婚約破棄を突き付けられたので、別れる前にもう一度だけ抱いてほしいと彼にお願いしました。半年後、私を抱いたことが原因で彼が死にました。

柚木崎 史乃

第1話

 私の婚約者──マルセルは、伯爵家の三男だ。

 兄弟の中でもずば抜けて頭が良く勉強熱心な彼は、見聞を広めるために外国に留学している。

 マルセルが旅立つ前日。私がめそめそ泣いていると、彼は「ローナは大げさだなぁ。留学といっても、一年間だけだからあっという間だよ」と言って宥めてくれた。

 けれど、彼のことが大好きだった私にとってその一年はとても長く、体感的には十年以上にも思えた。


 そんな彼が、来月帰国するらしい。

 なんでも、予定より一ヶ月ほど早まったそうだ。

 マルセルと早く会いたい私にとっては、願ったり叶ったりだったのですぐに「楽しみにしています」と手紙の返事を出した。


「いよいよですね、お嬢様」

「ええ、楽しみすぎて待ちきれないわ」


 専属侍女のハンナと、そんな会話を交わす。

 ハンナは、私の侍女であると同時に大切な友人でもある。

 マルセルがいない間、私の心を支えてくれていたのは彼女だったと言っても過言ではない。

 大好きな婚約者と、気の置けない友人──私は、本当に人間関係に恵まれていると思う。



 数日後。

 私は、ハンナを連れて夜会に参加していた。

 マルセルのいないパーティーは退屈で仕方ないけれど、貴族である以上社交界での付き合いは避けられない。

 パーティーに参加している令嬢たちとの談笑を終えた後。不意にどっと疲れが襲ってきたため、私は会場を出て庭園の一角にある噴水の縁に腰掛けて休んでいた。

 しばらくの間、そうしていると。ふと、一人の大柄な男が私のほうに向かって歩いてくることに気づく。

 男は、まるで寝起きのようなボサボサの髪に作業着と思しきサロペットといった出で立ちだ。身なりからして、とてもパーティーの参加者とは思えない。

 

「あんたがローナ・アッシェリマン男爵令嬢か?」

「ええ、そうだけれど……あなたは?」


 怪訝に思い、眉をひそめる。

 次の瞬間。男はニッと口の端を吊り上げたかと思えば、突然私を組み敷いた。


「何をするの!? 離して!」

「悪いな。あんたに恨みはないけど、金のためなんだ。我慢してくれよ」

「……!?」


 私はそのまま男に手で口をふさがれ、助けを求めることもできず──否応なしに犯されてしまった。




 一週間後。

 あの後──結局、私は放心状態で噴水の前に座り込んでいたところをハンナに発見された。

 あれ以来、ハンナは「自分が目を離したせいでお嬢様が暴漢に襲われてしまった」と自責の念にとらわれている。

 私がいくら「あなたのせいじゃない」と諭しても、彼女は決して自分を許そうとはしなかった。

 あの時、ハンナは気分が優れない私のためにわざわざ気を利かせて飲み物を取りに行ってくれていた。

 そんな彼女を責めることなど、私には到底できない。


 数日後。

 ふと、私は自分の体に違和感を覚えた。

 何故だかわからないけれど、朝から倦怠感がひどい。少し熱もあるみたいだ。

 風邪かもしれないと思い、しばらく安静に過ごすことにした。


 さらに数日後。

 おかしい。もう一週間近く経っているのに、一向に熱が下がらない。

 それどころか、どんどん熱が上がっている。高熱にうなされながら、私はマルセルの顔を思い浮かべた。

 早く、彼に会いたい。会って、あの日の出来事を忘れたい。

 でも、マルセルに自分が性被害に遭ったことは言わないでおこうと思う。きっと、ひどくショックを受けるだろうし……何より、私自身が見知らぬ男に汚されたことを彼に知られたくなかった。

