第12話 Execution


   Ⅻ  Execution


 欲が渦巻き、悪意の満ちる街、ロンドン。

 そこへ降り立つ夜の闇を必死に退けるように、通りに等間隔で立ったガス燈が淡い光を放っている。


 その下を歩くのは、頭からフードをすっぽりと被り、大きめの紺色のコートに身を包んだ少女。彼女の足取りに迷いはない。


 セントポール大聖堂を通り過ぎ、フリート街をまっすぐ進む。ストランド街との境界に置かれているのは、天辺にドラゴンの像を備えたテンプルバー記念碑だ。

 夜風に運ばれて来る微かな匂いを辿って、少女は西へ西へと進み続ける。輪郭のぼやけていた匂いが、次第にはっきりとしたものへと変わりつつある。目的地がもう近いのだろう。


 やがて少女は、見覚えのある通りへと差し掛かる。

 忘れようにも忘れがたい場所。


 たった一枚のハンカチが、三人の貧民孤児の運命を大きく変えた。


 彼女の足が、一つの建物の前で止まる。

 瀟洒で贅沢の限りを尽くしたことがありありと窺える、豪華絢爛な百貨店。


 少女が、両手でフードを取り払うと、その下から燃えるような赤毛が現れた。彼女の視線は、灯りが全て消えた建物の壁を伝って、下から上へとなぞるように昇っていく。


 意を決したように、赤毛の少女は入口へと近づく。

 駄目もとで正面の扉を押してみると、一切の抵抗なく奥へと開かれていく。不用心にもほどがある。だが、よく見ると、扉の錠前は既に力任せに破壊されていた。


 灯りの消えた店内は闇に包まれていたが、夜目の利く少女にとっては、明り取り窓から差し込む月光さえあれば、それで充分であった。


 正面に鎮座する大きな階段を目指して、少女は迷いなく突き進む。最初はゆっくりと歩いて。それが次第に早歩きとなり、最後には、数段飛ばしで階段を駆け登ってゆく。


 最上階に辿り着くと、少女の足が止まった。


 扉が開け放たれたままの室内から、屋上へ続く階段に向かって、何かの破片と赤黒い液体が、不揃いな間隔で落ちていたからだ。鋭敏化された嗅覚が、その正体が血であることを嗅ぎ分ける。

 壁を背に、半身をそっと乗り出すようにして、彼女は室内の様子を窺う。大きな部屋には誰の姿もない。ただ、奇妙な隊列が、暖炉の前まで続いているのが見えた。そのマントルピースの上に掛かっていたのは、恐らく大きな鏡だったもの。今は見る影もなく粉々に砕かれていた。


 少女は、それが誰の仕業か確信する。


 その時、彼女の頭頂部に生えた両耳が、ぴくりと動いた。

 屋上へ続く階段の向こう側から声が聞こえたからだ。


 それは歌声。

 透き通るような、それでいて哀愁を漂わせた旋律。

 姉から最愛の妹へと向けられし鎮魂歌。


 それを耳にした彼女の脳内に、遠い彼方に過ぎ去ったはずの光景が、鮮明に迸る。


 珍しく霧が出ておらず、満月がはっきりと夜空に浮かんでいたあの夜。

 狭い寝台で身を寄せ合うようして、隣で横になった母が悲しげな声色で口ずさんでいたあの歌だ。


 ――どうして今まで忘れていたんだろう。


 大好きだった母が、たった一度だけ歌ってくれたのと同じ歌。グリーンスリーブスの悲しい旋律。そして、その歌詞に込められた想い。

 その歌声に導かれるように、少女は天へと続く階段を踏みしめてゆく。


 階段の中腹に、やせ衰えた赤毛の女が直立している。

 無造作に垂れ下がった赤毛の隙間から、少女をじっと見下ろす。


 少女の歩みは止まらない。

 二人の距離が段々と縮まってゆく。


 両腕をゆっくりと伸ばした少女は、目の前に佇立する女の身体を優しく抱きとめて、瞼を閉じる。その温もりを思い出し、慈しむように。


 ――さよなら、母さん。


 幾ばくかの後、名残惜しそうに少女は目を開く。

 階段に立つのは、彼女一人だけ。上を見上げると、真四角に切り取られた夜空が目に入った。屋上へと続く開け放たれた扉からは、なおも歌声が聞こえる。


 少女はコートの裾を翻すと、階段を一気に駆け上がる。

 全てに決着をつけるために。


 左腰に差した刀の柄の先で、緑色のリボンが向かい風を受けて、小さく揺れた。


 吸血鬼が、屋上で狼少女を待っている。


   *


 煉瓦の破片が、弾丸のごとく、エイミー目掛けて飛んで来る。

 明確な殺意の込められた一撃。

 屋上に散らばっている破片をミラが蹴り飛ばしたのだ。その強靭な脚力でもって。


 だが、エイミーは回避行動を取ることなく、そのまま金髪の吸血鬼の方へと一直線に突っ込む。

 彼女はコートの生地を掴むと、裾を翻して、煉瓦の破片を受け流す。彼我の距離を一挙に詰めた赤毛の少女は、ミラの髪の毛を乱暴に掴むと同時に足払いをかけて、地面へと引き倒した。


