トワのアイ

瑞木ケイ

第1話

 彼女は「永遠」というものに拘っていたように思えた。



「ねえ、トワはあたしのこと、好き?」


 どこか舌足らずな甘え声で、アイは尋ねた。


「もちろん、好きだよ」

「ほんとうに?」

「うん。ほんとうに」


 私は真面目くさったように大きく頷いてみせた。

 そんな私の態度が気に入らなかったのか、アイは声に不満気な色を混ぜて問うた。



「ほんとうに、ほんとう?」

「ほんとうに、ほんとうさ」

「愛してる? トワは永遠にあたしを愛するって誓える?」

「永遠?」


 私は顔を上げてアイを見た。

 彼女は非難がましい瞳で私を見ていた。


「誓えないの?」

「誓うもなにも……」


 とげとげしいアイの言葉に、私は首を傾げた。


「私は永遠なんて知らないから。知らないものは誓えないよ」

「屁理屈」


 アイはふくれっ面でそっぽを向いた。

 何度か彼女の名前を呼ぶけど、アイはずっと明後日の方向を向いたまま返事もしない。



「アイ。こっちを向いてよ」

「嫌」

「似顔絵、ふくれっ面で描いてもいい?」

「嫌」


 こうなったらしばらくは手がつけられない。

 彼女は一度へそを曲げるとなかなか機嫌が直らない。

 私はアイの似顔絵のスケッチを諦め、鉛筆を床に置いてスケッチブックを閉じた。



「いちごオレ、いる?」

「いらない」

「じゃあ、私だけ飲むね」


 私はコンビニから持ってきたいちごオレのパックにストローをさして飲む。

 この近くにコンビニがあってよかった。

 さらに運がよかったのは、そこにはいくつかの物資が残されていたことだった。


 大昔には街にたくさんあったというコンビニという遺跡には、かつて大量の物資があったという。

 今ではシンセイフによってそのほとんどを接収されているけど、たまにこうして数少ない物資が残されていることがある。

 このいちごオレもそうした物資のひとつだ。


 私はストローにセットされた三重のフィルターを通して、いちごオレなる飲み物を口にする。

 はじめて飲むそれは、仄かに甘い味をしていた。

 久しぶりに甘いものを口にした。

 思わず口もとが緩んでしまう。



「それ、いつの?」


 アイの声に、私はいちごオレの容器を確認した。


「さあ? 賞味期限の表記を見るに、たぶん、西暦のものじゃない?」

「西暦っていつだっけ?」

「センセイの話では、ずっと昔だって言ってたよ」


 ふぅん、とアイは曖昧な返事をした。


「それ、飲んでも大丈夫なやつ?」

「ストローで飲んでるから平気だよ」


 私はストローから唇を離して答えた。

 するとアイがこちらに手を伸ばして言った。



「あたしにもちょうだい」

「いらないんじゃなかったの?」

「いる」

「あ、そう」


 パックからストローを外し、いちごオレの容器をアイに手渡す。

 するとなぜか彼女は不満そうな顔をした。



「なんでストローを外すの?」

「これは私のだよ。アイも自分のものがあるだろう?」

「カバンの中だもん。取るのめんどう。トワのをちょうだい」

「自分のを使いなよ。アイのは五枚フィルターだろう?」



 私のストローにフィルターを二枚追加するのはそこまで手間じゃない。

 でも、フィルターだって消耗品だ。決して安くはない。

 色々なものに汚染されたこの世界で、汚染物質を除去できるフィルターは飲料に欠かせない。

 生きていく上で必要不可欠なフィルターだけど、逃亡者である私たちが都合よくフィルターを手に入れられるとも限らない。

 無駄遣いはできない。



「いいよ、三枚でも。五枚も三枚もそんなに変わらないよ」

「駄目だよ、横着しちゃ。それで命を落とした人だって何人もいるんだ」


 アイは人よりも少しだけ身体が弱い。

 だから私のように三枚のフィルターだけだと、たまに身体を壊すことがある。

 それだと言うのに、彼女はそんなのお構いなしと言わんばかりに振舞うのだ。


「あたしはいいの」


 そう言ってアイは私の手からストローを奪い取ると、こちらが止める間もなくいちごオレを飲みはじめた。



「あ、甘い」

「早死にしても知らないよ」

「いいじゃん。五枚フィルターだと味なんてしないんだもん」


 フィルターを通せば飲料水の風味が損なわれるというのは私も知っている。

 でも、味よりも命の方が大事だと思う。


「返してよ」

「嫌」

「じゃあ、せめて自分のストローを使って」

「それも嫌」


 相変わらずのわがままっぷりに、思わずため息がもれる。

 どうにか言うことを聞いてもらいたいけど、アイの気持ちもわからないではなかった。

 施設にいた時も甘いものなんて滅多に口にする機会はない。

 だからこうして不意に甘いものと出会うのは望外の幸運なのだ。



「ねえ、トワ。もしかしてあたしのこと嫌いになった?」

「どうして?」

「だって……」


 アイはストローを咥えたまま、うつむき加減で足元の小石を蹴飛ばした。


「あたし、わがままでしょう?」

「うん」

「……即答するんだ」

「だって、事実だし」


 正直に答えると、彼女は少し機嫌を損ねたように唇を尖らせた。



「わがままなあたしは嫌い?」

「嫌いじゃないよ」

「ほんとう?」

「うん。ほんとう」


