五の巻「ひめとくちなは」

 内裏に現れた蛇神の「使者」は、主上に何を伝え、何を求めたのでしょう?その後、都にはひと月ほど何も起こりませんでした。ただ、そこにもここにも溢れんばかりに現れた蛇達が、相変わらず群れ蠢く他は。

 そして都にはなぜか、人々が少しづつ戻って来たのです。貴人も庶民たちも。

 庶民たちは、からりと明るい顔でこう言います。

「夢に羽衣をまとった美しい天女様が現れ、蛇神は海の彼方に去ったとお告げを授けて下さった」と。そして同じ夢を見たというものが大勢ありましたから、皆それを聞いて信じたのでしょう、手に手を取るように連れ立って都に帰って来たのでした。

 一方、貴人たちは。黒雲に塗り潰されたような血の気の無い顔色で、逃げ延びたはずの遠国からひっそりと、三々五々都に戻って来ました。この人々は固く口を閉ざし、何も語りません……

 ともあれ。焼け野原となった西の京はともかく、東の京は以前の賑わいを取り戻したようでした。そう、うわべの見かけだけは。


大殿おとど様はいづれに?いづれにおわしますか?!蛇が、蛇がまた姫様に!」

 柏木が慌てふためく声を聞きつけて。按察使の大納言は太刀を下げ、自ら姫のいる対屋へ駆けつける。見れば、現れた蛇に恐れをなしたのだろう、母屋から飛び出し廂から渡殿を逃げ惑う女房達。柏木だけが辛うじて立ち止まっているものの、この様子では姫の傍にはおそらく誰も付き添ってはおるまい。大納言は女房達の軽率に眉をひそめるも、即座に無理もないと思いなおして渡殿を急ぐ。

「姫様は蛇神に魅入られていらっしゃる」。

 蛇神が都を襲ったあの夜。大納言の姫を乗せた牛車は、どうやら無事に鴨川を越えた都の外に逃げおおせていた。そして同じあの時、内裏に出仕していた大納言は、主上に御供し長岡をさして、やはり一度京の都を発っていた。姫と大納言が自分たちの館に戻って再び出会えたのは、次の日のこと。しかし姫のあの夜の牛車でのただならぬ様は、柏木の心を不安と恐れに塗り潰した。そして彼女は大納言にそれを告げた。

 何を馬鹿なとその時は、口では叱責したものの。柏木のその言葉は大納言自身にも胸に食い入って消えない不安の源となっていた。姫の乳母であった柏木のその言葉は、決して故なきものではない。彼には、柏木と同じ思い当たる節がある。姫には、愛する娘には、が確かにあるのだ……。

 立ちすくむ柏木の視線を頼りに、大納言は几帳を払って姫のいる一間に駆け込んだ。すると。

 姫の座る畳を降りてすぐ側の床に、一匹の野槌。相変わらず、それは人を見てもまるでたじろがない。己が侵入者でありながら、ふてぶてしい我が物顔。悠然と左右に目を配りながらも、主な関心は姫にある様子、ねめつけるような目を向ける。

 一方姫もまた、しとねに静かに座ってそれを見つめる。両者の間は一間足らず。いや、姫は膝を擦りながら、さらにその蛇に近づこうとするではないか。手には円座まろうざ。よもや、姫手ずから、野槌に座を勧めるつもりなのだろうか?

「ならぬ!」大納言は足音高く姫に駆け寄ると、野槌と姫の間に割って入り、太刀の柄に手をかけ蛇に鋭い一瞥をくれると、肩越しから背後の姫に振り返って叫んだ。

「下がれ、姫よ、それに近づいてはならぬのだ!」

 父大納言の必死の声。しかし、それに対して。

「父上様、どうか……私はそのくちなは(くちなわ)を見たいのです。もっとよく見たい……ご存知でしたか?くちなはにも色々の姿のものがいるのですね。赤いもの青いもの、頭の尖ったもの丸いもの、長いもの、今いるそれはそんなに体が短くて、頭が大きくて、胴が太っている……」

 姫の声は夢見るような和やかさ。そしてその陶然とした瞳の色と、うっすらと桃色に染まった頬。父大納言はその様子にむしろ背筋が凍る。「魅入られている」。柏木のあの言葉が彼の頭の中に木霊するのだ。

 今彼は後悔している。長岡への途上から都にとんぼ返りした彼は、急使の伝えた蛇神の言付けを、主上と共に聞いた者の一人、すなわち、「どこに逃げても無駄なこと」、そう思い都に残ることを決意した者の一人であった。しかし。今目の当たりにする愛娘の物狂おしい様に。

(やはり姫共々、遠国に落ちるべきであったか……いやしかし!)

