を感じた。


 そのドアは部屋の奥、入り口から直線で最奥右手側に位置した、丸いドアノブのついた開戸だった。

 

 清掃用具か何かを収納しているのかと思い、興味本位でドアノブを捻る。鍵などはついておらず扉は自室側へ素直に開いていった。


 ゆっくりと露わになるドアの向こう側、その景色は考えていた想像とはかけ離れていた。


 目に飛び込んできたのは清掃用具入れなどでは無く、自室とほぼ同じ造りの隣室だったのだ。


 事態がいまいち把握出来ず、混乱した頭のままそっと扉を閉じる。一瞬だけしか見えていなかったが、自身から正面の方向にも同じようなドアがあった様に見えた。


 情報を整理出来ないまま、ひとまず部屋を間違えた可能性、カードキーなのでほぼ有り得ないとは思いながら、部屋の外に出て部屋番号を確認する。一六〇六、間違い無い、案内された通りの番号で隣は……隣は一六〇七。


 ……おかしい。ちょうど一部屋程度の間隔が空いて一六〇七。このフロアの部屋の並び、部屋間隔と明らかにちがう。


 ……シンプルに見たままで考えると、先程見た部屋は一六〇六と一六〇七の間にあり、フロアからの入り口がなく、両隣の部屋からしか入れないことになる。


 不安が腹の中で渦巻く感覚を覚える。いくらなんでも奇妙過ぎる。用途が不明すぎて意味が分からない。何故、受付時点でそういった話を一言も伝えて……もしかすると伝えているのだろうか? 何せ一言も聞き取れてはいないのだから、それはあり得るかもしれない。


 だが部屋を変えてくれと言ってもまず通じないだろうし、ここを予約できたのもキャンセルが出たからだと聞いている。


 ……駄目もとで通訳のできる会社の現地スタッフと連絡を取ろうと、現地用の携帯で電話を掛けるが……出ない。勤務時間外であるので致し方ない事ではあるが……。


 折り返しの着信がある事を願って部屋に戻るしかなかった。


 どちらにしろ防犯上、隣室に繋がるドアがある上に鍵が付いていないなど受け入れられない。対策として備え付けのソファやテーブルを駆使しバリケードの様にドアの前に並べる、更にはベッドを追加すれば部屋の短辺を埋める形にすることが出来た。つっかえ棒のようになったので、ドアはどうやっても開かない。


 ひとまずは誰かに侵入されるような事態は回避出来たのではないかと一息つくと大きく腹が鳴った。そういえば機内食以降、水ぐらいしか口にしていない。


 知っている日本食レストランや味の確かな中国料理店は此処から少し遠い。こんな時の為に、用意していたカップ麺を荷物から取り出す。


 電気ケトルにミネラルウォーターを入れお湯を沸かし、カップ麺に注ぎ込む。三分間も待てず、麺が硬いままにも関わらず啜りだす。日本人の食へのこだわりに感謝しながら夢中で食べきった。


 まだ六分目という具合の腹を誤魔化しながら、早々に寝る事に決め、シャワーを浴びる。勢いや温度がまばらなのも中国仕様と諦めて手早く身体を洗う。


 シャワーを終え、自前のスウェットに着替えベッドに腰掛け、テレビをつける。中国にはそれなりに慣れていた筈だったが、今日の事は疲れた。


 バリケードを作製したせいでテレビが随分と見にくい角度になってしまったが、どうせ日本の番組は映らない。早口で捲し立てる中国のニュースキャスターを、ぼんやり眺めていた辺りから寝入ってしまった……。



 ドサリ。という音だったように思う。

 何時だろうか、真夜中には違いない。そこまで大きな音ではなかったが、隣室からした音で目が覚めた。


 寝ぼけた頭は、音のした方向に気付いたことで、一気に覚醒した。隣室に誰かがいるのだ。


 なんとなく、こちらが起きたことを知られるのは良くないように思えたので、衣擦れの音にも気を払いながらゆっくりとベッドを降りる。


 そろりそろりと壁際に移動し耳を当てる。壁の厚みは日本と違いとても薄い、隣室の様子が音からありありと伝わる。複数の足音がゆっくりと歩き、重い荷物を置いたような……。


 何かに着替えているのだろうか? そんな音もする。何を言っているかは分からないがとても小さな声と短い言葉でやり取りしているようだ。しばらく聞いていると、何か液体が溢れるような「ゴボゴボ」という音、何と表現して良いか分からない音が聞こえてきた。


 続いてコップから水を零し、地面に落としたような音が「バタタッ」と聞こえる。


 何度かそんな音が繰り返されるのを、唾を飲み込む事すら出来ずに聞いていた。


 そして金属がカチャカチャと鳴る音、ハサミだろうか? ファスナーが開いて閉じたような小気味の良い音がしてから、また足音。先程までしていた話し声が聞こえてこないのが不気味で、恐怖心が湧き上がってくる。


