七の巻「逆理桜紅葉」(その二)

 洞窟の中の薄明りは、姫が歩みを進めるごとに明るくなっていく。そして。

 進めば進むほどに、姫の足取りは速さを増していくのだ。入口辺りでは探り探り、白蛇の先導に従って一歩一歩足を踏みしめていた。が、どうやら奥の明かりが目指すべき場所なのだと悟ったのだろう、姫はある時から急に速足になった。先導していた白蛇は慌てて姫の脇に避け、並走する。そうしなければ姫に踏みつぶされてしまうからだ。それほどまでに姫の歩みは速く、足取りも力強い。

 そんな姫の左右で、今やむしろ、姫に後れを取ってはならぬとばかりに這い急ぐ白蛇達。そして彼らは姫に再々「怪訝そうな」目配りを送る。いや、蛇神の通力を分け与えられたという彼らだが、果たして「己」という意識があるのだろうか?「彼ら自身」が、姫の振る舞いを「奇妙と感じて」いるのだろうか?

 それとも。それは彼らの視界の奥にいるはずの、蛇神の心中を映しているのか?

(こんな贄の乙女は、今まで見たことがない……)


 洞窟の薄明りが、今や煌々と輝く鬼火となって輝く、ここは洞の宮の最奥です。

 そう、その鬼火は、蛇神の両の眼と開いた口の中で燃えている光、それは今や姫の目の前。蛇神はその燃える眼で姫をじっと見つめます。

(いや、いままでにも何人か、ほんのわずかだが、いた……)

 蛇神は、姫を送り届けて来た先ほどの侍たちと、同じことを考えていたのです。白蛇と蝮たちの目を通じて、彼らと同じものをみながら。

(吾の一番気に食わぬ類の乙女ども……覚悟を決め、すべてをあきらめた乙女)

 そしてそういう乙女にはさらに二通りの者があったのだと、蛇神は思い起こしていました。

(あるいは唯々諾々と、静かな面持ちで吾に吞まれるにまかせる。あるいはここぞとばかりに吾に悪態をつき、恨みと呪いの言葉を残して噛砕かれる……どちらも!吾を愉しませぬ、気に食わぬ乙女ども!

 ……だがこの姫は……?いや!!)

 そして最後に、やはりあの侍たちと同じ疑念に落ちかけた蛇神は、それをやっきとなって打ち消すのです。そんなはずはないのです。どちらかに決まっているのです。

(ならば……ならばよかろう!うぬがどちらか、これより試すのみ!)

 まずは、と。蛇神の思うと同時に、姫の足元を囲繞し這い回っていた蛇たちが、ざわざわと姫の足にまとわりつき、体を這い上がり始めました。そう、彼らにはわかっているからです。次に彼らの主人が何をしろというのかを。

「衣、うぬ等人どもの被る、嘘の皮……」

「その通りでございます、蛇神さま」

 蛇神がこれまで、何百回と繰り返してきた、乙女たちへのその宣告。ですが、それが途中で遮られたのはまったく初めてのことでした。撞木で打たれた鐘が、その瞬間すぐさま鳴り響くように。その時、姫の発したその言葉はあまりにも素早く、あまりにも鋭く力強かったのです。それで、さしもの蛇神も気を呑まれてしまったのでした。ぎくりと言葉を呑み込んだ主に合わせるかのように、姫に取り付いた蛇たちも、一斉に動きを止めました。

「衣は人の……嘘の皮。蛇神さま、あなたはなんと賢きお方なのでしょう、何もかもお見通しなのでございますね。あなたを偽ることは出来ない……もとよりわたしの本意でもございません。衣は人の、いいえ、私の、嘘の皮……」

 侍たちに捕えられ、着の身着のまま縄をかけられた姫でした。身に着けていた衣は、いつもの小袿に白袴。結んだ帯をためらいのない滑らかな指使いでするすると解いて、そして姫は自ら、身に着けていた衣を全て、まだそこに取り付いていた蛇たち諸共にはらりと、蛇達のうようよと這う地の上に投げ落としました。

 蛇神の鬼火に照らされて、その目に映った姫の姿。

 衣に隠されていた姫の首から下は、胸と言わず腹と言わず背と言わず、腰と言わず腿と言わず腕と言わず、赤、青、黒とまだらな痣で覆われていたのです。姫のまだあどけなさを残した、そこだけが艶やかな肌の首が、暗い色に染め上げられた皺だらけの縮緬のような肌に覆われた体に乗っているその様。まるで首だけがぽつりと宙に浮いて見えます。打首になった咎人の首が竿に刺されて立っているかのよう。およそ誰もがまっすぐには見るに忍びない、それはそれは無残な有り様でした。