 間髪を容れず、空いたもう片方の手で拳を作ると、ミラの顔面目掛けて躊躇なく振り下ろす。しかし、その拳が届く前に、エイミーの身体が宙に浮いた。一瞬遅れて、腹部に衝撃を感じる。


 仰向けの状態で蹴りを放った吸血鬼は、素早く跳ね起きると、右腕を平行に突き出し、エイミーの方へと駆けて来る。

 彼女の前腕がエイミーの喉元を捉える。

 そのままエイミーを引き摺るように、ミラはなおも走り続け、屋上の明り取り用の天窓へと突っ込んだ。


 窓枠に背中を強かに打ち付けるエイミー。


 二体の怪物の身体が、天窓を砕いて落下する。


 真下に広がるのは、純白のテーブルクロスが丁寧に掛けられた円卓がいくつも並べられている高級レストラン。百貨店最上階の展望レストランだ。


 狼少女は咄嗟に、近くに吊り下がっていたガス燈シャンデリアを掴む。それと同時に、吸血鬼の横っ面に、握り拳を振り抜いた。


 反動で大きく揺れたシャンデリアを利用して、エイミーはそのまま、窓際に垂れ下がっている、刺繍の素晴らしいカーテンへと飛び移る。その重みに耐えかねたカーテンレールの金具達が、破滅の叫び声を響かせながら、カーテンの布地を次々に手放してゆく。


 他方、エイミーに殴り飛ばされたミラはと言えば、レストランの中央に聳える巨大なクリスマスツリーの天辺を掴んだ。

 壁際へ向かって、傾き始めるツリー。

 綺麗に飾り付けられた人形や動物などの、陶器でできたオーナメントのいくつかが、蹴飛ばされたせいで床へと落下し、無情にも砕け散る。


 カーテンから床へと降り立ったエイミーは、円卓の上に立てられた銀の燭台を掴むと、ツリーから床へと飛び降りた吸血鬼へと投げつけた。


 それを見たミラは、手近にあった木製の椅子の脚を持つと、その背で燭台を弾く。そして、そのまま椅子を振り回すと、エイミーの方へ向かって投擲した。


 綺麗な放物線を描いて飛んで来る椅子を躱すべく、エイミーは円卓の下へと滑り込む。

 直後、頭上の卓を震わす鈍い重量感のある衝撃音。


 円卓の下から顔を出して左右を素早く窺うエイミーの視界が突如、舞い降りて来た白い何かで完全に遮られる。


 テーブルクロスだ。


 頭部を覆うようにして被せられたテーブルクロスを取り払おうと、もがくエイミーの身体が、後ろへと容赦なく吹き飛ぶ。


 痛みに顔を顰めながら、赤毛の少女は片手でテーブルクロスを引っ掴むと、床へと振り払った。そんな彼女のすぐ目の前に迫るのは、ミラの拳。強かに頬を打ちつけられたエイミーの口内に血の味が広がる。


 手を緩めることなく、左右の拳でエイミーの顔を、肩を、胸を、腹を手当たり次第に殴打する金髪の少女。その顔に浮かぶのは、仄暗い笑み。


 また、右腕を振りかぶるミラ。


 その瞬間を狙って、赤毛の少女は、彼女の顔目掛けて、唾を吐きかけた。血の混じった唾が、彼女の目元に直撃する。唾と共に吐き出された、エイミーの折れた奥歯も、床に情けない音を立てて転がってゆく。


 咄嗟に右腕で目元を拭うミラ。

 エイミーは伸ばした右手で、ミラの後頭部を掴むと、振り上げた自分の右膝へ向かって一気に引き下ろす。狼少女の膝頭が、吸血鬼の顎に直撃する。左手で反射的に顎を抑えたミラの口から短い呻き声が零れた。


