巡りゆく世界

 「一体なんなの……」

 落ちるような転がるような、それとも運ばれるような、表現しがたい不思議な感覚の後、私は地面に投げ出されていた。

「どこよ、ここ」

 濃い草の匂いが流れ、地面に触れた両手に土の感触がある。視界には、下枝を取り払われた杉の木々。どこか山の中だ。

「大丈夫ですか」

 近くから声がした。尾形氏だ。

「なんとか……」

 くらくらする頭を押さえながら上半身を起こす。尾形氏はすぐ隣に座っていた。

 お互いの顔を見つめて同時に口が開いた。

「なんで来ちゃったのよ」

「なんで来ちゃったんですか」

 その後の言葉が続かず私は中途半端に口をもごもご動かして、結局つぶやいた。

「ここで言い合っても仕方ないわ」

「そうですね」

 尾形氏もうなずいた。

「ここはおそらく『蝉の雨』の中なんでしょうね」

「そのわりに蝉の声はしないけど」

 蝉どころか他の虫も、鳥の鳴き声も聞こえない。時折り杉林を風が渡る音だけがやけに大きく響く。

 私は立ち上がった。

「とりあえず私はここを出たい。あなたを一緒に連れ出すかは別としてね。あなただって部外者の私を追い出したいでしょ」

「その点では槙島さんと私の目的は合致しますね」

 隣に立った尾形氏に私は首を振った。

「私の名前は槙島じゃなくて一乗。槙島は屋号よ」

「そうですか、失礼しました」

 頭を下げてから尾形氏は辺りを見回した。

「小説だから、最後まで話を進めれば出口があると思います。そのためにはとりあえず行動ですね。まずは降ってみましょう」

「山で迷った時は登れっていうけど」

 私が聞くと、尾形氏は苦笑した。

「本格登山ならそうかもしれませんが、祖父はそんな小説は書きません。ここはほんの里山でしょう」

「そうなんだ。まあ、郷に入っては郷に従うわ」

 私たちが下の方に視線を合わせた時、その先で動いたものがある。山には場違いな、真っ赤な何かだった。一瞬だけ視界に入り、すぐに木々の間に隠れて見えなくなった。

「ちょっと、今の見た?」

「見ました。行きましょう」

 尾形氏は歩き出した。

「行くって、あれが何かわかったの」

「着物、じゃないかな。子供の」

 尾形氏は言った。

「祖父の小説では女の子が物語の導き手になることがよくあります。だから、今の子についていけば何か展開があるはず」

「そ、そう」

 自信ありげに進む尾形氏の後ろに、私も続いた。


 しばらく山を降ると、いきなり視界が開けた。と同時に雑踏の足音、何か楽器の鳴る音、客引きの声などが、これも突然、耳に入ってきた。

「何、ここは」

「歓楽街ですかね、昭和初期くらいの」

 尾形氏が先に立って、街に足を踏み入れた。まるでそこから世界が切り替わっているかのように、杉林から一歩進んだ向こうは完全に街中だった。

 しばらく見たことのないほど多くの人々が、私たちの左右を行き過ぎる。あまりたくさんの人がいるせいか、私は気分が悪くなってきた。

「ごめんなさい、ちょっと休ませて」

 尾形氏の袖を引っ張り、脇道に入って私は地面に座りこんだ。

「どうもおかしな雰囲気ですね」

 尾形氏も私の隣に腰を下ろす。

「おかしい? 何が?」

「こんなに人がいるのに、いまひとつ現実感がない」

「そうかな、嫌になるくらいにぎわってると思うけど」

 尾形氏は首を傾げる。

「例えば、ここに来て誰かにぶつかったりしましたか」

 言われて私はようやく気がついた。通りはかなり混んでいたのに、歩きにくいとは思わなかった。ぶつかるどころか袖をかすることさえなかったのだ。

「つまりここの人たちは、揃って書割りみたいなものなんです。単なる舞台装置であって、個性も人格もない」

 私はもう一度表通りを見る。右から左へ、あるいはその反対に通りを行く顔は確かにどれも均一な薄笑いを浮かべ、同じ方向を見て同じ速度で過ぎていく。

「小説の中の世界だからこんなものなのかな」

「そうかもしれませんが、しかし……」

「しかし、何?」

「いえ、なんでもありません」

 尾形氏は通りを一瞥して立ち上がった。

「具合は良くなりましたか」

「ありがとう。人酔いしたかと思ったけど気のせいだったみたい」

 私は腰を上げ、服のほこりを払う。とはいっても街そのものが書割りだからなのか、地面についていたところもまったく汚れていない。考えてみたら靴も履かずに山を降りてきたのに足の痛みもなかった。

「では、行きましょうか」

 尾形氏と私が同時に通りの方を見た瞬間、赤い着物がそこを通り過ぎた。思わず二人で顔を見合わせる。

「また、出た!」

「とにかく追いましょう」

 二人して脇道から飛び出し、きょろきょろ左右を見回す。来たのとは反対の通りの向こうで、真っ赤な裾がひらめくのが見えた。

「あっちよ」

「待って、様子がおかしい」

 駆け出そうとした私を尾形氏が止めた。

「おかしいって、何がよ」

 答えた私だが、すぐにその意味がわかった。群衆が立ち止まり、こっちを見ている。

「これ、書割りじゃないの」

「だとしても、作者の意志通りに動くくらいはできるでしょう」

 尾形氏が言うのとほぼ同時に、近くの何人かがこっちに手を伸ばした。

「わっ、どうなってるの⁉︎」

「捕まえようとしてるのか」

 後ずさりしながら尾形氏がつぶやく。

「逃げた方が良さそうね」

 二人してうなずくと、とりあえず人の少ない方に走り出した。

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