第22話 最悪な形のカミングアウト

 その日は、黒くて大きな雲が、空を覆いつくしていた。予報では午後から大雨が降るらしく、僕は、昔コンビニで買った折り畳み傘をカバンに入れて、玄関を出た。外に出ると、じめじめとした雨のにおいがしていた。空を見ると予報など関係なく今にも雨が降り出しそうだったので、僕は急ぎ足で学校に向かった。


 海斗は入院中で、星見さんもまだ来ていなかったので、僕は、ある程度仲の良いクラスメイトと話しながら、朝の時間を過ごすことにした。昨日のテレビはどうだったとか、今日の朝の課題はやったかとか、そのようなとりとめのない話をしながら、一時間目の開始を待った。


 しばらくそうしていると、一時間目開始のベルが鳴った。ふと僕は、星見さんの席を振り向いた。まだ空席のまま。


 ――今日はまだ来ていないのか。雨の時間と重ならなければいいけど。


 心のどこかで寂しさを覚えながら、僕は、静かに前に向き直った。


 今日の午前の授業はいつも通り特に変わったところもなく展開された。熱意ある若い教師の国語の授業。教科書を読むだけの世界史の授業。顕微鏡は覗き込むが、スケッチはしっかりと書くことができない生物の授業。基礎はぎりぎりついて行けるが、応用問題になったところで途端にやる気がなくなる数学の授業。たまに昼寝をして、たまにまじめに受けて、たまに星見さんの席の方を見て、そんないつもどおりの生活を過ごしていると、昼休み開始を告げるチャイムが鳴った。


 星見さんや海斗がいなかったので、普段あまり関わらないグループの席に混ぜてもらい、そこで弁当を食べた。言葉や態度にいつも以上に気を遣いながらも、いつもとは違った会話や空気を楽しむ。


「え、湊まだ海斗君に告白してないの?」

「ちょっとやめてよ。声が大きいんだけど」


 急にそのような声が聞こえてきたので、声のした方向を向く。すると、そこには、月下さんが所属する女子のグループがあった。生徒指導に引っかからない程度にうっすらと染めた髪をなびかせながら、彼女たちは話を続ける。


「えーだって湊ってめっちゃ美人じゃん。もう告白したらいけるでしょ。大丈夫だって」

「だから声が大きいよお。だって海斗君あんまりその気なさそうだったし」

「そんなの本心を隠してるだけだって。絶対いけるって」


 聞くとその会話は、月下さんが告白するか否かについての会話のようだった。これほど大勢の人がいるところでする話じゃないだろうに。やはり女子という生き物は、恋が絡むとどうしても話が盛り上がってしまうものらしい。


 しばらくその二人の女子がその話題で盛り上がっていると、その間でのんびり弁当を食べていた女子が、ふと、口を開いた。


「でも、あれでしょ。海斗君ってなんか、今も振られた人を引きずってるって話じゃなかったっけ?」


 すると、その瞬間、僕は教室の気温が数度下がったかのような感覚に襲われた。理由は簡単だ。月下さんが普段まとっているふわふわとした雲のような穏やかなオーラが、唐突に、鋭い刃物のような攻撃的なオーラに変わったからだ。


 彼女は、冷たくこう言い放った。


「え、そうなの? どこの誰?」


 詰め寄られた女子は、急変した彼女の様子に驚きながらも、彼女に伝えた。


「あの、えっと、星見さんだよ。ほら、湊と同じ学校だったんでしょ。海斗君、あの子に告白したんだってさ。すごいよね。まあ確かにかわいいと思うけど」

「へえ、そうなんだ」


 月下さんは、星見さんの席の方を向くと、ぼそっと何かを呟いた。何を言っているかは決して聞こえなかったが、きっと良い言葉でないだろうということは想像がついた。


 彼女は、再び友人の方を向くと、急にうつむき言葉を発さなくなった。何かを考えている、そんな様子だった。少しの間そうした後、彼女はゆっくりと顔を挙げた。そして、この言葉を発した。その時の彼女の唇は、僕にはいびつにゆがんでいるように感じた。


「まあでも、星見さんは、海斗君のことを振るよね。だってあの子レズだもん」


 それは、友人二人に向かって話すには、やけに大きな声だった。


 彼女の言葉を受けた途端、クラスのあちこちでざわめきが起こった。みんな動揺しているようだった。それもそのはずだ。星見京子が『レズ』、つまり同性愛者だった、そんな話、僕でさえ聞いたことがない。じわじわと頭が言葉の意味を理解していく中で、彼女から受け取った言葉が僕の脳裏をよぎる。


『本当に真実に対して怯えてるのはさ。私なんだよ』


 きっと彼女は、ずっと胸にその秘密を抱えて生きてきたのだ。本当の自分を開示したときの周りの反応が怖くて、ずっとそれを押し殺して生きていたのだ。


「あれ、みんなまだ知らなかったの? てっきり伝えてるものかと思ってた。星見さんに悪いことしちゃったかな」


 月下さんは、声の調子を落としながら、申し訳なさそうにそう言った。僕は、その表情を見て、今まで感じたこともないような猛烈な怒りが込み上げてきた。


 嘘だ。月下さんはわざと、彼女の秘密を大声で暴露したんだ。その真実を広めて、海斗が星見さんをあきらめるよう仕向けるために。


 僕は、今の感情に任せて、月下さんに怒りをぶつけようとした。しかし、その瞬間、ドアの向こうでとある音がなった。


 ――ズドン。


 何か大きな荷物が落ちたような音だった。何事かとみんな音のした方向を向くが、そのドアは閉まったままだ。


 ――まさか。


 ある予感が、不意に僕の頭をよぎった。僕は、慌てて席を立ち、勢いよくドアを開けた。開けた先には誰もいなかった。しかし、廊下を走る足音がしたのでその方向を向くと、そこには、金色の髪を揺らし、バッグを抱えながら走る女子生徒の姿があった。


