天使と悪魔と戦場と

ちくでん

第1話天使と悪魔と戦場と

「おいヘンリー、この景色ならどうだ?」



 そう言って彼は、本陣営に後退してきたばかりのヘンリーノックス伝令兵の腕を掴んで高台に引っ張り上げた。

 丘上にコンクリートで固められたピルボックスを足場に周囲を見渡すと、戦列を遠くまで一望できる。



「悪くない。いい場所だ」



 そこかしこから上がる炊飯の湯気、今日の昼飯はビーフに特上のスープなのだ。ここ一週間動きのなかった前線の模様に、空気が少し和らいで弛緩している。

 ヘンリーはポケットから児童アニメ「メイキャップ・モンス」の小さな怪獣人形を取り出すと、足場にしたピルボックスの屋根上にボンドで貼り付けた。小さな怪獣人形は広く大きい眼下の陣地を見渡すような表情でそこに立つ。



「まったく変な趣味だよな。戦場ごとに良い景色があったら人形を置いていく。そんなことしてるのはおまえくらいだ」



 呆れたような声をしながらも、まんざらではない顔で戦友が苦笑する。ヘンリーは貼り付けた怪獣人形の頭を指先でピンと弾くと、わざわざこの場所を紹介してくれた戦友に礼を言う。



「妹がメイキャップ・モンスを好きでね」


「へえ妹さん。いいじゃないか俺に紹介してくれよ」


「そんな歳じゃない。まああれだ、妹との約束なんだ。世界中の絶景を見せてやるってな」


「なるほど、その怪獣が妹さんの代わりってか」


「そういうこと」



 ヘンリーは薄い表情のままで、懐から出した煙草に火をつけた。少し吸うと、戦友にも回す。戦友が吐いた紫煙が高台の風に散らされながら天に昇っていく。



「おいヘンリー、なんかおまえ、目の下のクマが凄いぞ? ちゃんと寝てるのか?」


「ん、ああ」


「おまえ昨晩ここに着いたばかりなのに、またすぐ伝令の仕事を受けたって聞いたが」


「ああ。今度はちょっとこの先までな。そういう意味でもこの場所はちょうど良かったよ、この高台からだとルートを大雑把に確認できる」


「自分から次々任務を求めてるんだってな、聞いてるぞ。しかも今度は最前線への伝令らしいじゃないか。そんな自分を酷使するような真似……」


「なに、俺の仕事は戦場をあちこちに飛び回ることだからな。西から東まで、前線から後方まで、様々な土地の景色を見ることができる。コイツを置いて、妹との約束も果たせると思えば願ったりさ」


「俺はおまえの身体が心配だよ兄弟」


「ありがとう。兄弟こそ身体に気を付けてくれよ、また会おう」



 ヘンリーは戦友に向かって拳を突き出した。戦友も拳を突き出し、コツンと合わせる。何回か拳を突き合わせた後、二人は拳をグッと互いの胸に押し付け合いその場で別れた。




 最前線への伝令。

 それでもこの日ヘンリーが受けた仕事は、至極簡単なもののはずだった。

 後方の本営陣から荒れた戦地を車で移動し、前線の一部隊まで伝令を届ける。敵軍に行う夜半過ぎからの一斉強襲の撤回命令を、第五中隊の隊長に封書で届けるだけの命令だった。戦場とはいえ、ここ数日は実質的な交戦もない小康状態。問題がなければ三時間も掛からずに終わるはずの伝令だ。

 だったのだが。



☆☆☆



「それがどうして、こんなことになってやがる……!」



 ヘンリーは今、敵陣のど真ん中を泥を強く踏みながら走っている。



「ふはは、まっこと戦場は地獄じゃのう!」



 ヘンリーの横を走るのは、光る輪っかを頭の上に乗せたプラチナブロンドの幼女。

 長い髪をなびかせた幼女姿の天使が、空に向かって対魔用洗礼済み七ミリライフル弾を撃ちながら笑顔をヘンリーへと向けた。



「ふざけるな天使野郎! よくわからない争いに俺を巻き込みやがって!」


「巻き込まれてなかったら貴様は今ごろ死体じゃ! 車を潰され敵兵に囲まれてたピンチを救ってやった恩を忘れたか? 巻き込まれてるからこそ、わしが助けてやったのだぞ!? 無縁じゃったら助けておらん」