 だが、ミラはそれで体勢を崩すことなく、お返しとばかりに、右足でエイミーの腹を蹴り上げる。

 エイミーは咄嗟に、左手を差し入れてその衝撃を殺しながら、後ろへ飛びずさって距離を取る。


 エイミーは、拳を構えると、迫って来るミラを迎え撃つ。


 互いの拳が、肘が、膝が、爪先が、相手の身体に余すところなく、容赦なしに降り注ぐ。二人分の汗と血とが、混じり合って辺りに飛び散る。


 精細さを欠いた直情的な攻撃の応酬。


 二体の怪物が組み合う様は、まるで渾然一体となった歪な塊。


 戦いの舞台が、レストランの店内から、広い廊下へと移る。


 投げ飛ばされた赤毛の少女の身体が、毛足の長い絨毯の上を勢い良く転がる。そこへ振り下ろされるのは、金髪少女の足。上半身を捩じって回避したエイミーが、今度はミラの足を掴んで、絨毯へと引き摺り倒し、拳の雨を一心に降り注がせる。


 不意にエイミーの腕が掴まれた。

 そして、ミラの脚に身体を蹴り上げられて、前方へとゴロゴロと転がっていく。


 絨毯の上で片膝をついて上体を起こしたエイミーを、立ち上がったミラがじっと見下ろしている。


「何で? ――何で使わないの、?」


 顔を痣だらけにした金髪の吸血鬼が指差すのは、エイミーの左腰で鞘に収まったままの刀。その柄頭から緑のリボンが垂れ下がる武器。


「私を殺しに来たんじゃないの? なのに、いつまでも、こんな生温い戦い方を続けるつもり?」

 ボサボサの長い金髪に片手を差し入れて、ふわりとかき上げる。


「使いなよ? 最初に会った時だって、ナイフ使ってたでしょ?」

 そう言うと、ミラは小さく笑った。小馬鹿にするように。

「まぁ、それでも私には負けちゃったんだけどね、エイミーは」


「……うっさい」

 口から垂れる唾液と血をコートの袖で拭いながら、エイミーが吐き捨てる。

「どうしようとアタシの勝手でしょ」


 そんな満身創痍の彼女を、金髪の吸血鬼は、目を細めて値踏みするように見つめる。


「……ヴィアはね、あなたに役立たずだって言われたから、そうなることを望んだんだよ」

 手を腰の後ろで組むと、ミラはゆっくりと絨毯の上を左右に行ったり来たりする。

「なのに――」

 ミラが立ち止まる。

「あなたは、それを使おうともしないんだね。――私達の力になりたくて、命を投げ打ったっていうのに、そんなあの子の想いをあなたは踏みにじってるんだよ?」

 エイミーを睨め付ける。オリヴィアに対して彼女が心に抱いたままの罪悪感を的確に鋭く抉るかのように。


 ミラは手近の酒棚に手を伸ばす。

 そこに置かれていた、可愛らしいクリスマス衣装を着た熊のぬいぐるみをそっと撫ぜると、突然、その首を力任せに握り締めた。

「何で? ……どうしてヴィアが、そんなひどい目に遭わされなくちゃいけなかったの⁉」

 ぎりぎりとぬいぐるみを締め上げるミラ。彼女の表情が、悲し気に歪む。

「私は悪い目に遭って当然なの‼ だって、ヴィアからお母さんも家も何もかも奪ったから。――だけど、あの子が何か悪いことでもした⁉ こんな綺麗なお店へ両親に連れられて楽しく買い物に来る女の子と、ヴィアとの間に、どれほどの違いがあるっていうの⁉」

 ミラがもう片方の手でぬいぐるみの脚を掴むと、左右へ力任せに引き千切った。

 その断片から純白の綿が雪のように舞い降りる。

「生まれた家が違ったからっ? 与えられた環境が違ったからっ? それとも、こんな悪い姉を持ってしまったせいでっ? 

 ――こんなに惨めで過酷な運命をあの子に強いた世界なんて。ヴィアに残されたたった一つのささやかな居場所すら奪い去ってしまった世界なんて、全部消えちゃえばいいのっ‼ ……きっとヴィアもそう思ってるっ‼」

 今まで大人びて、冷静で、朗らかな姿しか決して見せようとはしなかったミラが、初めて露にした胸の裡。

 これまで理性が必死に抑圧していた本音の洪水。

 それを感情の赴くままに全てぶちまける姿は、エイミーの知る大人びた雰囲気の彼女などではなく、年相応に悲しみ、苦悩する一少女の姿。


 息を荒げた金髪の少女は、二つに引き裂かれたぬいぐるみをエイミーの足元へと放り投げる。


「そして、エイミー。あなたも」

 すっ、とその紺碧の瞳が冷たい色を帯びて、エイミーを射抜く。

「あのジェーンの側につくってことは、この街に巣食う傲慢な人達と同罪」

 そう言うと、ミラは、酒棚からジンの瓶を掴んで、その底を勢いよく棚板へと叩き付けた。

 破砕音を伴って、透明なジンが、涙の雨のように絨毯へと降り注ぐ。

 金髪の吸血鬼は、ジンの残滓が滴る瓶の割れ目を、エイミーの方へと向ける。その刺々しい割れ目は、獲物を情け容赦なく食い千切る獰猛な猛獣の顎を彷彿とさせた。


「さっきも言ったでしょ? 私、決めたんだ。善良だと自惚れるこの街の人達を片っ端から殺すって。――そして、その手始めは、エイミー。あなただから」

 柔和な笑みを浮かべる吸血鬼。

「エイミーだって、死ぬのは嫌でしょ?

