第21話 何に重さがあるのかを

「ただいま」

「あら、和也おかえり。ご飯できてるよ」


 母の声とともに、鍋の中の味噌のにおいがふわりと鼻に届く。しかし、今日はそんなにおいにも、食欲を掻き立てられることはなかった。


「んー。今日はいいや。あんまりお腹空いてないし」

「あらそうなの?食べたくなったらいつでも降りてきていいからね」


 心配そうな母親の声を背に受けながら、僕は静かに部屋に向かった。そして、いつものようにベッドに倒れて天井を見上げ、今日起きた違和感について思いを巡らせた。


 ――なんで僕は、あの時、何も言うことができなかったのだろう。


 病室で、空気と混じって霧散してしまった言葉。僕はあそこであの言葉を言わないという選択を決してしてはいけなかった。僕は星見さんに他の誰よりも助けられた人間だ。彼女の優しさを誰よりも知っているはずの人間なのだ。そんな自分が彼女のことを庇えないなら、誰が誤解されやすい彼女のことを守ってあげられるというのか。


 確かに自分は今まで自分の意見を隠してきた。あえて自らの色をなくすことで周りに溶け込んで、うまく人間社会をやり過ごしてきた。しかし、そうだとしても、本当に大切な場面でも、色を出すことができないなら、それは本当の意味で無色透明ということではないのだろうか。


 己のふがいなさに、僕はまた、自分の瞳を涙で濡らす。


 今日の違和感で理解できなかった点はもう一つあった。それは自分がかつて職員室に行った時には、山井先生に対して、彼女をかばう発言ができていたということだ。かつてできていたことが今回できなくなっていた。そのつじつまの合わない点が、さらに自分をいらだたせた。自分のことなのに、全く自分のことが理解できない、それが辛くて、悔しくて、何より恐ろしかった。


 トントン、と、不意にドアをたたく音がした。僕は慌てて目を袖でこすり、一つ深呼吸して、ノックに答える。


「どうぞ」


 静かにドアが開く。扉の先にいたのは母さんだった。母さんは、ゆっくりと部屋に入ってきて、こう言った。


「急にごめんね。なんか和也の表情が、あの日と同じような表情だったから気になっちゃって」


 母が発した言葉に違和感を覚え、僕は聞き返す。


「『あの日』って何?」

「……やっぱり、覚えてないのね。それほど衝撃的な出来事ってわけでもなかったから、きっと記憶の底に閉じ込められちゃったのね」


 母は、どこか寂しそうな笑顔を浮かべながら、そう言った。母の言葉を受けて、僕の脳裏に、この前医者が言っていた内容が頭に浮かぶ。『この傷は精神的なものだから、自分の中のトラウマを克服しないと根本的に直すことはできない』母の言う『あの日』というのは、この傷の原因となったトラウマに関係していることなのだろうか。


「聞かせてよ。『あの日』って何のこと?この傷に関わること?」

「まあ、多分そうね。本当にそんなに大それたことではないんだけどね。あの日から、和也は、あまり自分の考えを話さなくなったのよね。あなたの四年生のころね。日向猛君って子がいたのは覚えてる」

「うん、覚えているよ」


 もちろん覚えている。自分のクラスである四年三組で、海斗をしのぐほどの人気を得ていた男だった。顔は整っていて、勉学も運動もできる、クラスの中心人物。ただ、少しわがままな面が目立つ人だったので、僕はあまり得意ではなかった。


「私も先生から聞かされた話だから深くは知らないんだけどね。確か、発表会でやる劇の内容をクラスで考える時だったかしら。いつも通り、日向君が中心になってその内容を考えていたの。その日向君の案に『上半身だけの化け物にみんなで立ち向かう話』ていうものがあったの。多分そういう怪談が当時流行っていたからだと思うんだけど。クラスメイトは彼の案に賛成していて、これで決まりにしようって雰囲気になっていたんだけど、一人だけその案に反対した子がいたのよ。それがあなただったの」

