黄昏の丘で犬を抱く

いぬかい

黄昏の丘で犬を抱く

 そうして人類は永遠の眠りについた。 永遠の果て、ニライカナイに辿り着くまで――。

 その声はいつも聞こえていた。呪いのような人類の歴史を、まるで子守歌のように、繰り返し、繰り返し。

 忘れないで――声は時にそうも言った。決して忘れてはいけない。そこは約束の地、私たちに許された、ただ一つの希望なのだから。


 永遠に続くかと思われた永い揺籃期は突然終わった。

 血流が急に速まり、身体感覚が研ぎ澄まされ、男はそれを確かめるように身動ぎをする。ここにいてはいけない――そんなざわざわとした焦燥感が湧き上がり、男はぞっとしたように太い髭根から両手を放し、咥えていた乳首から唇を外す。目はまだ開かずともここが暗闇であることは分かっていて、男は指を鉤形に曲げて周囲の土を掻き分け始める。上へ、上へ、男は息苦しさを感じながら、自分を優しく庇護するものを打ち破ろうと必死で両手足を動かし続ける。やがて腕が土の壁を突き抜けて、地表という平らかな面が手の平に触れ、肺が地上の冷気を吸い込んだ時、男はあの声がもう聞こえていないと気づく。おずおずと瞼を開いて充血した目で新しい世界を認識すると、男の眼前には玄武岩の如き岩塊が屹立していて、灰褐色の肌に海苔のような葉をつけたそれが何か男は知る。それは岩ではなく、寒冷砂漠の樹木である。これまで男を育てたその樹木は、ものも言わずに己の息子が大地に立つのを見据えている。男は天を仰ぐ。そこにはびっしりと星が満ちていて、最後の人類の姿を静かに冷ややかに照らしている。

 男の膝に何かが触れる。温かく、柔らかく、力強い何か。男は目を落とす。黒い毛玉のような動物が男の足元に蹲り、灰色の目でこちらをじっと見上げている。「実をもいでおけ」動物の声は低く決然として、男はどこか懐かしくそれを聞く。目の前に生っている薄緑色の丸い果実をいくつか毟る。「先は長い。この先に食い物がある保証はない」

 男の舌は硬く乾燥し、どうすれば声が出せるかまだ分からない。だがその動物が〝犬〟という生き物であることは本能のように覚えている。

 犬は目尻を下げ、微かに笑ったような顔で言う。「さあ、散歩に行こうじゃないか、兄弟よ」


 赤い異星の空には友軍の艦隊が整列し、そこから無数の攻撃機が惑星全土に出撃していた。俺は数人の部下を伴い、熱線銃を携えながら、焦土と化した市街地でパルチザンを探す。この惑星の民の姿は人間とは似ても似つかず、話す言葉も我々には通じない。その事実が彼らへの嫌悪感を増幅し、罪悪感を払拭していた。地球から千光年は離れたこの惑星を蹂躙し、そこに自分たちの文明と価値観を上書きするのが俺たちの使命だった。そうしろと我々の神がお命じになったのだ。

 制圧はほぼ完了していたが、この一角にはまだ生命の痕跡があった。どこからか声が聞こえ、しばらく探すと、崩れ落ちた建物の隙間にひっそりと彼らが座っていた。一匹か、いや二匹だ。「まだ子供だ」俺は無表情で呟いた。パルチザンではない。二匹の子供はまん丸の目を開いて何か言っている。唸るような異星語で、命乞いなのか、恨み言なのかすら分からない。二匹の間に奴らと違う小さな生き物が見えた。丸い、真っ白な生き物だ。仔犬だ、と俺は直感した。思わず手を伸ばそうとすると、一匹の子供が庇うようにその動物を抱きしめた。その様子に俺は軽く笑みを浮かべた。かわいいな――そう呟いた次の瞬間、二匹の子供と一頭の動物は黄金色の炎に包まれ、後に焦げたような染みだけが残った。後ろを振り向くとそこには部下が立っていて、熱戦銃から一筋の煙が昇っていた。部下が軽蔑を帯びた目で俺を見ていた。そして忌々しげに吐き捨てるその言葉を聞いて初めて、俺はあの動物がこの星の民が崇める異教の神であったことを知った。


 目が覚めると、星々の間を弓形の月が運行していた。

 男は岩の隙間に横たわり、傍で寄り添うように犬が眠っていた。凍った砂の丘陵は月の光を浴びてぼうと光り、痩せた犬の顔を眺めながら、男は呼吸に合わせて上下する黒い背中をそっと撫ぜた。手の平に温かな拍動を感じた。