 次の被害者を出さないためにも、一日も早く犯人が捕まることを祈る。


 具合が悪くなってから、約二週間が経過した。

 あまりにも体調不良が続くので、主治医を呼んで診てもらった。

 けれども、主治医は「原因がわからない」と首を横に振った。

 仕方がないので、とりあえず解熱剤を処方してもらって様子を見ることにした。



 そして──気づけば、マルセルの帰国予定日が間近に迫っていた。

 幸いにも、その頃にはすっかり熱が下がっていた。

 夏風邪が長引いていただけなのかもしれない。釈然としなかったけれど、そう思うことで無理やり自分を納得させた。



 二日後。

 今日は、いよいよマルセルが帰国する。

 逸る気持ちを抑えながら、私は船着き場へと向かった。

 船から降りてきた沢山の旅客の中から愛しい婚約者の姿を見つけ出すと、私はそばに駆け寄る。


「お帰りなさい! マルセル!」


 マルセルの顔を見るなり、私は彼の胸に飛び込んだ。

 けれど、何故か彼は浮かない顔をしている。


「どうしたの?」

「……」


 怪訝に思い、マルセルの顔を覗き込むと。

 彼は、言いにくそうに話を切り出した。


「帰ってきて早々、こんなことを言うのも気が引けるんだけど……」

「……?」

「ローナ。君との婚約を破棄したいんだ」

「え……?」


 なんで? どうして? それ以外の言葉が思い浮かばなかった。

 私、何かマルセルに嫌われるようなことした?

 いや、そんなはずはない。だって、私はいつも全身全霊で彼を愛していたから。


「じょ……冗談よね? もう、マルセルったら。質の悪い冗談はやめ──」

「他に好きな人ができたんだ。彼女のことを考えると、胸が苦しくて……こんな気持ち、初めてだよ」


 現実を受け入れたくない私に、マルセルは容赦なく言葉を被せてきた。


「船に乗っている間、ずっと考えていたんだ。これ以上、自分の気持ちに嘘をつきたくなかったんだよ。それに……こんな気持ちのまま結婚しても、君に対して失礼だろう? だから、どうかわかってほしい」

「…………」


 言葉を失ってしまう。

 確かに、彼の言う通りだ。他の人に気持ちが向いているのに、無理に結婚してもうまくいくわけがない。

 未練がましく縋り付いてもみっともないだけなので、私は泣きたくなるのをぐっと堪えて笑顔を作った。


「──わかったわ。婚約を解消しましょう。気持ちが離れてしまったのなら、引き止めても仕方ないものね」


 もしかしたら、気丈に振る舞っているだけなのがばればれかもしれない。

 けれど、最後くらいはいい女でいたかった。きっと、私の気持ちは彼にとって重かったのだろう。

 きちんと反省するべきところは反省して、潔く彼とお別れしなければ。


「ありがとう、ローナ。わかってくれて嬉しいよ」

「あの……一つだけわがままを言ってもいいかしら?」

「何だい?」

「お別れする前に、もう一度だけ私を抱いてくれませんか?」

「え?」


 マルセルは目を瞬かせると、意外そうな顔をした。

 正直、自分でも何故こんなお願いをしてしまったのかわからない。

 さっき、潔くお別れしようと決心したばかりなのに。


 ──未練たらたらで格好悪いわね、私……。


「もちろん、気が進まなかったら断ってくれても構わないわ」

「別に、嫌ではないから大丈夫だよ。よし、わかった。君がそこまで言うなら……」


 マルセルは、快く私の願いを聞き入れてくれた。

 その日の夜──私とマルセルは、肌を重ね合わせた。



 そうして、歳月は流れ。

 気づけば、あれから数ヶ月が経っていた。

 マルセルとの婚約を解消したのとほぼ同時期に、侍女のハンナが退職を申し出た。

 理由を聞いてみれば、やはりあの事件以来どうしても自責の念に苛まれてしまい今後仕事を続けていくのが難しくなったとのこと。

 私に対して申し訳が立たない、とひどく憔悴した様子で邸を去っていった。


 同時に二人の大切な人を失った私は、心にぽっかり穴が空いたような感覚に陥っていた。

 それでも日々は過ぎていくので、私は喪失感に悩まされながらも毎日を必死に過ごしていた。

 そんなある日、例の暴漢が捕まったという知らせを受けた。

 あの時、男は「金のため」とまるで誰かに雇われて行動しているかのような言い方をしていた。

 背後に黒幕がいるのは間違いなさそうだったが……結局、彼は口を割らないまま獄中で自害してしまったらしい。



 婚約を解消してから、ちょうど半年が経過した頃。

 私のもとにマルセルの訃報が届いた。死因は病死らしい。彼の家族の話によると、彼の新しい婚約者も後を追うように病気で亡くなってしまったそうだ。

 マルセルの身に一体何が起こったのだろう? あまりにも突然すぎて、悲しみよりもまず先に疑問が湧いた。


 ──半年前まで、あんなに元気だったのに……一体なぜ?