 ――なら、私を殺してみなよMurder me? 殺せるなら、ねif you can


   *


 繰り出される激しい攻撃の嵐。

 エイミーは、先ほどとは打って変わって、苛烈さを極めた一撃一撃に対して、満身創痍の身体で防戦するのがやっとであった。


 割れた瓶の先が、エイミーの頬を斬りつける。

 繰り出された拳が、エイミーの顎を強かに打ち付ける。

 中段の回し蹴りが、エイミーの脇腹を抉る。


 ミラは、エイミーが苦しむ様を楽しむかのように、わざと急所を外した攻撃を繰り出し続ける。それはまるで、猫が傷だらけの鼠をいたぶるかのように。


 コートの下に差し込まれた鋭利な瓶の先端が、エイミーの左脇腹の肉を掻っ捌いた。ミラが、痛みに悶えるエイミーの首を真正面から掴み、その身体を持ち上げる。爪先を絨毯から数インチ浮かせたエイミーの足元に、脇腹から滴り落ちた血が、ぽたぽたと落ちる。


 次の瞬間、エイミーの身体が宙を舞い、酒棚へと投げ飛ばされた。その衝撃で、ジンやウォッカ、ウイスキーの瓶がいくつも落下して割れ、辺りにむせ返りそうなほどにアルコールの臭いが立ち込める。


 よろめきながら立ち上がりかけたエイミーのコートのポケットから何かが落ちた。厚紙で出来た小さな箱。

 摩擦マッチの箱だ。それは恐らく、アキが入れっぱなしにしていたもの。


 その時、エイミーの脳裏に、一筋の光明が差し込んだ。


   *


 これだけ痛めつけてあげたのに――。

 まだあの子を使ってくれないんだね、エイミー。


 右手に握る割れた瓶の先を、人差し指でなぞりながら、ミラはそう思った。だからこそ、彼女は、エイミーの中途半端な殺意に痺れを切らす。


 酒棚を背にして、コートの下に入れた右手で横腹を押さえながら立ち上がるエイミー。そこには、さっきミラが加えた裂傷がある。現に、コートの裾の下から、血が絨毯へと滴っている。

 生傷だらけのボロボロの身体。もはや満足に戦うどころか、防戦すらままならない赤毛の少女。

 そんな彼女を冷ややかな視線で見つめながら、ミラは、次の一撃でその息の根を止めることを決心する。


 突如、額に脂汗を滲ませたエイミーが、ミラの視界を横切るように駆け出した。それと同時に、先ほどまで彼女が倒れていた場所に青白い炎の柱が噴き上がる。恐らく火を放ったのだ。度数の高い蒸留酒が大量に染み込んだ絨毯へ。


 火から逃げるように駆けるエイミーの足取りはおぼつかない。もう戦う力がほとんど残っていないほどに、消耗し切っていることは、傍目にも明らかであった。ミラは、幕引きが近いことを予感する。


 エイミーが、コートの下から血だらけの右手を引き出した。その手に握られているのは、蒸留酒の瓶。それをミラの方へと投げつけてくる。

 だが、エイミーの一連の動きを冷静に観察していたミラは、慌てることなく、後ろへ飛びずさって、瓶の直撃を回避する。


 足元で割れた瓶から、きついアルコール臭を漂わせる液体が飛び散る。すると、酒棚を中心に燃え盛っている炎柱が、今までの応酬で辺り一面に散らばった蒸留酒を嘗めるように、その範囲を広げ、ミラの足元にまで到達する。


 しかし、それだけ。

 絨毯は黒煙を上げながら燃えてはいるが、火勢は早くも当初の勢いを失いつつある。これが本当に、残された僅かな力を振り絞ったエイミーの最後の切り札だとするならば、これほどお粗末で投げやりなものはないと、ミラは思った。


 だからこそ、冷静に炎から距離を取りつつも、彼女の脳内では、その意図を探るための計算が激しく行われていた。

 それは、これまで互いの背中を任せて戦ってきたからこその信頼から。すなわち、この局面において、互いがどのような行動に出るかという点についての理解度の高さゆえに。


 ミラは試されているのだ。

 この行動の意味するところが、アンタに分かる? と。


 これはエイミーとの知恵比べ。


 ミラが、盤上で赤の女王を追い詰めることができるかどうかを問う詰めチェス。


 火を放った張本人の姿は、黒煙のカーテンの向こう側に隠れてしまった。


 ゆえに、ミラは結論を下す。

 この中途半端な放火行為は、目くらましである、と。


 では、何のための?