 犬には名前がないという――自分と同じように。最後の一人に名前はいらないからだ。

 犬は目を覚まして身を起こし、小さく伸びをした。

「嫌な夢を見た」男は深い溜息を吐いた。「知らない星で、誰かを殺す夢だ」犬はじっと男を見つめ、それからゆっくり首を振った。

 やがて犬は歩き始め、男はそれについていった。この先にきっとニライカナイがある。それだけが希望だった。ぼんやりと光る羽虫の群れが天の川と直交するように飛んでいて、男と犬はそれを追いかけた。砂混じりの強風が真横から男の頬を打ち、犬の毛をかき乱した。揺れる犬の背中を見つめながら、男はふと既視感を覚えた。緑に囲まれた夏の公園。地球か、それともどこか他の惑星か。男の脳裏にはその光景がはっきりと浮かんでいた。それは少年の視点だった。樹林の先に青空が覗き、笑うような声が聞こえ、すぐ傍に夕顔の白い花が咲いていた。彼が握る引き紐の先にはゆったりとした足取りで老いた犬が歩いていた。尾は美しい曲線を描き、耳は三角に立っていたが、西日に照らされた毛並みには艶がなかった。少年が立ち止まると老犬も止まり、だらりと長い舌を出して、穏やかな眼差しで少年の頬を舐めた。あの犬の名前は何といったか――遠い遠い記憶。そもそも、あれは本当に自分の記憶だったのだろうか。

 歩き続けて男の足は傷だらけだった。痛みに顔をしかめた。砂粒はどれも鋭利な角があり、一歩ごとに男の足を削った。寒風は裸の体を容赦なく襲った。丸い果実はとうに底をつき、空腹は限界に達していたが、それでもただ歩き続けるしかなかった。

 ずっと向こうに、世界の反対側に、必ず太陽があるはずなのだ。ある時、犬はそう語った。地球は横倒しのような格好になっていて、地軸の一方を太陽に向けて自転している。そして我々は今、影の半球にいるのだ。ここには永遠に陽の光が当たらない。けれどあの羽虫が飛ぶ方向に、きっと光の世界があるはずなのだ。

「この先に何があるのだ。本当にニライカナイがあるのか」男の問いに犬は首を振るばかりだった。「それは誰にも分からない。それでも、私は自分の役割を果たすだけだ」


 浅い谷間を抜けた先は緩やかな丘に連なっていた。川のように続く羽虫の群れを追いかけるにつれ、細い月が次第に厚みを増していった。

 ふと、風が止んだ。

 空を見上げると、羽虫の中に一際明るく光る点があり、奇妙な動きをしながらこちらに近づいていた。それに気づいた犬がすぐさま全身の毛を逆立てた。「走れ!」犬は怒鳴り、いきなり谷間の方向に走り出した。

 男は何が起きたか分からず、前を走る犬を追いかけた。すぐ背後から風を切るような音がして、大きな影が男を追い越した。その瞬間、右肩に激痛が走り、血飛沫が氷原に舞った。雷に似た羽音とあざ笑うような甲高い声が響いた。苦痛に顔を歪めながら空を見上げると、そこには見たこともない巨大な鳥がいた。いや、空を飛ぶ獣というべきか。それは禍々しい怪物の姿だった。残忍な目が光り、鋭い牙を剥き出した顎の奥から真っ青な舌が蛇のように蠢いているのが見えた。虎柄模様の胴体には鉤爪をつけた無数の脚が百足のように生え、背中には蜻蛉に似た透明の翼が月の光を浴びて輝き、周囲に紫の鱗粉をまき散らしていた。

 男は恐怖のあまり硬直した。

「走れ! 逃げろ!」犬は振り返り、また叫んだ。だが切り裂かれた肩の痛みに男は思わず膝をついた。「助けてくれ!」悲鳴を聞いた犬は慌てて男の元に走ったが、獣は凄まじい速さで急降下し、二本の鉤爪で男の肩を鷲掴みにした。たちまち男は空中高く持ち上げられた。抗う間もなく半身を引き裂かれて絶叫する男の頭蓋を獣の顎が素早く捉え、一瞬のうちに咬み砕いた。谷底から犬が戻った時にはもう手遅れだった。男が絶命したことを確信した獣は男の亡骸を喰らうでもなく投げ捨てて、満足したように飛び去った。氷原には血に塗れた下半身と、もはや正体をとどめぬ肉片となった上半身が残った。

