桃源郷

 目を開くと私は、見知らぬ部屋に立っていた。


「……あ、れ?」


 ぼんやりと薄明るい、畳が敷かれた部屋だった。襖絵に部分的に使われた金箔が光を反射しているせいか、何だか何もかもが華やかで、おめでたく見える。


 ──……ここは一体、どこなんだろう?


 ぼんやりと私は考える。


 ここに至るまでの記憶は、私の中にはなかった。ただ漠然とした違和感だけが私の中にある。


「……ああ、そうだ」


 その場に突っ立ったままぼんやりと意識を遊ばせていた私は、ひとつのことを思い出した。


「結婚式、だ」


 私は、結婚式に呼ばれていたのだった。ならばここはその会場だろう。披露宴会場にしてはガランとしていて少し手狭だから、多分ここは控室だ。


 ──……でも、誰の?


 次の疑問が湧いたが、私はそれよりも隣から聞こえてきた声に気を引かれた。呼ばれたような気がして足を一歩先に踏み出すが、何かが私の足の動きを邪魔していつものように足が出ない。それもそのはずで、視線を落とした私の体は黒地に金刺繍も華やかな留袖に包まれている。


 着た記憶もなければ、その着物を見た覚えもなかった。学生である私は冠婚葬祭全てが制服だけで事足りるはずなのに、どうしてこんなに絢爛豪華な着物に袖を通しているのだろうか。誰がこれを用意し、着付けをしてくれたのだろうか。


 首を傾げてみても、私の中から答えは見つからなかった。だから私は仕方なくソロリソロリと足を進めて襖の前に立つ。触れるのをためらうほど美しい襖は思っていたよりも軽くて、私が手に少し力を入れただけでスルスルと音もなく開いていく。


「やれ、めでたやめでたや」

「お嫁さんの方は子連れなんだってね」

「丁度いいじゃないか。婿の方が歳も歳だし、結婚と同時に子がいてくれた方がめでたい」

「やれ、めでたや」

「何はともあれ、めでたいめでたい」


 襖の向こうは、人の気配であふれていた。こちらの間も親族の控室だったのだろうか。女性はみんな黒留袖で、男性はみんな黒の紋付袴を着込んでいた。洋装姿の人は一人もいないから、建物の雰囲気と相まってまるでタイムスリップしてしまったかのような錯覚を覚える。


『子連れの、嫁』


 その言葉で私は、もうひとつ記憶を見つけた。


 ──……そうか、これは繭梨まゆりちゃんの結婚式だ。


 だって私が着物を着て結婚式に参列するような相手で、さらに子供がいるような人は繭梨ちゃんしかいないから。


 15歳年上の従姉妹イトコの繭梨ちゃん。私にとって、ずっと優しいお姉さんだった繭梨ちゃん。●●●●った繭梨ちゃん。


 そうか、そうか、そうだったんだ。


 だったらこんな所でぼんやりしていないでちゃんと手伝わないと。


「……え?」

「ちょっとあんた、こんな所で何をぼんやりしてるんだい!」


 自分が思ったことに自分で驚いて呆けた声が上がる。だけどその気付きは横から飛んできた鋭い声に叩かれてパチンと弾けて消えてしまった。


 ハッと声の方を振り向いた瞬間、横手からいきなり伸びてきた腕がグイッと私の体を引く。


「ほらほら! 早くこっちに来なさい!!」


 グイグイとこっちの都合なんて何も考えずに私の腕を引いているのは、私と同じように黒留袖をまとった女の人のようだった。私からは背中しか見えないから、誰なのかも、そもそも知っている人なのかどうかさえも分からない。


「ほら、ここだよ!!」


 その人は私が出てきた場所とはまた違う襖の前で立ち止まると、勢いよく襖を開け放ちドンッと私をその中へ突き飛ばした。強く押された私はその場に踏みとどまることができず、足をもつれさせながら部屋の中に入ると膝から畳の上に崩れ落ちる。