 逃げる時間を稼ぐため?


 違う。

 彼女は、一度始めた戦いを自分から投げ出したりはしない。


 これは、大蛇と戦った時と同じだ。


 体勢を立て直すため。


 互いに夜目の利く状況下においては、室内の闇に乗じて姿をくらますことはできない。ゆえに、火を放って黒煙を起こした。もしかするとそれに加えて、嗅覚による追跡を阻害する目的もあるのかもしれない。エイミーほどではないにせよ、吸血鬼の五感は、人よりも研ぎ澄まされているからだ。


 では、次にミラがすべきことは、エイミーの行方を辿ること。

 それは簡単だ。


 エイミーは、横腹の切り傷から、かなり出血していた。


 黒煙を避けるようにして、ミラは姿勢を低くして目を凝らす。すると、炎の向こう側、絨毯に点々と血痕が続いていた。エイミーの血だ。あの激しい応酬の最中に、代わりの何かを咄嗟に用意する時間などなかったから、少なくとも偽装ではない。エイミーを投げ飛ばした側の棚には赤ワインはなかったからだ。


 ――そろそろチェックメイトが見えてきたかな、エイミー?


 血の跡は、ある部屋へと続いていた。

 開け放たれたままの扉の向こう。ここに来た時、ミラが鏡を割った執務室だ。


 ゆえに、途中からミラの残した血痕とエイミーの血の跡が重なり、交錯する。


 ミラは、壁を背に、右半身を乗り出すようにして、室内の様子を窺う。二人分の血の雫は、螺旋状に交差しながら、扉から入って左手奥の暖炉の中まで連なっているようであった。


 もしかすると、暖炉の中に潜んでいて反撃の機会を窺っているのかもしれない。エイミーには、嗅覚で敵の位置を知り、奇襲のタイミングを測れる利があるからだ。


 ゆえに、すぐに応戦できるよう、警戒しながら暖炉への距離を半歩ずつゆっくりと慎重に詰めていく。


 ミラは、暖炉の前までついに到達する。

 奇襲の兆しは、いまだない。


 連なる血痕の先、暖炉の奥に転がっていたのは、灰と血潮で汚れ切った、狼の尾っぽだった。肉片の間に骨が垣間見えるその断面からは、まだ鮮血が滴っている。


 突如、視界の中に動くものを認めた。

 マントルピースの上に残された鏡の残骸が映し出す鏡面の中。

 紺色のコートの下から血を滴らせながら、こちらへと迫り来る手負いの獣の姿がありありと映し出されていた。

 内開きの扉と壁の間に隠れていたのだろう。


 勢いのある体当たりの直撃を食らった扉の断末魔を置き去りにして、赤毛の狼が室内をこちらへと突っ切って来ているのだ。靴と靴下を脱ぎ捨てた素足の状態。それに毛足の長い上等な絨毯の生地も相まって、足音がほとんどしていない。


 鏡像に気付かなければ、危うく後手を取っていたかもしれない。

 ミラは、刹那の一瞬で形成判断を下す。


 エイミーは、恐らく暖炉の中の尾っぽを囮にすることで一瞬の隙を作り、背後から攻撃を繰り出すつもりだったのだろう。


 だが彼女は見落としてしまっていた。


 マントルピースの上に残された鏡の小さな残骸が、その模様を一部始終捉えていることに。そして鏡の破片それ自体は、ミラの身体が障害となる形でエイミーからは完全な死角となっている。

 他方で、ミラにとって自身の身体は、エイミーの動向を鏡で把握するにあたり、障壁には一切なり得ない。


 なぜなら、鏡面が吸血鬼を映し出すことは決してないからだ。


 意図せずに自身が作り出していた、割れ残った鏡という偶然の優位を活かし、あえて無防備な背中を晒し続けることで、ギリギリまで彼女を引き付けるべきだろう。

 左右を反転させたエイミーが、左腕を後ろに大きく振りかぶり、握りこぶしを頭上高く掲げ、跳躍した。


 私の勝ちだ。ミラは確信した。


 エイミーは、渾身の一撃を繰り出すとき、いつも飛び掛かってくる癖があるのだ。初めて彼女と相まみえた時や、火を吹く大きなトカゲを仕留めた時もそうであったように。

 そこを捉える。


 エイミーの拳が自身の身体を捉えるよりも早く、右上段後ろ回し蹴りを決める自信が、ミラにはあった。


 ――もらった。これで本当に終わりだね。


 身体の重心を左前方へやや傾けつつ、回し蹴りの動作へと滑らかに移行する。


 右後ろを見やりつつ、宙に飛んでいるエイミーを右足で捉えようとしたその瞬間、左肩と首の付け根に突然衝撃が走った。

 回転動作の途中だった身体は、バランスを崩し、そのまま絨毯の上へと背中を強かに打ち付ける。

 理解が追いつかないミラの視界に飛び込んできたのは、こちらへ飛び掛かってきているエイミーとその拳に巻きつけるようにして握られた、見慣れた緑色のリボン。加えて、ぱらぱらと長短様々な金髪の舞う姿。