 殺戮は終わり、風がまた吹き始めた。

 月が静かに丘の上を照らしていた。犬は放心したように男の死体を見下ろした。「何ということだ――」犬は声にならない声を絞り、醜く潰れた男の顔をそっと舐めた。「――人類は、まだ赦されないのか」そうして男の傍らに蹲ると、目を瞑り、諦めたようにまた永遠の中へと戻っていった。

 男の体が風化して、そこに岩のような樹木が芽生え、生長し、その根に再び新たな人間を実らせるまでどれ程の時間がかかるのか、犬はよく分かっていた。だがそれでも、犬はただそこで待ち続けるしかないのだった。


 王宮を取り囲む群集はみるみるうちに膨れ上がり、怨嗟の声は殺気とともに惑星の大気に充満していた。民は小さく、儚い生き物だったが、その星の始祖たる神が根絶やしにされたと知った瞬間、その怒りは頂点に達した。誰かが放った銃声が合図となり、ばらばらだった怒号は誇り高き戦士の歌の合唱に変わった。王宮の壁は決壊し、憎悪を帯びた大量の暴徒が一瞬のうちに雪崩れ込んだ。衛兵たちは慌てて熱線銃を乱射し、それによって最前列にいた数十人の民が倒れたが、すぐに後続する無数の群集に飲み込まれて八つ裂きにされた。王族たちも瞬く間に惨殺され、あるいは自死し、あるいは逃亡した。

 男は、そんな夢を見ていた。

 その星を契機として銀河の各地で革命と暴動が連鎖していった。もはや人類は宇宙の主ではなかった。宇宙に進出して僅か数千年で握った銀河の覇権はオセロの色が入れ替わるように変転し、人類がそれまで虐げてきた種族全てから有罪判決を受けた。地球に放たれた重力波爆弾が既に滅亡への道を転げ落ちていた人類の息の根を止め、海は干上がり、地軸は傾き、地球は明けることのない夜と昼とに分かたれた。かくして地球文明は為す術もなく崩壊し、生き残った僅かな人類は地獄と化した地球に置き去りにされた。彼らは復讐の刃に怯え、犯した罪の重さに慄きながら果てのない眠りについた。それは贖罪だった。人類は永遠に赦しを請い続け、その先にいつかあるかもしれない再生の時を信じた。


 人間の気配を感じて、犬はゆっくりと瞼を開けた。これまで幾度となく繰り返してきたように、大地から少しずつ現れる白い手を見つめ、「ああ……やっと」と頬を緩めた。

 大地から伸びた手は腕となり、次いで上半身が露わになった。四つん這いの姿勢で息を切らした男が痩せた足でふらふらと立ち上がると、犬は尾を振って近づき、数百年ぶりに人間の匂いを嗅いだ。「待っていたぞ、兄弟」そうして南の地平線に顔を向けた。「見ろ、あそこに太陽がある」

 確かにそこには太陽があった。地平線から頑なに動かぬ真っ赤な太陽。そこは薄暮の地、昼と夜との狭間だった。南の空は白に近い黄色から朱に移ろい、北の空では群青色の宇宙を背景に星々が半円を描いて周回している。目を落とすと地上には黄昏の都市が広がっていた。生命の潰えたその廃墟の群れは、まるで日射しを仰ぐ向日葵のように、崩れかけた触手の残骸を南天に向かって伸ばしていた。


「遙か昔、都市は光を求めて自由に動いていた」犬は鼻面に皺を寄せて語り始めた。

「建造物の一つ一つがエネルギー的に自立し、その集合体として都市は機能していた。地球にはたくさんの土地があったから、都市全体として光エネルギーを効率的に得られる場所を選ぶことができたのだ」

 犬の話は難しく、男にはよく理解できなかった。

「だが重力波爆弾によって地球は横倒しになり、影の半球は光の届かない暗闇と酷寒の世界になった。逆に太陽の側は灼熱と乾燥の地獄と化した。人類が生きながらえるには、赤道近くの僅かな土地を獲得するしかなかったのだ」

「だから、こんな場所に都市があるのか」

「そうだ」

 男は日の光を浴びて光る夕暮れの都市を眺めた。都市はかつての栄華を失い、地獄の業火で焼かれる亡者のように太陽に向かって手を伸ばしたまま化石化していた。まるで断末魔の人類を描いた静止画のようにも見えた。