 そう、かの蛇神ですら、息を呑んでしまうような。

 継ぐ言葉を失った蛇神に、姫は縷々と語ります。

「ご覧の通りでございます。この体は生まれつき。幼き頃より、私はこれを衣で、嘘の皮で隠して来たのです……前の世で、私はどんな罪を犯したのでしょうね」

 父母とそれに乳母の柏木だけが知っていた、姫の秘密。そしてそれは姫の前世の宿業として、大納言一家の、そして姫自身の心に堅く堅く掘り刻まれていたのです。

 己は、【この世にあって甲斐なきもの】と。

「お屋敷の女房たちも、侍達や下働きのものたちも。いつも皆、私を褒めそやかしてくれました。姫様は美し、美し、と。衣の下の私の姿を、心の中を知らずに。私は、寂しかった……

 私は人が『見苦し』と言う男の童達に、人が『醜し』と言う毛虫かはむしを集めさせました。始めは、嗤うつもりだったのです。私よりもっと醜いものを。それで気を晴らすつもりでした。飽きたら捨てても、殺しても構わない、こんな醜い、こんなくだらない生き物は、と。そう思っていたのです。

 でも私は、そのまま毛虫を飼い続けてしまいました。何故でしょう?それは……寂しかったから。毎日男の童たちに木の葉を運ばせて、毛虫は木の葉を食んで、一皮一皮脱ぐたびに大きくなって、そうしていつの間にか。私はその毛虫が愛おしくてたまらなくなっていたのです。この子ならあるいは、私の気持ちもわかってくれるのでは、と……

 ところがある時、その毛虫は貝のような姿になって動かなくなりました。その姿を『蛹』と呼ぶのだと、私は男の童たちに教えてもらったのです。

『これがやがて蝶になるんですよ』。私はそうとも聞きました、その時、初めて。

 私は待ちました。どうしてもそれを、自分の目で見たかったから。蛹の殻を脱いで、羽を広げたその蝶は……とてもとても美しゅうございました……覚えています。私はそれから、あんなに美しいものをまたと見たことがありませんでした。

 ……蛇神さま」

 話しながらやや伏し目がちになっていた姫は、そこで再び蛇神に向き直りました。その穏やかに透き通った瞳の色に、蛇神の眼もまた吸い込まれるよう。

「『美しい』とは何でございましょう?『醜い』とは何でございましょう?人が醜し醜しと嗤い嫌う毛虫は、やがて美しい蝶になります。でも、私は?人は生まれついた皮を脱ぐことはできません、いつまでも、死ぬまでこの醜い体のまま。でも皆は私を美し、と。それはただ、衣をまとっている時だけ……

 しかも蛇神さま、その衣は?衣とは何でしょう?元は、醜い毛虫が吐いた糸で織ったものではありませんか。毛虫の繭を勝手に奪っておいて、そこまでして人は美しくなりたがる……なのに毛虫を卑しむのです。何故でしょう?

 それに『貴い』とは?『賤しい』とは?人は私を尊い姫と敬って、大事にしてくれました。でも男の童たちやお侍たちは、私より『賤しい』身分なのだと。だから気安く話などしてはならないと、近づいてもいけないと、皆にそう言われました。でも。

 賤しいのは、見苦しく汚らしいのは、前の世の罪に穢れた私の方なのでは?

 ああ、人の世の、十重二十重の嘘の皮……

 私にはわからなくなったのです。わかりません、今でも。ですが、あの時、蛹から生まれ変わった蝶を見て、私は美しいと思いました。その気持ちには逆らえなかった。そうしてその後も、私は男の童に毛虫を集めてもらったのです。私を置き去りにして、毛虫はやがて美しい蝶になってしまう。でもそうとわかっていながら、私は毛虫が見たくて見たくてたまらなかった。その時私は、毛虫が毛虫のままで美しく思えるようになっていたのです。そのままの姿の中に、虫は美しさを隠している、私には手に取るようにわかるようになりました……

 それが、嘘の無い、本当の私の気持ち。私はその時から、私の心にだけ従おう、そう決めました。

 私にとっては、私が美しいと思うものこそ、美しいのだと。

 ……蛇神さま」

 姫の顔色が次第に、うっとりと喜びの色に染まっていきます。

「あなたが西の京を焼いたあの夜、あの時。私は車の中で、あなたのお姿を遠く見上げておりました。炎の中でたくさんの人が死んでいく、その恐ろしさをそうと知りながら、罪深い私は感じてしまったのです、思ってしまったのです、心から。

 燃える焔に照り輝く、あなたの長く真白いお体、そのお姿は。赤に黄色に燃える紅葉が、竜田の川に葉を散らした、歌に名高きその景色もかくや、と。

 私は、あなたに、お会いしたかった。この時を待っていたのです。もうこれで私はこの世に思い残すことはございません。あなたに間近にお目にかかれた、この上は。

 蛇神さま。御身、いと、いといとうつくし……

 あなたは、お美しゅうございます……」

 柏木が見たとおり、姫君は確かに魅入られていたのでしょう。ですがそれは、蛇神の魔力によってではありませんでした。

 姫君を虜にし、物狂わしくしていたもの、それは。

 姫君自身の、誠の恋心であったのです。

(続)

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