九の巻「ほとけ」

「槌の輔、槌の輔、さ、こちらにおいでなさい……まあ!」

 洞の宮、蛇神の灯す鬼火の元で。姫君に誘われた一匹の野槌が、勢いよく飛び跳ねて姫の胸に飛び込みます。

「ふふ、あなたは本当にやんちゃですね」そのまま姫の腕の中に抱かれて、今度はまるで猫の仔のようにじっとしている野槌の背を、姫は愛おしげに撫でるのです。

 そして。「姫や」、と。愛するいもが野槌を愛でるその様子を、蛇神はこれまたうっとりと見つめて言います。

「その野槌が、そんなに愛らしいかい?」

 その問う声は蕩けるよう。

「はい、愛おしゅうございます。この槌の輔が私を見つけてくれたおかげで、私はこうして蛇神様の御許にお招きいただけたのですから」

「うむ。吾もそう思って、それを姫の小姓にしたのであるが……

 妙なものよ、何か、ちと口惜しい。吾もその野槌の様な小さき身であれば……姫の懐に入れるものを、のぅ……」

「では、お試しなされては如何でしょう?蛇神さまは、槌の輔の目を使って、同じ景色をご覧になって、私をおみとめ下さったのですから。この子の背やお腹の肌を使って、同じものをお感じになることも……」

「おお!思ってもみなかった……良い、それは良い!」

 姫の腕の中で、野槌がぴくりと震えました。そして。

「さ、姫や、吾と槌の輔を、抱いてたもれ」

 蛇神の声でそう言う野槌に、先程よりもさらに愛おしげにさらさらと、あるいは背、あるいは身を逆さに返して腹、姫は細い白い指を泳がせます。そして。

 槌の輔の中で、蛇神は言葉を失うのでした。

 初めて味わう、命あること、その安らぎに。

 

 どれほどの時がたったでしょう。いえ、それは半刻にも満たない時間でありました。ですが蛇神にとってその束の間はまるで、彼女の生きた時間の何百年分にも等しい、そう思われたのです。

「吾は」ようやく蛇神が、その沈黙から戻って来ました。

「吾は遥か昔、ただ一人、いつの間にかこの世にあった。親という者を知らぬ。子であったこともない。故に。

 抱き抱かれるということ、何故、何を求めて人が群れるのか、その意味を知らなかった、わからなかったのだ、たった今まで。

 姫や。吾を憎んでは、恨んではいないか?吾は姫を、人が家族と呼んでいたあの群れから拉した……」

「お恨み申し上げております」

 姫の腕の中で、野槌に取り憑いた蛇神は、またびくりと震えます。

「あなた様に嘘を申し上げて、何の意味がございましょう。

 父上、母上、女房たち、他にお屋敷にて仕えてくれた者たち。皆と離されて私は寂しゅうございます。蛇神さま、あなたの連れないお振る舞いを恨み憎んでおります。

 ですが。

 蛇神さま、どうぞ私の心の中をご照覧くださいまし。私はそれでも変わらず、あなた様をお慕いしております。いかがでございますか?」

 すべては姫の言葉の通りでありました。姫が蛇神を憎む心、蛇神を慕う心、それは姫の中で混じり合わずに共にあるのだと、蛇神にははっきりとわかるのです。

 どうしてこんなことが、と。物問いたげな野槌の瞳に、姫は真っ直ぐな眼差しを返して言います。

「生きている限り、人は何かを求めます。何かを欲する、それは人の定めです。ですが人は欲の深いものなのです、自分の器の分を越えて、一時にあらゆるものを貪り求めてしまうのです。それは叶わぬことです。そう願ってはならないのです。だからいつでも何かを捨てることの出来る覚悟を持たなくてはならないのです。

 それが、御仏の教え。

 御仏はおっしゃいました。愛別離苦(愛する者と別れる苦しみ)は人が逃れ得ぬ八の苦の一つであると。それが逃れられないものであるならば、私は。

 蛇神さまのおっしゃる『人の群れ』を捨てます、そう私は心に決めたのです、それがどんなにつらいことであっても。

 私は蛇神さまのお側にいたいのですから。

 そう、ですから。私の心に今も残る、蛇神さまをお恨みする心は、『逆恨み』と申す物です。諦めるべきものを捨てられぬ、愚かな人の業です。私はそれに逆らい耐えなくてはならないのです。たとえそれが消せなくても。

 私が、蛇神さまをお慕いできる私であるために」

 野槌はふるふると震え続けます。

 蛇神にはわかりません。姫の言葉は聞こえても、しかと心に落ちないのです。彼女が生きた数千年の命、ですがそれはあまりにもものでした。たった一人で誰とも慈しみ合うことを知らず、自分を恐れ憎むものをただひたすら憎みかえすこと、それしかなかった彼女には、姫の説く人の心のひだのありようは、あまりにも玄妙に過ぎたのです。

「では姫や」ようやく、これだけが言えました。

「姫は、吾を捨てぬな?」

「はい」

 優しげな声で、しかしきっぱりと答え頷く姫の姿に、顔色に、瞳の輝きに。蛇神はかろうじて、一時の安堵を得たのでした。


 そしてこの時、もう一つ。

(ほ、と、け……?)