「世界中の都市が赤道を目指した。都市どうしが接触すると、そこで血みどろの殺し合いが起こった。狭い土地を奪い合う人類の最終戦争だ」

 恐怖と憎悪の記憶。暴力と破壊の歴史。忌まわしき、そして恥ずべき人類の過去を犬は語った。そうだ――人類はずっと前から罪を犯し、罪を重ねてきた。銀河に裁かれ、見捨てられた後ですら小さな世界で争い合い、殺し合うことを止めない人類。虐げることを止めない人類。だからこそ君たちは分かれたのだ。己の身体を造り変えてまで。男と、女に。氷の側と、火の側に。

 ホモ・サピエンスという種が、もう二度と増えることがないように。

「夢では……なかったんだな」男は俯き、押し殺すように言った。「……あの時、神を殺したからか」

 永遠の黄昏の中を半月が沈み、羽虫たちが南の空で淡い光を放っていた。犬は黙って男を見つめ、静かに呟いた。「太陽の側に行こう。私たちにできることはそれしかない」そして男の膝元に身を寄せ、そっと手の甲を舐めた。

「――兄弟よ、人類はあまりにも愚かで、罪深いのだ」


 セントラル・パークは美しい季節を迎えていた。少年は青年になったが、老犬は変わらず老犬のまま、ほんの少し耳が垂れ下がり、ほんの少し歩みが遅くなっただけだった。

「明日、発ちます」青年が生真面目な顔でそう告げると、少女は僅かに表情を曇らせた。でもすぐに顔を上げてにっこりと微笑み、青年の左手をとって薬指の感触を確かめた。少女の白い指にも同じものがあった。青年の従軍先はたった千光年先だったから、うまくゆけば結婚式までには帰れるはずだった。

「どうかご武運を」少女はそう言って青年の胸に頬を埋めた。「あなたがお帰りになるまで、私はこの子と一緒に、ずっとここで待っていますから」それからしゃがんで青年の傍に座る老犬の頭を撫でた。

「これからしばらく、仲良くしましょうね」

 けれど数年がたち、十年が過ぎても青年は帰ってこなかった。少女は人知れず涙を流し、神に祈り、瞬く間に次の十年が過ぎた。

 セントラル・パークは荒れ果て、裕福だった少女の家は戦禍と災害で殆どの資産を失った。呪いはまだ始まったばかりだった。生きていくために少女はその後四人の男と結婚し、十人の子を産んだが、その半分は大人になるまで育たず、残りの半分は戦争で死んだ。青年は戻ってこなかった。美しかった彼女の黒髪は絶望のうちに銀に染まり、さらに数十年後、その亡骸は老犬に見守られながら彼女が生まれ育った沖縄の海に流された。


 そこは熱と光の世界だった。

 真上から降り注ぐ太陽光線によって大地は乾き、ひび割れていた。蜃気楼が揺らぐ中を男と犬は這うように歩き続けた。足が重く、一歩ごとに目眩が襲った。肌は太陽に焼き尽くされて黒く爛れ、痩せて骨が浮き、深い皺がよっていた。積み重ねた苦しみと繰り返された死がそこにはっきりと現れていた。

 突然、涼やかな風が流れ、視界が開けた。「あれを見ろ」男が指差した先には灰青色の水面が広がっていた。

 海だ――犬は目を見開いた。

 この灼熱の中で海が干上がらずに残っているとは――。犬は立ち竦み、どこか見覚えのあるその景色に沈黙したまま水平線を見つめた。男は初めて見る海に茫然としながら、波打ち際まで駆け寄って遠くに目を凝らした。「小さな島が見える。森がある。羽虫たちが集まっている」男は破顔した。「あれが、ニライカナイなのか」だが犬は答えず、海を見るばかりだった。

 砂浜の周りで小さな舟を見つけた。

 男は苦労して舟を渚まで引きずり、ゆっくりと水面に浮かべた。男と犬が乗っても舟は沈まず、引き波が自然に舟を沖へ運んでいった。オールの替わりに座席の板を二枚外し、潮風の中をしばらく漕いでいるうちに、前方に鬱蒼とした森の姿がはっきりと見えてきた。