 けれど、その疑問は数日後に私を訪ねて来た主治医の先生の話によって解決した。



「つまり……あの時、あなたは感染症を患っていたんですよ」

「感染症……?」


 先生曰く、半年前に私が高熱を出して数週間寝込んでいたのは感染症にかかっていたからなのだという。

 当時、彼は原因がわからないと首を傾げていたが……なんでも、各地で似たような症状に悩まされている人がいて気になっていたらしい。

 それで、数日前にようやく医学研究の成果が出て原因が判明したのだとか。

 徐々に免疫細胞が減っていくその病は、感染者と性交渉を持つことで高確率でうつってしまうとのことだった。


 ──ということは、私はあの暴漢から感染したのかしら……?


「それで……こんなことをお聞きするのは失礼かもしれませんが。症状が出てから、誰かと性交渉を持ちましたか?」

「あっ……」


 半年前、自分がマルセルに頼み込んで別れる直前に体を重ねたことを思い出す。


「はい……持ちました」

「そうですか……。それで、相手の方とは連絡が取れるんですか? もし、取れるなら早く教えてあげてください。治療をしないまま放っておくと、数年以内に間違いなく死に至ってしまうので……」

「……亡くなりました。数日前、訃報が届いたんです」

「は……?」


 先生は信じられない、といった様子で目を瞬かせる。


「まさか……そんな馬鹿な。いくらなんでも、早すぎる」


 先生が言うには、発症から死亡までどんなに早くても二年はかかるとのことだった。

 今、私の症状が治まっているのは、いわゆる無症状期間に当たるからなのだそうだ。


「いや、待てよ……」


 先生は、ハッと何かに気づいた様子で目を見開く。


「アッシェリマン家か……なるほど、道理で聞き覚えがあると思ったら……」

「あ、あの……どうしたんですか? 先生」

「ローナ嬢。つかぬことをお聞きしますが、あなたのご先祖様に優れた魔導士はいらっしゃいませんか?」

「魔導士ですか? そういえば、アッシェリマン家は千年前の大戦で活躍した英雄──大魔導士アドルファス・アッシェリマンの末裔だという話を聞いたことがあります。そのせいか、アッシェリマン一族はみんな魔力が高いです」

「やはり、そうでしたか……」

「……?」


 不安を覚えつつも先生の顔を覗き込むと、彼は私の目を見据えて説明を始めた。

 英雄アドルファスは、その高い魔力を駆使して自身の免疫力をコントロールしていたお陰で病気にかかってもすぐに治ってしまっていたそうだ。

 だから、彼の末裔である私も無意識にその力を使っている可能性が高いと。詰まるところ、そういう話だった。


「要するに、私はもう治っているということですか?」

「ええ。きちんと検査をしてみないとわかりませんが、その可能性が高いでしょう。さて、あなたの元婚約者の症状の進行が何故か早かった件についてですが……」


 先生は一呼吸置くと、続きを話し始める。


「前述の通り、アドルファスは魔力で自身の免疫力をコントロールしていました。当然、感染症を患った経験もあったようですが、治すにあたって一つだけ問題点があったそうなんです」

「なんですか? 問題点って……」

「どうも、治るまでの間に体の中でウイルスがより致死率が高いものへと変異してしまっていたらしいんです。一説には、彼が持っている膨大な魔力が関係していると言われていますが……本当のところはわかりません。とにかく、彼から感染した人間は無事ではいられなかったんですよ」

「私も、無意識にそれをやっていたかもしれないと……つまり、そういうことですか?」

「ええ……あくまでも、仮説ですが」


 先生は、戸惑ったような表情でそう返した。

 私は動揺した。もしそれが事実なら、間接的にマルセルや彼の新しい婚約者を殺してしまったようなものだからだ。


「おっと、もうこんな時間だ。長居してしまって申し訳ありません。話は以上です。とにかく、すぐに検査に来てくださいね。……明日にでも」


 先生は一礼すると、くるりと背中を向けて部屋から出ていった。



 翌朝。

 いつもより少し早く起きた私は、先生の言いつけ通り検査に行こうと思い身支度を整えていた。

 ふと、コンコンと扉をノックする音が聞こえてきたので準備を中断する。

 そして、少しだけ扉を開けて隙間から顔を出した。


「失礼します。お嬢様宛にお手紙が届いております」

「ありがとう。受け取るわね」


 そう返し、私はメイドから手紙を受け取る。

 差出人は──マルセルの実姉だった。


 ──マルセルのお姉様が、私に手紙を……?


