天使の涙

醒ヶ井

第1話

緑さす夏のことだ。澄清の青空がふっと灯りをともしたようにじっくりと色を変えていくころ、私は目を覚ました。


ぱちぱちと瞬きをする。未だ曇りがかった視界の中、遠くの方で、誰かと会話している母の声がした。


「あ、娘の…ありがとうね、ほんとうに」

「いえ…本当に、本当に…亡くなったんですね。遅くなってしまってすみません」


私は寝起きが良い方だから、起きた瞬間でも何が起きているかちゃんと理解出来る。だから、母とその誰かが話していることが、私にとってあまり良くない話であることも、なんとなく理解することが出来た。しかし、それは子どもに話すにはかなり酷な話だ。母もそう思ったのか、幼い私には何も話してくれなかった。


私は薄らとした目で、体に身を任せてみた。私にだけ向けられた扇風機は首を横に振りながら心地よい風を送っている。


ふと顔を上げると、姉の友達がいた。母と話していたのはこの人だった。前に家に遊びに来た時は髪の毛があんなに明るかったのに、今はもう黒に染っている。


母はハンカチを目に当てていた。みんな黒い服を着て、涙を拭いながら、下を向いていた。


「…綺麗な顔でしょう」

「はい、本当に…生きてるみたいで…」


泣くのを堪えたような声が聞こえた。その声を聞いたとき、私はふと、前日の晩に見た姉の姿を思い返す。


姉は大きな白い箱の中に丁寧に入れられていた。


あれほど美しかった姉は無惨なほどにやつれ、死化粧が余計にその容姿を痛々しく思わせた。首には、幼稚な頭でも分かるほどの、縄が強く締められたであろう、赤い痕があった。


でも、生きている、と思った。呼吸の音すら聴こえないというのに、だ。


母に抱えられ、いつものようにおねえちゃん、と舌足らずに姉を呼んだ。姉はなにも言わなかった。


短い腕をそっと伸ばし、手のひらで姉の顔を撫でる。


姉と頬と私の手のひらが触れた瞬間、私は戦慄した。

生きていると信じて伸ばしたその幼稚な手のひらに、氷のように冷たくなってしまった肌は、期待を簡単に打ち砕かれる残酷すぎる運命は、幼い頃の私にはあまりにも大きすぎた。


まざまざと見せつけられるその光景に、私は悟った。姉は、何も言わないのではなく、なにも言えなくなってしまったのだ、と。


私はその頃から無意識に、不用意に姉のことを知ろうとすることをやめた。それ故に、姉に関わることは、ただ18年間生きていたということだけしか知らない。


いや、それは少しだけうそかもしれない。


私はいつの日か、姉が化粧を落としていたところを見たことがある。


彼女は大きな鏡の前で、高い値段で買ったであろうアイシャドウをとっていく。綺麗にグラデーションされたアイシャドウがたった一枚の布切れでさっぱり取れていってしまうのは、幻のようにかなしくて愛しくて、きれいだった。


気づいたら口紅も半分取れかかっていて、そこには素顔の彼女がいた。


私の視線に気付いて、姉はうすく笑いながら、ねえ、どう?と私の顔を覗き込んだ。彼女の顔は、悪戯好きな少女みたいに幼気だった。


揺れているようで、甘くて、透明で、消えてしまいそうな時間。ずっとここに留まりたいのに、それが出来ないもどかしさに、私は胸をふるわせた。


この記憶を、この記憶だけを、私は一生抱えて生きていく。これ以上知ってしまったら、きっともっと執着するから。どれだけ止められ、何を言われても。


「本当にありがとう。最期に貴方に会えて、この子もきっと喜んでる」

「はい。…ありがとうございました」


黒髪になった姉の友達が帰った。


私は何故か無性に寂しくなって、起き上がり、母のところへすかさず駆け込んだ。母を思い切り抱きしめる。驚いたのか、一瞬びくっと母の身体が動いたが、母は優しく、どうしたの、と微笑んだ。私は息を吸い込んだ。


「ねえ、本当に、お姉ちゃんはあのひとがきて、喜んだの?」


母は目を見開いた。そして、私の身体を包み込むように抱きしめた。抱きしめ返す母の手は、暖かいのに震えていた。


「分かんない」


母はまた優しい顔をしていた。けれど、涙を流していた。気付いたら、私も、母も、泣いていた。たった一人の姉のことを思いながら。


涙を流してすすり泣く声と、未だ首を振り続けている扇風機の音、母のその薄い唇のなかから、舌が乾ききるほど嗚咽している姿が、私の頭に呪いのように酷く焼き付いた。


どうして何も知らない、ただ血が繋がっているだけの、私を置いて自ら死んでいった女に執着してしまうんだろう。どうしてこんなに悲しいんだろう。もう、誰も分からない。姉のことについて私が知ろうとしない限り、誰も教えてくれないから。


あの頃からすっかり大きくなってしまった私は、家の夕陽が差し込む窓辺を見ながらそんなことを思った。

目を閉じたって姉の声も匂いも分からない。最後に見たのは、棺桶の薄く白い顔だけ。こんな宵の口には物思いに耽ってしまう。思い出すのは、すべて姉のこと。


私は明日で18になる。


私も、あの時18歳だった姉のように、棺桶の中に入れられて、胸が傷むほど惜しまれながら死ぬのだろうか。私を結ってくれた誰かが、あの時の私みたいに、冷たく、受け入れ難い運命を、手のひらに感じてしまうのだろうか。


私はこれからずっと、彼女のように、目の奥の言葉に出来ない怯えを隠しながら、優しく生きて、寂しく死んでいくのだろうか。


夕陽に包まれながらそんなことを思った途端、私はどうしようもなく、泡沫の水屑のように消えていきたくなった。


瞬きをひとつすると、ぽた、ぽた、と床に染みがつく。

私は知らない間に泣いていたらしい。額がじんわりと汗で濡れていくのがわかった。窓に映る自分をただ見つめる。泣いているのに悠然とした表情だった。


幸福な人生を歩めた記憶なんてない、誕生日も憂鬱だった。きっと来年もそうだろう、来年なんてもっとそうだろう、と思っていたけれど、どうしてこんなに満ち足りているのだろう。


うすく雨が降ってきた。私は徐々に窓につき始める雨を見た。オレンジ色にぼやっと光る常夜灯が綺麗で、目を細める。


私は思い切って窓を開けた。


いつの間にか鋭くなっていた雨は私の顔を思い切り濡らした。いずれ髪の毛まで水浸しになる。


私も、この雨のように自然体になれたらいい。

もう色んなものに色付けされた私にとって雨はそんなものだった。

手を伸ばして目をつぶった。誰かが握ってくれるような気がした。


私は、もはや神様なんかよりも、彼女のことが恋しく、彼女の存在を希っているらしかった。


また来世で逢えたなら、なんて高望みはしない。だから、せめて、せめて。貴方の涙の乾くところが、私の腕の中であったなら。貴方が最期に散った場所が、私の膝の上にであったなら。


激しくなった雨に打たれながら、そんな無為で馬鹿なことを夢想して、その愚かさにわらってしまう。


でも、ほんの少し、清々しい。


彼女の瞳の色に似た空に、私の過去が溢れていく。その過去を思いながら、また私は頬を濡らしていくのだ。ひどく美しい、その涙で。

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天使の涙 醒ヶ井 @samegaikun

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