 そして拳から伸びた緑の長いリボンは、窓から差し込む柔らかな月光に照らされながら、虚空に美しい曲線を描いていた。

 遅れて、左肩から胸の辺りに掛けての焼き付くような痛みが、ミラの思考を締め上げる。


 歯を食いしばったエイミーは着地の動作に入りながら、リボンをぐいと引っ張った。

 すると、棒状の長い何かが彼女の右手へと飛んでいく。

 蒼い清光を刀身で反射するそれは、紛れもなくだった。


 今しがた何が起こったのか脳が答えをはじき出すより前に、手元へと飛んできた刀の柄をエイミーが逆手で掴む方が早かった。

 左の手の平を柄頭に添えると、着地の勢いのまま、私の心臓めがけて切っ先を繰り出した。


 ――愛しい妹が私の胸元へと一直線に飛び込んでくる。


 ――ああ、愛しいヴィア。最愛の妹と私の鼓動が同調する。おかえり、ヴィア。


   *


 正直、良くて五分の賭けだった。

 出発する前に、寝室で鏡を見たときに、偶然気付いたに過ぎなかった。

 吸血鬼は鏡に映らない。そして、理屈はよく分からないが、。多分、衣服も着ている状態だと、吸血鬼の一部として扱われるからなのだろうか。別に理屈は重要ではない。大事なのは、鏡に映らないというその事実のみ。


 そして、出撃前に刀を握った状態で鏡に映ったアタシは、刀を手に持っていなかった。


 鏡に映っていなかったのだ。刀が。柄頭に結び付けたオリヴィアのリボンも含めて。


 つまり、吸血鬼を素材にして作られた刀と、それに結わえ付けられたリボンもまた、鏡には映らないということらしい。


 それ以外に、アタシにとって運が味方したのは、二つ。


 一つは逃げ込んだ先に、ミラが手頃な大きさで砕いていた鏡があったこと。そう、ちょうど彼女一人の身体で隠れるくらいの大きさで。アタシ一人では、こんな作戦は決して思いつかなかっただろう。あのテムズ沿いの倉庫で、ミラが鏡のようになった硝子窓を利用して不意を衝く作戦を立ててくれていなかったら。


 そしてもう一つは、彼女の戦い方の癖を知っていたこと。


 十分に広い空間がある場合、ここぞというときの決め技は、いつも右の後ろ回し蹴り。


 腕と比べて長く、筋力も数倍は違う脚を武器に使うのは、きっと男女間の不利を埋めるため。少女である以上、どうしても筋力で劣るという不利を少しでも埋めるために不可欠だった技術。きっと、それは大切な妹を身を挺して守る過程で自然と培われたものなのだろう。


 確証はなかった。

 だが、確信はあった。


 右回し蹴りを使ってくる。

 最初に出会った時のように。


 それは、ミラへの信頼の証。


 彼女は、ここぞという時には、絶対に手を抜かない。

 自分の出せる最高の一撃を繰り出してくる。


 だから、扉と壁の間に隠れると、刀で自分の尻尾を切り落として、暖炉へと投げ込んだ。コントロールには自信があった。それは、かつてオリヴィアを大トカゲの鼻先へと投げた時のように。


 血飛沫を上手く撒き散らしながら、暖炉の中へ尻尾が入れば、後は扉の裏でタイミングを計るだけ。


 研ぎ澄まされた聴覚で、狙い通りに彼女が暖炉の前まで近づくのを待つ。


 きっと彼女は、暖炉の中の尻尾が、背後から奇襲をかけるための囮であることを看破してくれる。


 実際、ミラは、エイミーの思考過程を綺麗になぞってくれた。


 それは、お互いがお互いのことを深く理解し、信頼していたからこそ成り立ち得たのだった。


   *


 柄を握り締めた血みどろの両手が緩んだ。


 満身創痍で、顔を腫れ上がらせた赤毛の少女が、瀟洒な絨毯の上で、脱力するように仰向けで寝転ぶ。

 斜め上を振り仰いだ彼女に降り注ぐのは、地平線へと近づきつつある月の光。


 彼女は、血と灰で汚れたコートのポケットに徐に手を入れ、くしゃくしゃの紙巻煙草を血に塗れた指先で摘まみ出した。見よう見まねの慣れない手つきで、それを咥えると摩擦マッチで火を灯す。