「僕が」


 予想もしない母の言葉に、僕は驚く。クラスメイトのほとんどが賛成している案に、四年生の僕はただ一人反対したのか。今となってはそんな自分の姿など全く想像できない。


 母は続ける。


「確かあの日の前日に、あなたは車いすバスケについて特集している番組を見たのよ。それに影響されたのかしらね。あなたは、日向君の意見に対して『下半身がないだけでそれを化け物扱いするのはどうかと思う。化け物を出すなら、その姿はもっと人から離れたものにしたほうがいい』って。日向君の言う『化け物』に対して、下半身の使えない人はあまり良く思わないんじゃないかって思ったのよね。あなたが言ったことは決して間違っている事じゃない。どんな人でも楽しめる内容にすることは大切なことよ。現に当時の担任の先生だってあなたの意見に賛成したわ。でもクラスメイトは海斗君以外あなたの言うことに耳を貸そうとはしなかったの」


 母はため息を一つつきながら、言葉を加える。


「日向君はクラスの人気者だったけど、あなたはその日向君と仲があまり良くなかったからね。あなたの味方になってくれる人が海斗君以外いなかったのよね。だから、あの日も、四年三組のあなたのクラスメイトは、あなたの意見に大した理由もなく反対した。みんなはあなたの意見を、『日向君中心のクラスの雰囲気を阻害する意見』としかとらえられなかったのよね。それからあなたは少しずつ、自分の意見を言わなくなったわ。なるべく目立たないようにふるまうようになって、人に逆らうこともなくなった。あの四年三組は、あなたの生き方に大きな影響を与えたクラスだったわ」


 僕は、母の言葉を受けて、ゆっくりと自分の記憶を振り返った。四年三組。僕の今の生き方を形作ったクラス。言われてみれば確かに、僕は今まで小学校の記憶の中でも、四年生の時の記憶だけ、曖昧だったように感じる。母の言う通り、僕は無意識に、自分の過去に蓋をして閉じ込めていたのかもしれない。瞳を閉じて、深く、深く、自分の記憶の底に向かって潜り進もうとする。


 すると、瞳の裏にとある光景が浮かんだ。『クラスの出し物』と右側に縦書きで大きく記された黒板。その前に立ち、みんなの前で堂々と立つ日向猛。僕は、後ろの席でただ一人起立し、日向猛に意見を述べている。そしてそんな僕に、クラスメイトは、少しの温度も感じられないような冷めた視線を送っていた。


『なんでいい雰囲気に水を差すんだよ』『お前が考えていること気にする奴なんていねえよ』『いいから黙ってろよ』『誰もお前の意見なんか聞いてねえよ』


 話し合いに対して自分の思っていることを述べる。そんなことが悪いことではないことぐらい自分には分かっていた。しかし、他のクラスメイトの異端者を冷たく扱うような態度に直面したとき、僕は、何やら、とてつもない大罪を犯している気分に見舞われたのだ。事態を重く見た先生が僕の意見を擁護してくれたが、その時はもう遅かった。クラスにはこびる排他的な雰囲気は収まることなく、最終的に、僕は静かに座って、自分の発言を取り消した。


「そっか。あったね、そんなことも。思い出したよ」


 僕はつぶやくようにして、そう言葉をこぼした。なるほど、通りで先生に言えたことを月下さんには言えないわけだ。僕が評価を気にし、嫌われぬよう努めていた主な対象は先生でも、親でもなく、クラスメイトだったのだから。


 過去を知り、抱えていた謎が解けたのは良かった。しかし、それだけでは、僕が今日抱えていた心のうちの霧のようなものは、やはり晴れなかった。トラウマが分かったところで、月下さんに対して言葉を発することができなかったという事実は変わらない。今僕に必要なのは、トラウマの内容ではない。そのトラウマを克服する方法だ。


 そんな心境を見透かしたかのように母は、僕に声をかけた。


「それで、今日、和也は何があったの?」


 まるで柔らかな布に包まれるように、あたたかい声だった。あの時のクラスメイトの視線とは正反対だ。


 僕は、ゆっくりと今日あることを話すことにした。自分よりも社会を多く経験してきた人。そんな『大人』の話を聞くことが、この問題を考えるうえで大切である気がしたから。


「……友人をさ。裏切っちゃったんだよ」


 僕は話し始める。


「海斗じゃないけどさ。今まで本当に良くしてくれた友達なんだ。いろんな相談に乗ってくれて、海斗と仲直りする手伝いもしてくれて。でも、今日その友達がさ、とある人に、すごく悪く言われたんだよ。僕は、それが許せなくて、『僕の友達はそんな人じゃない』って言おうとしたんだ。でも、そのトラウマのせいなのかな。何も言えなかった。黙ってることしかできなかったんだ。って、ごめん。なんだか道徳の授業に出てくる話しみたいだね。子どもっぽくてごめん」