 それを聞いて安心したのか、アイは口元に微笑を浮かべた。

 どうやらいつもより早く機嫌が直りそうだと、私はほんの少しだけ安堵する。

 おそらく久しぶりに甘いものを口にしたのがよかったのかもしれない。



「ねえ、トワはこんなあたしを愛してくれる?」

「もちろん。愛するよ」

「永遠に?」

「さあ? それは私が永遠というものを理解してから答えるよ」


 そんなものを理解できる日が来るのかは疑問だけど。

 そう答えると、やっぱりアイは不満そうだった。



「トワはいっつもそう。屁理屈ばかりこねるのが上手いんだから」

「別にそんなことないよ」


 なんて言っても、アイは信じてくれそうにない。

 私はこれ以上の問答は無用とばかりに立ち上がる。



「さ、そろそろ行こうか」

「どこへ?」

「どこかへ。少なくとも、ここよりも遠いところへ」

「あたし、もう歩きたくない」


 そう言ってアイは苔むしたジャンクの上に腰掛けたまま、足をぷらぷらとさせていた。



「わがまま言っちゃだめだよ、アイ。ここにいるとそのうちセンセイたちに見つかってしまうよ」

「わかってるよ」


 口ではそう言いつつも、アイはその場から動こうとはしない。

 私は彼女の手を握り、むりやり立たせた。

 少しは抵抗されるかと思ったけど、アイはすんなりと立ち上がった。



「行こうか」

「うん」


 私はアイの手を握ったまま、植物に侵食されたアスファルトの上を歩きだした。

 この先になにがあるのかなんて、そんなことまだ子どもである私たちにはわからない。

 でも、少なくともわかっているのはひとつだけ。

 私たちには元いた施設に引き返すという選択肢はないってことだ。





 いちごオレのパックにストローをさし、私はそれをひと口だけ飲む。

 久しぶりに飲むいちごオレはほんの少しだけ甘く、前に飲んだのはこんな味だったっけと私は首を傾げた。

 それでも甘いものを口にできるだけでも上等だ。

 旅の先々で食料を調達するのは難しく、このいちごオレが手にはいったのだってほんとうに幸運なのだ。



 私は一度パックを地面に置き、スケッチブックを手に取った。

 そして右手に鉛筆を握り、目の前のアイを見つめる。

 彼女の身体は半分以上が朽ちていた。

 目玉はとうに腐れ落ち、眼窩の空洞は暗い闇だけがあり、頬の肉は落ち、肌は爛れ、身体のところどころからは名前のわからない植物が生えていた。

 アイのぼろぼろになった唇を眺めると、もうあの舌足らずな甘え声が聞けないのだと思うとさみしかった。


 ――トワは永遠にあたしを愛するって誓える?


 いつかの彼女の言葉が、脳裏をよぎる。

 永遠というものを、私は終ぞ理解できないままだった。


 私は彼女を愛している。

 その想いは今も変わらずにある。

 アイが病魔で痩せ細っていく時も、死んでしまった時も、身体がだんだん腐っていく時も、ずっとずっと、この愛は変わらなかった。


 ――それって永遠じゃないの?


 彼女が生きていたら、そんなことを言うんじゃないかって気がした。

 でもやっぱり、永遠はわからないままだ。


 私はただ無言で目の前のアイをスケッチしている。

 この身体もいずれはアイと同じように朽ちていくのだろう。

 現にもう身体の左半分の感覚が鈍くなっている。

 アイがそうだったように、私もいずれそこからだんだんと弱って死んでしまうのだろう。

 それでも、この目がアイの姿を映すうちは、この右手がアイの輪郭をなぞるうちは、まだ私はアイを描き続ける。



 すでに食料はない。

 飲み物だって後僅かな量しか残っていない。

 それでも、スケッチブックには私が生きているうちに君を描けるだけの余白はあるし、鉛筆もある。

 これだけあれば、私は君に愛を捧げ続けることができる。

 私はただひたすらにアイの輪郭をなぞり続ける。



「ねえ、アイ。私は君を愛してるよ」


 でも、君はあまり私に「愛してる」を言ってはくれなかったね。

 私が君に愛を囁くのと同じくらい、君も私に愛を囁いてくれたらうれしかったのに。

 でも、君はもう二度とその甘い声で語りかけてはくれないんだね。


 ――あたし、トワのこと愛してるわ。永遠に愛するって誓えるよ。


 彼女は最期、私にそう言い残して死んだ。

 私はなにも言えなかった。

 せめて私の返事を聞いてから眠ってくれたらよかったのに。

 そう思っても、しかし私は結局それになんと答えたらよかったのだろうかと疑問に思った。


 死んでしまっては永遠に愛することもできないだろう、なんて考えは浅はかなのだろうか?

 人は死んだ後も人を愛することができるのだろうか?

 もし、できるのなら?

 死後もずっと愛し合うことができたとしたら、それはきっと永遠なのかもしれない。


 でも、まだ生きている私にはそんなことわかるはずもない。

 だからただ、私はアイの亡骸を描き続けることしかできなかった。

 それでもきっと、私はあの時にこう言うべきだったのだろう。



 ――私も君を永遠トワアイしてる、と。


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トワのアイ 瑞木ケイ @k-mizuki

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