「ちゃんと人数分用意するんだよ! つまみ食いなんてしたら許さないからねっ!!」


 女の人はきつい口調のまま言い放つとピシャリと襖を閉めてしまう。振り返った時には物言わぬ襖がそこにあるだけで、人の気配は途切れてしまっていた。


 一体あれは、誰だったんだろう。結局チラリとも顔を見ることができなかった。


 私は擦れて痛む膝に顔をしかめながらもなんとか立ち上がる。一瞬着物をダメにしてしまったのではないかとヒヤリとしたが、幸いなことに着物に被害はなく、相変わらず絢爛豪華な美しさがそこにあった。


「……一体、私にどうしろっての………」


 そのことにホッと息をいてから、私は顔を上げて部屋の中を見回した。


 畳敷きの、絢爛豪華な部屋であることに変わりはない。だけど今度の部屋には真ん中に大きな机が置かれていて、その上に四人分の酒肴が用意されていた。部屋の端には空の皿が何種類か乗せられた大きなお盆がそのまま置きっぱなしにされている。どうやらこの用意を完成させろ、ということであるらしい。


「えー、こういうのって、普通会場の人の仕事なんじゃ……」


 一応親族である私が勝手に手を出してしまっていいものなのだろうか。それともここが式場で、これから結婚式が行われるというのが私の勝手な思い込みで、ここは式場でもなければ、これから行われるのは結婚式でもないのだろうか。


 ──……ふと、私の意識の端でチリッと、何かが焦げ付くような違和感が走る。


 そうだ、私はさっき、何かとても重要なことを思い出しかけたはずだ。何かが、決定的におかしいと。


 掴み直した違和感を今度こそ離さないように意識しながら、私は自分の記憶を必死に掘り下げる。だけど私の記憶はどれだけ深く掘り下げてみても靄を詰め込まれたかのように真っ白だった。どうして私がここにいるのかも、どうやってここにやってきたのかも、なぜこの状況に違和感を覚えるのかも、何も、何も分からない。分からないのに『おかしい』ということだけが分かるから余計に気持ち悪い。


 ピッチリ閉ざされた襖を前に、私はズルズルとしゃがみ込んだ。集中すればするほど、掘り下げれば掘り下げるほど、気持ち悪さが私の中で肥大する。


 ──ハジケテ、シマイソウ


 無意識に噛みしめた奥歯がギリギリと耳障りな音を立てる。


 その瞬間。


「────────────!」


 襖の向こうから湧いた歓声に私はハッと顔を上げた。


 この向こうでは、一体何が起こっているのだろう。


 私は、知らなければ。今度こそ、顔を背けないように。


 私は焦げ付くような焦りに突き動かされるようにして襖を開く。


 その瞬間、私の目に飛び込んできたのは絢爛豪華な花嫁行列だった。いや、まだ建物の外に出てはいないから、これから『花嫁行列』と呼ばれるようになる隊列、というべきか。


 行列の先頭に立つのは、千早ちはやも清らかな二人の巫女。その後ろに並んで立つのは綿帽子を頭に載せた白装束の新婦と、漆黒の紋服に身を包んだ新郎。新婦の腕には白い布包のような物が抱き込まれていて、遠目だというのに私にはなぜかそれが嬰児みどりごのおくるみだということが分かった。


 巫女に先導された二人は、後ろに黒い人だかりを引き連れて廊下をゾロゾロと進んでいく。さっきまで広間でかしましく喋り立てていた客人達は、みんなその行列に加わったようだった。


「待って……っ!!」


 ──追いかけなくては。


 今度こそ置いていかれないように。


 どこからともなく湧いてくる衝動に突き動かされるがまま私は隣の間に飛び出した。その勢いのまま廊下まで転がり出たけれど、もうその廊下には行列の尻尾さえ残されていない。行列はどこへ行ってしまったのかと首を巡らせれば、広大な庭のはるか向こう側に見える建物の廊下にフワリと花嫁の綿ぼうしが揺れていた。


 追いかけなくては。でも建物の中を進んでいたら間に合わない。そうだ、この庭に降りて突っ切ってしまえば。あぁでも履物がない。そういえば私、自分の履物をどこに置いてきたのだっけ。


