1-③ 


 開店前のお店。

 しかも、和菓子屋さんに入るなんて、特別なことのように思え、慶子さんはどきどきした。

 お店に入ると、まさにさっきのスポンジケーキの匂いがした。


「ここで待っていてください」


 和菓子屋さんに椅子をすすめられた慶子さんは、大人しく腰かけた。 そして、座りながら店内を眺めた。 

 はっきり言って、慶子さんと和菓子の間には、今までの人生において接点はなかった。せいぜい、おはぎと柏餅くらい。

 しかも、柏餅に関してはあまりいい思い出はない。

 慶子さんの名字は「柏木」というのだが、その名字ゆえに、小さい頃のあだ名は柏餅だった。

 さらに言うと、柏餅をめぐっては、幼いころに苦い出来事があり。

柏餅は好きだし、怨みもないのだけれど、せめて自分が違う苗字か、柏餅が柏餅という名前でなければと、幼い慶子さんは思ったものである。


 そんなことを思い出しながら、和菓子のショーケースを眺めていた慶子さんは、ふと、あるお菓子のところで目が止まった 

 それは桃色した、まさに桃を模したお菓子であった。

 確かああいうのを「なんとか菓子」って言うのよねと、思いつつその「なんとか」が出てこない慶子さん。


 実は慶子さん、その桃のお菓子そのものよりも、それに添えられた説明文に興味を惹かれたのだ。


 ――長寿を得られると言い伝えのあるお菓子です。



 


「お待たせしました」

 声とともに、目の前には小さなお盆を持つ和菓子屋さんが立っていた。

 そして、その上にはおしぼりとお茶ともう一つ。

「スポンジケーキの匂いの正体は、これです」

 小さなどらやきがあった。

「どらやきですね」

 あぁ、なるほど。

 確かにどらやきの外側部分は、ホットケーキに似ている。 ホットケーキもスポンジケーキも、材料は似ているだろう。

「よかったら召し上がってください」


 和菓子屋さんはそう言うと、お盆を慶子さんの隣の小さなテーブルに乗せた。 どらやきからは、いい香りが漂ってきた。

「いいんですか?」と、慶子さんは和菓子屋さんに聞くと「もちろん」という答えが返ってきた。

 慶子さんはいただきますと言い、おしぼりで手を拭き、そしてどらやきを手に取った。   

 どらやきは、慶子さんの手の中にすっぽりとおさまった。 そして、ほんのりと温かい。

「小鳥みたい」

 昔飼っていた文鳥の温かさと、それは似ていた。

 そして、慶子さんは、どらやきを一口ぱくりと食べた。


 ふわりと口の中に幸せが広がった。


 外の生地の微かな甘さと柔らかさ。

 そして、それと馴染む餡子のつぶつぶ感。


「おいしいです」  


 なんておいしい食べ物だろうと、慶子さんは思った。

 ちっとも特別じゃない「どらやき」という食べ物なのに、どう考えてもそれはちっとも普通じゃないおいしさだったのだ。


「ありがとうございます」


 慶子さんの言葉に、和菓子屋さんは嬉しそうな顔をした。

 そして、そのまま慶子さんは無言でどらやきを食べ終わると、お茶をぐいっと飲んだ。

 びっくりして、湯呑の中を見る。

 見た目は普通のお茶だ。


「お茶までおいしいです」


 考えてみたら、そりゃいいお茶の葉を使っているのだろう。

 慶子さんのところの安いお茶とは、単価が違うのだろうと思った。

 慶子さんの言葉に、和菓子屋さんはにこりと笑った。

 その顔を見て、またしても慶子さんは失礼にも、バランスが悪いと思ってしまった。

 一体、この親切な人のどこが、慶子さんにそう思わせるのか。 


 うむむと思いながらお茶を飲みほし「ごちそうさまでした」と言った慶子さんの視界に、再び桃のお菓子が入った。

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