 後悔しながらも、なおも彼の心は揺り返される。

(結局落ちた者も都に……!)

 その後、内裏に白蛇の「使者」が現れたあの日も、彼はその場にいたのだ。そして聞いたのだ。白蛇の口から語られた、蛇神の非情な要求。

「まず一つ。今のままでは吾のが足りぬ。都に人を戻せ。いや……遠く逃げた者は吾が直々に呼び返すとしよう。うぬ等に任せてはおそらく時がかかり過ぎる。なに容易い。吾からこうして白蛇を遣わすだけのことよ。なれば、うぬ等はこの近くの野山に散っている者どもをどうにかいたせ。ひと月もあればよかろう?」

 遠国に落ちた貴人たちはその後みなそれぞれ、あの恐るべき「使者」の訪問を受けたのだ。そして都に返れという蛇神の命令を直に聞かされた……逆らえる者のあるはずもない。だが、貴人たちが諸国に散った先その全てに白蛇を?

(同じ蛇ではあるまい。しかし、なればどれだけの……そしてつまり、この日ノ本は、もはや隈なく蛇神に見張られているということだ……!)

 さて、都近くの山野に流れた庶民達をどうするか。蛇神は「どうにかしろ」と命じたのみ。それはまったく内裏の百官に任された。探して都に追い立てるには役人がとても足りず、そしてたとえどう脅しすかしても容易には戻って来るまい。膝詰の討議の後、百官が決した奇策。

(噂を流した……偽りの天女の噂……)

 だがそれは驚くほどの効果を奏したのだった。本心では都を、慣れ親しんだ穏やかな暮らしを恋焦がれていた庶民達。蛇神の圧倒的な猛威の前に、神頼みしか術のなかった彼らに、その偽りの神秘的な噂話はむしろ彼らの望み通りの響きであったのだ。

 かくして都に再び人が満ちた。だがそれは。

(おのれ……蛇神め、我らを飼い殺しにするつもりなのだ。あれからひと月、間も無く最初の生贄が選ばれる!何ということを……何ということだ!)

 生贄。そう、蛇神はこう言ったのだ。

「都に人が戻ったら……そうだな、吾の言った通り、およそひと月であろうな。今日よりひと月経ったら。

 吾は、乙女を用いてを好む。乙女を吾に贄として献じよ。

 贄なる乙女は眷属たちの目を用いて吾が自ら見て選び、その元に白蛇を遣わす。されば、うぬ等はそれをただ待てばよい。そして白蛇の案内に従い、すみやかにその乙女を吾に引き渡すのだ。

 ……うぬ等ひとどもは取るに足らぬ猿だが、乙女だけは良い。

 一息に呑んで、もがく様を喉で味わうも良し。じっくり噛み潰して、鳴く声を聞くも良し。実にたのしき玩具である……

 ひと月に、乙女一人!それでこの都も、倭の国も安んじられよう。吾は嘘を嫌う。この場で確かに、うぬ等にそう約してやる。さればそれ、吾を決して裏切るな!!」

 そう言い残して、内裏の床に松の枝を置いたまま、白蛇はするりと滑り去った。 

 そして今、大納言の目前で、その姿が野槌と重なる。父と娘の問答に退屈したかのように、そしてと言わんがばかりに、野槌もまた。ふいと二人を背後に見捨てると、うねうねと背を丸めては伸ばし、尺を取りながら几帳の外に消えていく。姫は未練気にその行方を目で追いながら。

「けら麻呂も、いなごの介も……あれから、男の童が誰も来てくれなくなりました。皆、都を去ってしまったのか、それとも……でもその代わり、今はああして毎日くちなはが私のところに来てくれるのです。生まれ変わりなのでしょうね……おかげで私は寂しくありません」

 父に対してか、己に言い聞かせるのか。そう呟く娘に、父大納言は悔し気に肩を落とす。迫り来る蛇神の脅威はさりながら、それよりも。愛娘の背負っているある宿、それを払ってやれない自らの無力に失望して。


 按察使の大納言の館に、あの松の枝を咥えた白蛇が現れたのは、その数日後のことでした。

(続)


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