「もし、あれが本当にニライカナイなら」前を見据えたまま犬が言った。「ようやく、私の役割が終わるということだ」

「役割?」怪訝そうに問う男を犬は薄目で見返し、また前を向いた。「私はかつて、知恵と、不死と、役割を与えられた。使命といってもいい」俄に風が止み、白波が湧いて海に泡の輪を描いた。「君たち人類と永遠に寄り添い、見守り、導く使命だ。遙かな昔、私自身がそれを望み、承認された」

「承認って、いったい誰に……」

 その時、大波が立ち、海面が盛り上がった。

 舟はぐらぐらと激しく揺れ、片方のオールが波に攫われた。暗い波頭の向こうに二つの目が光り、それが覆い被さるように伸び上がった。

「バケモノだ!」男は叫び、犬を抱き寄せて舟底に伏せた。眼前には巨大な首長竜の姿があった。麒麟のような長い頸と幾重もの牙をもつ古代の怪物は、頸をもたげて真上から舟を睥睨し、金属音に似た軋んだ声で咆吼した。

 それは男の――人類の死を望む声だった。

 気がつくと犬は男の腕から離れ、舟の舳先で四つ足を踏ん張って立っていた。「聞け、海の主よ!」吠えるように犬は叫んだ。

「我は人類の随伴者である。人類と共に永遠に地球を彷徨い続け、赦しを請うものである!」

 戻れ! 男は怒鳴ったが、急に横波が襲い、舟ががくんと揺れて海水が男の顔をしとどに濡らした。犬は男の方をちらりと振り向き、すぐに竜に向けて牙を剥きだした。

「故に、海の主よ、もしこの海を通るに命の贖いが必要ならば、我が身をとって喰らうがいい!」

 瞬間、竜の両眼がぎらりと光った。犬の体を乱暴に咥え、弄ぶように振り回した。「やめてくれ、殺さないでくれ!」男はひれ伏し、声を枯らして懇願したが、竜の牙は犬の横腹に深々と突き刺さり、真っ赤な鮮血が荒れた海にだらだらと滴り落ちた。闇雲に投げつけたもう片方のオールは虚しく波間に消え、男にできることはもう何もなかった。

「行かないでくれ……俺を一人にしないでくれ……!」

 男は空を仰いで慟哭した。その頭上から、苦痛を帯びた微かな声が聞こえてきた。

「人の子よ……」それは、あの犬の声だった。

「……これまで、私たちはずっと長い苦しみに耐えてきた。だが贖罪の時はもう終わる。人類の宿願は叶う。おお、人の子よ、君は決して一人ではない。ニライカナイの果てで、私はいつまでも待っているぞ――」

 だが犬の言葉は雷鳴のような竜の声でかき消され、すぐに聞こえなくなった。大波に揺れる舟にしがみつきながら男は必死で犬の姿を追ったが、竜は犬を咥えたまま青い海に沈み、二度と戻らなかった。


 海は鏡のように滑らかだった。

 風が吹き、雲が流れ、海流が静かに舟を島へ近付けていった。永遠の午後の日射が舟底で死んだように眠る男の肌を焦がした。

 舟が動いていないことに気づいたのは、男の耳に、またあの声が聞こえ始めた時だった。遙か昔から繰り返し聞いたあの声。そうして人類は永遠の眠りについた――。甘く、切なく、淫らな声色が男の心を捉え、強く揺さぶった。

 男ははっと目を開き、弾かれたように身を起こした。そこはすぐ傍まで森が迫った白い渚だった。舟はとうに朽ち果てていた。森は無数の羽虫が集合し、砂金のようにきらきらと輝いていた。

 森の奥から、また声が聞こえた。

 男は舟から下りて森へと歩き始めた。ニライカナイで待っている――男はあの海でのことを、犬がもうここにはいないことを、ずきずきとした感情とともに思い出した。いつも人類に寄り添い、導いてきた存在。あらゆる運命を共にしてきた人類の兄弟。男は犬を想って頬を濡らした。ここがどこであろうと、ここからどこへ向かおうと、もう何の意味もないと男は思った。

 森の奥で羽虫たちが巨大な光の塔を作っていた。男は顔を上げ、引き寄せられるようにふらふらとそこへ近付いた。

 そうして人類は永遠の眠りについた――。

 その時、歌うような声が聞こえた。振り返ると、なだらかな肩に銀色の髪を足元まで伸ばした人間がそこに立っていた。

 〝女〟だと直感した。

 そうして人類は永遠の眠りについた――女は細い目で睨むように男を見据え、もう一度そう言った。紛れもなく、それはかつて土の中で繰り返し聞いたあの声だった。その真っ直ぐな瞳に男は気圧され、たじろいだが、じっと見つめているうちに、女が自分に何を言おうとしているのかはっきりと理解した。