 さっきからずっと頭を占拠している気持ち悪さと、心に湧き続ける焦燥。


 ふたつが合わさったドロドロに、私の足は呆気なくすくい取られる。


「わ……っ!?」


 世界が、回る。


 縁側から滑り落ちた私は、庭木をクッションにしながら地面まで転がり落ちていった。視界がグルグル回って、全身に枝葉がチクチクと刺さる。地面にぶつけたおしりや膝はきっと砂埃にまみれているに違いない。帯は崩れているかも。


「っ、……ぅ」


 最っ悪……。だけど、縁側の上から地面に直接落ちていたら、本当に最悪の場合、死んでいたかもしれない。そう考えれば木の上に落ちたのは運が良かった……


「って、そうじゃなくて……っ!!」


 そこまで思ってから、そんなことを考えている場合じゃないと我に返った。


 花嫁行列。花嫁行列を追わないと。


 私は地面に這いつくばった姿勢のまま頭だけを上げる。庭のはるか向こうにある建物を見上げて……


「……ヒュッ」


 次の瞬間、私の喉が小さく鳴った。


 絢爛豪華な建物。千早を翻しながら進む巫女に先導される行列。白装束の花嫁と、漆黒の人々。


 そんな景色の中に、今まで見えなかった色が加わっていた。


 その色は。


 ……古びた血が見せる、どす黒く濁った赤。


「───────っ!!」


 勝手に叫び出しそうになる口を両手できつく押さえ込む。深く息をしたせいで生臭く金気臭い臭いが鼻を突いた。絢爛に私の目を射た金が、色褪せるように黒く濁った赤に浸食されていく。


「やれ、めでたや」

「やれ、めでたや」

「遠い所までよう嫁に来てくださった」

「日も差さぬ根の国まで、よう嫁に来てくださった」


 血飛沫しぶきが飛んだ千早。後ろに続くは亡者の列。白無垢の下半身をどす黒く血で汚した花嫁は、鮮血が滴るおくるみを腕に抱え、胸元をさらに赤く染めながら静々と進む。新郎の顔は暗く影が落ちていて人相が分からない。まるで、……そう、幽鬼であるかのように。


 黄泉よみの葬列。


 新たな亡者を迎えた行列は、新参者を言祝ことほぎながら、深く、深く、沈んでいく。


 ──15歳年上の従姉妹の繭梨ちゃん。私にとって、ずっと優しいお姉さんだった繭梨ちゃん。繭梨ちゃん。


 私はカタカタと震えながら必死に息を殺し続ける。


 半分以上捕まってしまっている私は、ここで見つかったら一緒に連れていかれてしまう。あの行列に取り込まれて、全てを忘れて言祝ぎの声を上げる亡者に成り果てる。


 ──ここは、生者を惑わす桃源郷。


 心の奥底にある願いや後悔、未練や夢。その幻を投影することで心を遊ばせ、そのすきにゆっくり、ゆっくり、生気を吸い取り、最後にはあの葬列の中に取り込んで連れ去る、美しい罠。


 ここにいればきっと、私は一生引きずるであろうこの後悔から解放された。心の傷をひとつ、消すことができた。


 たとえそれが命と引き換えの行為で、血とかばねの上に塗り込められた夢幻ゆめまぼろしだったとしても。


「……っ、……っ!!」


 私は口と一緒にきつく目も閉じた。それでもボロボロとこぼれていく涙を止められない。


 ──ごめんね、繭梨ちゃん。


 繭梨ちゃんの死を止められなかったことか。繭梨ちゃんの心を救ってあげられなかったことか。あんな幻想を見てしまったことか。その夢に殉じてあげられないことか。


 ……何に謝っているのか、私にも分からなかった。


「……ごめん」


 私は小さく呟くと、立ち上がって足袋のまま庭を走り始めた。着付けが崩れるのも、足袋が汚れるのも構わず、必死に屋敷から逃げるために走る。


「ごめんなさい」


 呟いた瞬間、ユラリと景色が揺らいだ。賑やかしい亡者の言祝ぎが、靄の向こうに消えていく。


 私はそれでも足を止めることなく、ただひたすら真っすぐに走り続けた。


「ごめんなさい……っ!!」


 何に向けているのかも分からない謝罪の言葉を、ただひたすらに呟きながら。

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