 婚約を解消する以前、彼女にはとても良くしてもらっていた。

 マルセルとの関係を断ってからは、気まずいこともあって全然連絡を取っていない。

 なんとなく嫌な予感がしたけれど、とりあえず封を切って手紙を読んでみることにした。


「え……?」


 手紙を読み終えた私は、唖然とした。

 マルセルの姉は、手紙の中でひたすら謝罪と懺悔をしていた。

 何故なら、そこに書かれていたのは──マルセルとハンナがもう何年も前から恋仲だったこと、体裁よく婚約解消したいがためにマルセルがスラム街のごろつきを雇って私を強姦させたこと、私が傷つくと思いマルセルとハンナが婚約したことを内密にしていたこと等々……どれも、私にとってはショックが大きすぎる内容だったからだ。

 お姉様の話によると、マルセルは昔からプライドが高く出来ることなら自分から婚約破棄を切り出したくなかったらしい。「きっと、弟はあなたが性被害に遭って精神を病めばていよく別れられると考えていたのだと思う」と書いてあった。


 ──ああ、そうか。私、裏切られていたんだ。


 ハンナのあの態度も、全部演技だったのね。

 さも責任を感じて仕事を辞めるかのように振る舞っていたけれど。

 全てを知った今、「元婚約者とその恋人を間接的に殺してしまった」という罪悪感は吹き飛んでいた。


「おかしい……なんだか、急に眠くなってきたわ。こんな時なのに……」


 昔からそうだった。何故か、肝心な時に眠くなってしまうのだ。

 異常なのはそれだけではない。起きている時も、たまに自分の意に反する言葉を口走っていたりするし……。


 ──先生、ごめんなさい。今日は検査に行けないかも……。


 不意に襲ってきた眠気に耐え切れず、私は椅子に座ったまま意識を手放した。



 ***



「──あーあ、だから『気が進まなかったら断ってくれても構わない』って言ったのに。あの時、断っていれば死ななかったのに馬鹿だなぁ。あのマルセルとかいう男。……ま、今回死ななくてもいずれ別の方法で殺していたけどな」


 そう言って、おもむろに椅子から立ち上がると、俺は姿見の前に立った。

 うーん、やっぱり俺の子孫はいつ見ても可愛い。この娘を『器』に選んで正解だったな。目の保養になる。

 とはいえ……今までの器と違って自我が強いせいか、いつでも自由に行動を操れるわけではないのが難点だが。


「しかし、ローナも見る目がないよな。俺なんか、マルセルと初めて顔を合わせた瞬間から奴がダメ男だと気づいていたというのに……」


 千年前。今際の際に、俺は咄嗟に肉体と魂を切り離す禁呪を使った。

 それ以来、自分の子孫に憑依することを繰り返しながらアッシェリマン家の人間たちを見守っている。

 何故、禁呪を使ったのかというと──シンプルに早死にだったからだ。大抵の病気は自力で治してきた俺でも、残念ながら治せない病気はあったのだ。

 二十代で、結婚したばかりで子供もまだ小さかったのに病死とか……いくらなんでも可哀想すぎるだろ、俺。

 というわけで。ローナには悪いけど、もう少しだけ身体を借りさせてもらおう。


「その代わり……お前を傷つける人間は今後もこの俺が──大魔導士アドルファス様が責任を持って闇に葬ってやるからな。安心しろ」


 呟くと、俺は鏡に向かってニカッと笑った。

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婚約破棄を突き付けられたので、別れる前にもう一度だけ抱いてほしいと彼にお願いしました。半年後、私を抱いたことが原因で彼が死にました。 柚木崎 史乃 @radiata2021

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