「仏」。人の心を直に見通すことの出来る蛇神にとって、諸国の人の言葉の違いは無意味です。天竺でも、唐でも。人間達の口から発せられる音はそれぞれに違っても、その名を蛇神は人間達から同じ「心の声」で何度も聞いたものです。人間達が聖者と祭り上げる、その奇妙な男。

 もちろん、彼女はその男のことを深く気に留めたことはこれまで一度もありませんでした。人どものすがるくだらぬ幻、そう決めつけて。

 ですがこの時。初めてその名が、蛇神の心に一つの小さな、けれど消えない痕跡を刻みました。蛇神はせわしなく姫に問います。

「姫や?そのほとけとは?一体何物であるか?姫はどうしてほとけを知ったのか?姫は何故、ほとけをそうして敬うのか?」

「それは……」姫は答えます。仏はこの世の全ての生きとし生ける物を、苦しみから救うために世に出たのだと。

「御仏は、この世の全てを貫く真の理をお悟りになられた方。そしてそのお悟りに向けて我々衆生の愚かな目を開かせ、そのお悟りの姿を示し、同じお悟りを悟らせ、御仏と同じ悟りの境地に入れて住まわせるために、この世に出でられたのです。

 蛇神さま。御仏の御慈悲は広大無辺なのでございます。それは天から降る雨のように、万人万物に降り注ぐのです。私にも、そして……あなた様にも」

「吾にも……?」

「蛇神さま、私は私のことをずっと、『この世にあって甲斐なきもの』と思い詰めてこれまで生きて参りました。いずれは尼となって一人生きてゆく定めと。私はですから、幼き頃よりずっとその時のために、御仏の御教えを奉じ修めてきたのです。

 ですが私にはずっとわかりませんでした。御仏の教えによれば、あまねく命は全て尊いもの。『甲斐のない命』など、御仏にとってはあるはずがないのです。ならば私はいったい、と。

 今は違います。私にもようやくわかったのです。

 私の命は、蛇神さま、あなたのためにこの世にあった。そして私は御仏のお導きによって、あなたに出会えたのだと。

 蛇神さま。それは、あなたも、きっと……」

 諸国を逃げ流離っていた自分を「ほとけ」がこの倭に、姫の元に導いたのでは、と。そういう姫の言葉を、蛇神はまだ素直には受け取れません。ただ、蛇神はこう思ったのです。

(姫が、吾が妹がこれほどまでに称える、ほとけなる者。あるいは、信じてもよいのかも知れぬ……)

 そしてこう言ったのです。

「姫や。吾もそのほとけのことをもっと知りたい。教えておくれ。ほとけはどんなことを言ったのか?何を教えたのか?」

「蛇神さま」

 すると。姫はその時、今まで蛇神に見せたことのなかった、厳かな面持ちになって。

「私から、あなたさまに一つお願いがございます。御仏の御教の中でもっとも簡単でもっとも難しいこと。

 それは『不殺生の戒』。

 蛇神さま、どうぞこれからは、みだりに生き物を殺めないで下さいませ。殺生はあなたのお心を、お命を悪業で穢します。それは御仏の御教であり、この私のなによりの願いです。どうか、どうか……」

 おそらく、姫はずっとその言葉を口にしたかったに違いありません。切ない声でそう訴えると、姫は仏に向かってするように、蛇神に手を合わせて頭を垂れたのです。

(殺すな、とは……?)

 それがどうしてそんなに大切なことなのか?実は蛇神には理解するのが難しいことでした。彼女にしてみれば、全ての生き物は「勝手に簡単に増える」ものとしか思えないのです。少々殺したところでそれが何だというのでしょう?

 ただ、他ならぬ愛する姫がそう願うというのなら。蛇神はこう答えたのでした。

「姫や。吾はもう、人間に姿を現すつもりはない。この地の底におるならば、吾は人に出会うこともなく、すなわち、殺すことも出来ぬ。

 誓おう。吾はこれより、誰も何も殺さぬ、とな」

 合掌したまま、喜ばしげな顔で自分を見上げて来る姫を、蛇神はうっとりと見つめ返しました。

 己が言ったその言葉が、その誓いがどれほど重いものであったのか。その時の蛇神には思いも寄らないことでしたが……


「よりにもよって!あの蛇神と戦を開こうとはのぅ。土蜘蛛や、お主も大概の阿呆じゃな」

 蛇骨婆。日ノ本の妖の中でも、総大将土蜘蛛にこんな言を吐ける者は彼女しかいない。

「婆殿……いかに婆殿でも口を慎まれよ」

「ひゃは、手下どもの手前、体裁が悪いかぇ?ひゃはひゃは!

……阿呆じゃから阿呆だと言うのじゃ。あの蛇神に真正面からかかろうなど、烏滸の沙汰もいいところじゃて。

 仕方ない。この婆がお主に、いい手を教えてやろうぞ」

「……?」

「人間どももよく言ったものよ、『蛇の道は蛇』じゃ。わしは知っておるぞよ、あの蛇神の急所を、泣き所をのぅ……ひゃは!」 

 あの暗闇の中の妖達だけの社。来たるべき蛇神との戦に備え、おおわらわとなっていたその場に現れた蛇骨婆。うるさい者が現れたものと眉をしかめていた土蜘蛛は、婆のその言葉に思わず目を見開いた。

「婆殿!それはいったい?!」

「蛇神が人間の帝を脅して、生贄に娘を一人出させたのを、知っておるな?覚えておるじゃろ?

 のぅ土蜘蛛、その生贄の娘、その後どうなったと思うぞぇ?」

 思わぬ方向に進む話に、いよいよ怪訝になる土蜘蛛の顔を、蛇骨婆は目をぐりぐりと剥いて得意げに覗き込む。

 「攫うのじゃ。人質にとるのじゃ、あの『蟲愛づる姫』を!

 ひゃは、ひゃはははははははは!」

 社に響く蛇骨婆の毒々しいその笑いを、止める者はその場にはもはや、誰もいなかった。

(続)

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