 肺腑へ吸い込んだ紫煙が、室内へと吐き出され、虚しく霧散する。


 絨毯の上へと力なく下ろされた手の先で、指に挟まれた紙巻煙草から灰が落下した。


 ――土は土にearth to earth灰は灰にashes to ashes塵は塵にdust to dust


「――不味い」

 誰も聞く者のいない室内で、彼女は呟く。

 少女が初めて吸う煙草の味は、口の中に広がる血の味しかしなかった。


   *


 木製の長椅子が二列にいくつか並べられた簡素な礼拝堂。

 ステンドグラス越しに、黄昏色の光が差し込む。


 講壇の背後には、十字架が高く掲げられている。


 礼拝堂の中に人影はたった一つ。

 最後尾の長椅子に、一人の赤毛の少女が横柄に腰掛けて、紫煙を燻らせているだけだ。彼女の左隣には、鞘に納められた刀が立て掛けられている。その柄頭に結び付けられているのは、緑のリボン。


 窓の外では、復活祭イースターのエッグハントに興じる孤児院の子供達が、無邪気に駆け回っている。


 ジェーンが敷地内に隠した卵を探しているのだ。


 少女は目を閉じて、ため息交じりの紫煙を吐く。


「――エイミーは一緒に遊ばないの?」

 赤毛の少女の隣で囁く声。


「……あんなの子供騙しでしょ」

 エイミーと呼ばれた赤毛の少女が、自身の右隣に腰掛けた金髪の少女へと、目を閉じたまま小さく毒づく。


 それを受けて、金髪の少女は、愉しそうに身体を揺らす。

「でも、そんな子供達の居場所を守るために、あなたは命を懸けて、あのジェーンの言いなりになって、今夜も戦うんでしょ? 違う?」


「馬っ鹿らし。そんなのは、アンタの勘違い」

 エイミーは目を開けて、隣に腰掛ける少女を見やる。

「アタシが戦うのは、いつだって自分自身のため。それ以上でもそれ以下でもないから」


「ふーん、――まぁ、そういうことにしておいてあげるよ。エイミー」

 金髪の少女はそう言うと、二人に挟まれるようにして、長椅子の上に置かれた二冊の本に目をとめた。

「読み書き用の教本。――勉強してるんだ、偉いね。で、こっちは、『鏡の国のアリス』?」

「別に。ただのきまぐれ。……どうせ、の時以外は何もすることなくて暇だっただけ」

 短くなった煙草を握り潰して床へ投げ捨てると、エイミーは、新しい紙巻煙草に火を付けた。右手にできる火傷など、どうせ翌朝には消え失せる。


「火傷はそうでもさ、エイミー。尻尾はもう元には戻らなかったよね」

 金髪の少女が、ぼそりと呟く。

 それを聞いたエイミーが、鼻で小さく笑った。

「あんなの邪魔でしかなかったから、いつか引き千切ってやろうって思ってた。むしろ無くなって、清々するくらいだけど?」


「そう」

 短く呟くと金髪の少女は、徐に立ち上がり、優雅な足取りで講壇へと向かって歩き出す。黄昏の朱色の中に、金の粒子を振りまきながら、彼女の長い髪がなびく。


「ねぇ、エイミー?」

 講壇の上に立ち、手を腰の後ろで組んで、彼女が振り返る。

「あなたは、これからもそうやって、色々な物を失いながら、この悪徳の都で、たった一人で生き抜いていくつもりなんだね?」

 紺碧の瞳が、憂いの色を帯びる。

 彼女が言っているのは、エイミーがジェーンと新しく交わした約束。

 自分が戦い続ける限り、二度と新入りの孤児を怪物にしないという約束。


「――どうせアタシの足手まといにしかならないだろうし、仲間なんか必要なかっただけ。一人の方が楽だし」

 エイミーの吐き出した紫煙で、金髪の少女の姿が隠れる。


「あーあ、残念。――あともう少しで、この街に硫黄の火の雨を降らせることができたのに」

 晴れた紫煙の向こう側。

 壁面に掲げられた十字架の横木に、金髪の少女が腰掛けている。


「ねぇ」

 エイミーが小さく発した。

「アンタさぁ、本当はそんなつもり、全然なかったでしょ?」

 赤毛の少女が十字架を見上げる。


「……どうして、そう思うの?」

 僅かに首を傾げる元吸血鬼。


「アンタがもし本気でそんなことやりたかったんなら、屋上でのんびりアタシが来るのを待つのなんて、時間の無駄なんじゃないかって思っただけ。だって、そうでしょ? 時間が経てば経つほど、目的の達成が難しくなるわけなんだから」