「子どもっぽくなんてないよ。そっか。和也は、今、本当にいい友達に巡り合えているのね」


 母は、僕の目をまっすぐに見つめた。そして彼女は、言葉をつづけた。


「いい? 和也。あなたの抱えているトラウマに関わらず、あなたのような問題を抱えている人は大勢いるわ。周りの雰囲気に流されて大切なものを守れない人。もちろんそれが絶対に悪いことっていうわけではないのよ。空気を読んで、自分の本音を言わないのも、社会に出て必要な能力だわ。人間関係を崩してまで、守らなければならないものなんて意外と少ないもの。ただ、あなたがもし、自分の心の内を話せなかったことに、とても後悔しているなら、その言葉で守れたものは、あなたにとって大切なものだったのよ」


 『大切なもの』母のその言葉が、僕に重くのしかかる。大切なもの、そう、僕にとって星見さんは、大切なものだったのだ。だから守らなければいけなかった。だから声を出さなければいけなかった。しかし、自分にはそれができなかった。


 僕は、母の言葉を受けても、しばらくただ黙っていた。何か言葉を発しようとすると、自分の感情が爆発してしまいそうで、声を出すことができなかったのだ。


 母は、そんな僕の心を感じ取ったかのように、いっそう優しい声をかけて言った。


「でもね。和也、あなたは今本当に良い経験をしているのよ。あなたは、空気を読んで周りに合わせることの必要性を知るのが早すぎた。同年代の子が自分の気持ちを周りに表現している中で、あなたはずっと、自分だけが周りから飛び出しすぎないようにすることを考えていた。そんなあなたを見るのは、親として本当に寂しかったわ。挙句の果てに体に傷なんて作るようになって。でもね。今あなたは、自分の人生や生き方において大きな転換期にいるの。あなたが今までしてきたように、相手の評価を気にするのは大切なことだわ。さっきも言ったように、人間関係を悪くしても生きづらくなるのは自分自身だもの。でもね、どんなものにも、良い面と悪い面がある。だからこそ、『心の天秤』を常に持っていなさい。そして重さを比べるの。たくさんの人の評価とたった一人の大切な人の名誉。そして自分の後悔しない選択を、あなたには選びとれるようになってほしい。どっちに天秤が傾いても、母さんはあなたの味方だから」


 母は、すべてを話し終えると、部屋を出ていった。『あとは、自分で考えてみなさい』そう言葉を残して。五分ぐらいたつと、母が、台所から晩御飯を持ってきてくれた。悩むことは大切だが、ご飯は食べておけということらしい。まだ温かい料理を口に運びながら、僕はゆっくりと母の言葉を思い返す。


 『心の天秤』母は、僕に向かってそう言っていた。そして彼女は、僕に対して、決してこうすることが正しいと、彼女なりの答えを提示することはなかった。何に重さを感じるか、それは人によって変わってくる。それをわかっている彼女だからこそ、彼女の重さを、押し付けたくなかったのだろう。


 『自分が何を大事にして、何で傷つく人間なのか考えてごらん』


 思えばあの時の医者も母と同じことを伝えたかったのだ。誰に聞いたってきっと同じだ。僕が今抱える問題は、きっと自分を知ることでしか解決できない。


 『あなたがいなければふたりきりになれたのに』晩御飯を食べ進めていると、箸を持っていた右腕に、不意にそんな言葉が浮かび上がった。病院で月下さんが僕に対して感じた感情、いや、僕が彼女に対して僕に感じたと推測した気持ちだ。いつだって僕は、こうして人の感情におびえて生きてきた。この体になるべく傷が刻まれないよう配慮して生きてきた。


 けれども僕は、今日この生き方を初めて後悔したのだ。星見さんを守ろうとして、何もできなくて、結果として自分の評価を守った自分を、僕は生まれて初めて後悔した。きっとこの後悔という気持ちが生じた時点で、自分の気持ちは決まっている。


 何に重さを覚えるか、そんなことの答えは当の昔に出ていたのだ。次は必ず自分が後悔しないような行動をとろう。そう僕は、誓って、またゆっくりと、夕飯を食べ進めるのだった。



 しかし、このころの僕は知らなかったのだ。僕がした決意だけでは、星見さんを守ることは決してできないのだということを。何も知らない僕が力になれるほど、彼女と月下さんが共有している過去は、決して単純なものではなかったのだ。

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