「待って! 星見さん」


 僕はその女子生徒の方に向かって駆けだした。


 星見さんは今日もしっかり登校していたのだ。最悪の状況で、最悪のタイミングに。いつからドアの前にいたのかはわからない。ひょっとしたら海斗の告白の話からいたけれど、気まずくて入れなかったのかもしれない。ともかく、何かしらの理由でドアの前にいた時、月下さんのあの残酷な暴露を聞いた。そして動揺から、今持っているかばんを手から離してしまい、先ほどの音が鳴ったのだ。


「ねえ、待って。待ってよ」


 全速力で走る彼女を僕は必至で追いかける。ここで追いつかなければ一生彼女と会うことはできなくなる。なぜだか僕はそんな気がしていた。


 少しずつ少しずつ僕と彼女の距離が縮まる。彼女は、玄関に着くと、大急ぎで外履きに履き替え、再び走り出す。僕は上履きのまま外に飛び出し、彼女の肩を掴む。


「待ってったら」


 すると、さすがにあきらめたのか、彼女は、静かに立ち止まった。空には、予報の通り激しい雨が降っている。彼女は振り向かぬまま、雨の音に負けないような大声を出し、僕に尋ねた。


「何? なんで追いかけてきたの?」

「だって――」


 僕はそのあとに何の言葉を紡ぐこともできなかった。彼女を追いかけることに夢中で、僕は、彼女にかけられる言葉を見つけることができなかった。


 彼女は、これ以上待っても答えは返ってこないと思ったのか、彼女から言葉をつづけた。


「びっくりしたでしょ。月下さんの話を聞いて」


 僕は、また、何も言葉を返すことができなかった。びっくりしていないと言えばうそになる。しかし、その正直な気持ちを彼女に話すのが正解かどうか、自分で判断することもできなかった。


 彼女は続ける。


「まあ、びっくりしたよね。女の子のくせに女の子のことが好きなんだもん。だから、二人とは付き合えなかったんだ。ごめんね。普通と違くて」


 違う。違う。そう考えるのは、そう言葉を紡ぐのは絶対に間違っている。


「謝ることなんかじゃない。星見さんは言ったじゃないか。公園で。僕に対して私は人と違うってことを絶対に笑わないって。だったら、僕もそうだよ。僕だって、星見さんの好き嫌いが大多数の人とは違っても、それを間違っているだなんて思わないよ」


 僕がそういうと、彼女はしばらく黙っていた。


 雨が落ちる音が絶え間なく地面に響く。心の傷も過ぎ去った過去も、何も洗い流すことなく、雨水はただただ大地にしみこんでゆく。


 彼女は、僕の方に静かに視線を向けた。目を伝う滴は、きっと雨から来たものではないのだろう。


「ありがとう。でもね」


 彼女は、内側から絞り出したような声で、僕にそう言った。


「それでもきっとみんなは受け入れてくれないよ。きっとみんな私の個性を拒絶するようになる。そして私はきっと、また、自分のことをきらいになっちゃうんだ。そしてまた私は、きっと色をなくす……」


 その言葉を言い終わるや否や、彼女は急に、痛みに顔を歪めたような表情を浮かべた。すると彼女は、はっと何かに築いたような顔をすると、カバンを前に出し自分の体を隠すようにして、僕に言った。


「じゃあ、私はもう行くから」


 彼女は僕に背を向けると、土砂降りの中傘もささずに走っていった。


 ただ茫然と、彼女の背中を見つめ、立ち尽くす僕。少しずつ、少しずつ、彼女と僕の距離が、離れていく。彼女の内に秘めた真実がわかったのに、僕と彼女の溝はどんどん広く、深くなっていく。


 しかし、それでも僕の心の中に、彼女を追いかけようという気持ちは起こらなかった。今全速力で後を追いかけて、彼女に追いついても、僕は彼女に何の言葉もかけられないことが分かっていたからだ。


 不足しているのだ。本心を伝える経験が。その経験値が不足しているからこそ、好きな女性が泣いていても、かける言葉を見つけることができない。


 また、それ以外にも、僕が彼女を追いかけられなかった原因はもう一つあった。僕は、彼女にある異変が起こったとき、僕はその現象に気を取られて、すぐに彼女を追いかけることができなかったのだ。


 もしかしたら僕の思い過ごしだったのかもしれない。しかし、それが僕の思い過ごしでなかったなら、彼女がとっさにカバンで自分の身体を隠したことにも説明がつく。


 それからしばらく彼女は学校に来なくなってしまった。電話やラインをしても、決して返ってこないし、それどころか、海斗のお見舞いにも来なくなってしまったようだ。あんなに仲良くしていたのに、彼女と僕のつながりはたやすく絶たれてしまった。


 どうしていいかわからなくて、僕は平日の昼間に、星見さんのことについて、学校をさぼって海斗に相談しに行くことにした。わざわざこの時間にしたのは、相談している際に、絶対に月下さんが来ないタイミングにしたかったからだ。

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