「ヴィアを追い詰めたあなたを真っ先に殺したかったからって、言ったじゃない」

 朗らかな笑顔を浮かべる金髪の少女。


「――噓つき」

 エイミーが吐き捨てる。

「アンタさ、本当は殺されたかったんでしょ? を使われて」

 赤毛の少女の言葉を受けて、金髪の少女の顔が、少しだけ苦しそうに歪む。

「――どうして、そう思ったの? エイミー」

「さぁ、何となく。――根拠なんてないから、所詮はアタシの身勝手な妄想」

 肺腑から紫煙とともに、エイミーが胸の裡にずっと溜め込んでいた言葉を吐き出す。

「でも、アンタが柄にもなく歌ってるとこ聞いて、なぜかそう思った」


 ――アンタは、アタシを見ていたけど、アタシのことなんか最っ初から見ちゃいなかった。


 ふっ、と金髪の少女が口許を緩めた。

「確かめる術はもうないけどね。私はあなたの空想。真実は神様のみぞ知るってこと」

 長い金髪を愉し気に揺らしながら、彼女が言う。


「――分かってるよ。そんなこと」

 エイミーが呟く。


 彼女の吐き出す紫煙は、他に誰もいない礼拝堂の中に霧散してゆく。


 しばらくそうしていると、礼拝堂の入り口が開け放たれた。

 真っ黒のワンピースと、肩から防寒ストールを羽織った、栗色の髪の女性。

 ここの主、ジェーンだ。


「アミーリア、そろそろ時間ですわ」


 エイミーは、咥えた煙草を握り潰して捨てると、長椅子の背に掛けてあった紺色の薄汚れて擦り切れたコートを掴んで立ち上がった。彼女の背丈に合うように誂えられたそれに袖を通すと、立て掛けていた刀を引っ掴む。


 門扉の前に止まる漆黒の馬車。そのシルエットは、棺を彷彿とさせる。


 イーストエンドの路地裏から、冬将軍はもう立ち去った。


 だが、彼が毎年訪れる度に、エイミーは、あの吹きさらしの屋上で金髪の少女が歌ったグリーンスリーブスの旋律を、否応なしに思い出すことになるのだろう。


 そんな予感を胸の裡に秘めながら、赤毛の少女は馬車へと乗り込んだ――。



 Alas, my love, you do me wrong

 To cast me off discourteously

 For I have loved you well and long

 Delighting in your company.


 ああ、本当にいじらしいわ、私の愛した貴女は

 貴女は何も言わずに私を置いて行ってしまうのね

 私は貴女のことを本当に大切に思っていたし、

 寄り添えてさえいれば、それで良かった



 Greensleeves was all my joy

 Greensleeves was my delight

 Greensleeves was my heart of gold

 And who but my lady greensleeves.


 緑の貴女は、私の生き甲斐

 緑の貴女は、私の幸せ

 緑の貴女は、私の生きる意味そのもの

 私が愛を注ぐ人は、貴女を差し置いて他にいようものか



 Your vows you've broken, like my heart

 Oh, why did you so enrapture me?

 Now I remain in a world apart

 But my heart remains in captivity.


 私の心を張り裂くように、貴女は約束を破ってしまったわ

 でも、それすらも貴女のいじらしさだって分かってる

 私には貴女に寄り添う資格はないけれど、

 私の心はいつだって変わらずに、貴女のものだよ



 I have been ready at your hand

 To grant whatever you would crave

 I have both wagered life and land

 Your love and good-will for to have.


 私は貴女のためなら、何だってする

 貴女が望むのなら、この身だって、この世界だって、

 投げ打ってみせるよ

 だから貴女にもう一度微笑みかけて欲しいんだ


 If you intend thus to disdain

 It does the more enrapture me

 And even so, I still remain

 A lover in captivity.


 結局、全て私の自己満足にすぎないのかもしれない

 でもね、貴女が私を嫌いになったとしても、

 私は永遠に貴女の味方だよ


 Well, I will pray to God on high

 that thou my constancy mayst see

 And that yet once before I die

 Thou wilt vouchsafe to love me.


 私は、届くことの叶わない月に手を伸ばすの

 貴女が私の気持ちに気づいてくれることを願って

 私がこの身を滅ぼす前に、叶うならば

 貴女が私を抱きしめてくれることを願って



 Ah, Greensleeves, now farewell, adieu

 To God I pray to prosper thee

 For I am still thy lover true

 Come once again and love me.


 ああ、私の愛する貴女、別れの時が来た

 貴女を幸せに出来なかった無力な私をどうか許して

 私は永遠に貴女の味方

 だから、たった一度でいいから、どうか私を抱きしめて



                      (了)

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