 怖くて壁に耳を当てるのを止め、音を立てずに反対の壁まで移動しようと動く、三歩か四歩程度の距離なのにやけに遠く感じる。


 どうにか辿り着けた。落ち着く為に息を静かに吸い、ゆっくりと吐く。


 その時ドアノブがガチャリと音を立てた。


 悲鳴を押し殺して、しゃがみ込む。つっかえ棒にしたバリケードが効いているお陰でドアが開く気配は無い、それでも不安で、ベッドをドア側に押し込むように、蹲った姿勢のまま必死に押す。


 ガチャガチャとドアノブは数回音を立てる。開かない事に諦めたのか、静かになったと思いきや今度はドアノブが壊れてしまうのではという勢いで激しく鳴る。


 バクバクと早鐘を打つ心臓はもう破裂してしまいそうだ。呼吸の仕方を忘れてしまって息も出来ない。ドアから一ミリも目を離せず見開いた眼球は、どんどん乾いていくが瞼を閉じることが出来ない。


 どれぐらい続いただろうか、一分も無かったと思うが、酸欠で意識を失う前にドアノブは静かになってくれた。


 ひゅうひゅうと小さな息を吐く、腰が抜けて立つ事が出来ない。過敏になった感覚が隣室の音を拾う。複数の足音とドアの開閉音、どうやら隣室から退出するようだ。


 壁掛け時計を見る余裕がようやく出来、時間を確認すると午前四時。それから暫く放心状態で座り込んだままで過ごし、ようやく身体を動かせるようになった時には夜は完全に明けていた。


 

 事務所に現地職員が出勤してくるのは朝の八時、その時間に合わせて荷物から何から全て纏めてチェックアウトすらせずに事務所に辿り着く。


 ちょうど事務所の鍵開けが日本語が堪能な男性職員の番だったようで、彼に昨日の出来事を話そうとした。


「ヤンさん、おはようございます。昨日……」


「アー、シミズさん! 昨日は電話出なくてごめんね! その代わり面白いこと教えるよ!」


 彼は私の話を遮りながら携帯電話の画面を見せてくる。そこには掲示板形式だろうか、中国語でのやりとりと引用URLが貼り付けられていた。


「中国語は分からないんだが……」


「これ、アナタが泊まったホテルの系列の事件。あのホテルグループのオーナーはヘイシャーホェイで有名なボスですよ、まあ普通は、泊まるだけならそんな危ないことないし安心していいよ」


 言われた意味が分からず問いただすとヘイシャーホァイとは黒社会、つまりマフィアだと言う事だった。


 みんな知ってることだからそれほど忌避感も無く、ホテルはホテルということで私にも特段伝える事なく予約を取ったそうだ。


 しかし系列で起きたといえど、事件というのは聞き捨てならず続きを促した。


「この掲示板、多分もうすぐ検閲で繋がらなくなるけど、書いてあるのは系列ホテルで何か悪い取引がされてたんじゃ無いかってことです」


「繋がらなくなるというのは?」


「それは賄賂ですよ、このオーナーはお金沢山あるから、賄賂で都合の悪い事はもみ消す事ができます」


 何ともらしい話だ、と、考えたあたりで昨日の出来事が浮かぶ。


「……その系列のホテルの事件は、もしかして隠し部屋で起きたとか?」


「すごい、よくわかりましたね! 取引の内容がこのURLですよ! 一緒に見ましょう!」


 ヤンさんが興奮気味に画面をタップし新たな画面に切り替わった。


 思わず顔を顰める。それは若い女性の死体と思われる画像だったからだ。


「どれどれ……どうやら田舎から出て来た若い女の子を攫って眠らせて、生きたまま臓器を抜いて売買してたらしいですね、これはその被害者の画像で、お腹のところに大きな傷と雑に縫ったような跡が……」


「おぇぇっ」


 私はその場で吐いた。胃の中のもの全てを吐いた。心配するヤンさんに向かって、「そんな事より飛行機の手配を」と怒鳴りつける。


 事務所の床を汚した自分の吐瀉物を片付けもせずに、出張予定をキャンセルする電話を各所にかけ続けた。


 あまりに必死な形相と切羽詰まった言動だったせいで、私を止める人は誰もいなかった。

 

 空港までどう辿り着いたのか思い出せないが、その日のうちにどうにか飛行機に乗り込み、中国を後にした。



 あれ以来、私は中国を訪れていない。

 

 




 


 



 


 


 




 





 

 

 

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隣室 山田 詩乃舞 @nobuaki_takeda

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