 そうか――と男は呻いた。

 あれは、〝合い言葉〟だったのだ。

 男は女の頬に手を伸ばし、掠れた声を振り絞った。「……永遠の果て、ニライカナイに、辿り着くまで」

 すると女は目を見開き、唇をわなわなと震わせ、大きく顔を歪ませた。

「ああ、やっと……やっと帰って来た。永遠の果てから――」

 

 その時、森の底に陽が差した。 

 羽虫たちが空から一斉に降り注ぎ、二人の周囲に溢れる光の渦を巻いた。女が長い髪を振り乱しながら大きく両腕を広げると、それは蝶のような真っ青な翅に変わった。そしてもう一方の両腕で男の体をがっしりと掴んだまま梢まで一気に舞い上がった。

「長い、果てのない年月だった。あなたを待っていた。ずっとここで待っていた。けれど、それももう終わる」

 太陽が目の前にあった。女よ――喘ぐように男は尋ねた。ここはニライカナイなのか? しかし女は答えず、風にのって虹色の空を舞い翔ぶばかりだった。男の体は女の体に絡め取られ、まるで磔にされたようだった。気づくと太陽は巨大な花に変わっていた。汚れのないその純白はいつか見た夕顔の花に似ていた。

 私たちは赦されたのよ――女が耳許で囁いた。そして女の指先が男の心臓を貫いた瞬間、男の中で何かが弾け、迸った。

 男と女は揃って声を上げた。数億年ぶりの悦びの声が空に響いた。

 二人は生まれる前の姿に回帰して、羽虫たちを伴いながら花の中心へと吸い込まれていった。太古に分かたれた男と女は精と卵のように子宮の内奥で融合し、ついに最後の果実を結実した。果実は分裂し、二つ実った。プロペラを回転させながら、二つの果実は大空に向かって上昇した。

 それは宇宙を旅する船だった。ニライカナイへと続く人類再生の種子だった。

 めくるめく時空を流されていく間、忘れていた名前を呼びながら、二人はただ愛したものとの再会だけを願っていた。それが承認されるかは分からなかった。かつて殺した神を想って涙し、祈った。星々がそれを見ていた。苦しみも悲しみも冷たい宇宙に溶けていき、導かれるように約束の地へと降りていった。浄化された過去と、解放された未来が――楽園が、そこにあった。

 散歩に行こう――眩しい光の中で、どこからか懐かしい声が聞こえた。「また、あの夏の公園へ――」

 それは、自分の声なのかもしれなかった。


 更新世の夕陽が西の山並みに沈もうとしていた。

 一日中狩りをして少女の手足は傷だらけだった。狙っていた大物は獲れなかったが、家族が辛うじて飢えない程度の獲物は捕らえることはできた。だから少女は満足していた。

 風が吹いて、すぐに止んだ。日が沈めばじきに危険な夜行性動物たちがうろつき始める。もう帰らなければならない。でも、少女はこの丘から眺める夕焼けが好きだった。

 傍らで犬が甘えるような声を出した。少女は太陽の匂いのするその黒い背中を抱き寄せて、真綿で包まれた白い胸をそっとさすった。そこは犬の心臓がある位置で、かるく撫でると犬はいつも気持ちよさそうに身を捩る。犬には心臓が二つあり、その一つに主人である自分の片割れが宿ると信じられていた。遙か原初の昔に分かたれ、今は犬と共にあるというもう一つの魂。犬と自分とを永久に結ぶ血を分けた双子。だからこの集落に生まれた時から、もっとずっと昔から、犬はいつも少女の傍にいた気がしていた。これからも、たぶん、自分が死んだ後でさえも。

 また風が吹き、背中に冷気を感じた。さっきより太陽が低く傾いて、頭上に最初の星が光った。夜が訪れようとしていた。

 遠くで、誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。

 行こうか――少女は犬の名前を呼び、立ち上がった。犬は少女を見上げて小さく身震いし、夕闇の中を声がする方へ急いだ。

 仲間たちが待つ、あの温かなネアンデルタール新人類の里へと。

 そうして少女は夜とともに犬を抱き、明日の獲物を夢に見ながら、暫しの眠りにつくのだった。〈了〉


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