「助けてくれだなんて誰も頼んでない! 別に構わなかったんだ、死ぬなら死ぬで!」



 走りながらヘンリーも空に向かって銃を撃っていた。それを眺めるように、幼女天使は笑うのだ。



「なにを言うておる。死んだら命令は達成できぬ、貴様はそれが『死ぬよりイヤ』なのじゃろう? だから今、貴様は奴らに向かって銃を撃つ」



 ――奴ら。

 黒い角を生やしてコウモリの羽で飛んでくる奴ら。



「悪魔どもに向けて銃を撃つ!」



 アハハハハ、と笑いながら幼女天使はライフルを乱射した。



「まっこと地獄地獄!」


「糞が!」



 二人の撃った弾がそれぞれ悪魔の眉間を貫いた。

 頭を破砕された悪魔たちが塵となって消え失せる。それを確認して、ヘンリーは廃村内の朽ちた小屋の中に躍り込んだ。後から転げてきた幼女天使が、立ち上がるのももどかしげに両手でなにやら印を結ぶ。



「聖域化!」



 部屋の中に神聖な輝きが満ち、小屋全体がぼんやりとした光を帯びた。もう何度かヘンリーも見ている幼女天使の魔法だ、建物の中を一時聖域と化して安全な場を作り上げると、

ヘンリーは聞いている。

 窓から外を覗くと、ヘンリーたちを「見失った」悪魔がウロウロと宙を漂っている。ヘンリーは、これで少しの間だが休憩できると息を吐いた。



「ふう」



 履いたままの軍靴を床に叩きつけて泥を落とし、そのままへたり込むように埃まみれな廃屋の中に座った。



「悪魔どもが去ったら出るぞ」


「おいおいヘンリー? そう焦るな。貴様がこの小屋で夜半まで時間を過ごしてくれれば、もう悪魔どもと争わなくても済むんじゃがのう?」


「そうはいかない。俺は友軍の伝令書を預かっている身だ、まさしくその夜半までには前線へ命令書を届けなくてはならない」


「ほんに強情なやつじゃ。長い戦争、命令の一つや二つたまに滞ったとこで問題なかろうて」


「そういうこともあるんだろうが、少なくとも俺の仕事においてそれは許さない」


「ふん、必死じゃのう。必死な振りをするのに必死じゃ、本当はもう心の中も空っぽのくせをして」


「なんとでも言え。とにかく命令を遂行すると俺は約束した、約束は必ず守る」


「わかったわかった。付き合うわい」


「で。なんで俺はこんなところで悪魔なんぞに狙われてるんだって?」



 座り込んだままのヘンリーは、固形のレーションをポキリと歯で噛み折って奥歯でギュムッギュムッと砕きながら聞いた。

 幼女天使は肩を竦める。



「さっきも言ったが、我々天使と悪魔は奇蹟に関しての攻防をしているところでの。今日貴様が殺されなければ、人類史上初『殺人が起きなかった日』という奇蹟の日になるのじゃ。奇蹟は神の御業じゃから起これば神の威光が増す、悪魔たちは奇蹟の達成を妨害しようとして躍起というわけよ」


「別に俺を狙わなくても。他の誰でもいいだろうに」


「このご時世、神秘の威光が人類から忘れられておってのぅ。わしら天使や悪魔は、信心深い者や『見える』者にしか直接的な影響を与えられなくなっておるのじゃ。貴様は昔から我らが『見えていた』者であろう?」


「……まあね」


「しかもだな、我々が影響を与えられる人間の中で今日死ぬ可能性があるのは、星の動き的に貴様だけなのじゃ。他は間違っても死なん。まさに奇蹟的な一日なのじゃよ。だからこの地域中の悪魔という悪魔が貴様を狙っている。どうじゃ? このまま聖域に留まる気になったか?」


「なるほど。つまり今なら俺は神さま天使さまの加護を一身に受けて動けるというわけだ。最前線でもかわりになって敵弾を防いでくれる盾がここに居るってことだろう? 留まる理由がないじゃないか」


「悪魔か貴様!」




 暗くなりつつある。

 ここはもう敵国の兵に見つかる恐れもある前線だ。闇に紛れて行動する方がリスクも少なかろうと、ヘンリーは小屋で少し休息を取ったのだった。

 闇の中で目を覚ましたヘンリーは、携行ランプに火を灯した。

 ぼんやりとした光の中、ベッドの上では幼女天使が羽を畳んでスヤスヤと寝入っている。白い花瓶のような頬がランプの光に照らされて朱に染まった。

 プラチナのブロンドを腰まで長くウェーブさせ、小さな手の細い指をもぞもぞ動かしている。

 ヘンリーはバッグからメイキャップ・モンスの人形を取り出すと、ベッドの傍らに置いた。

「どうだリーナ、聞いて驚け彼女は天使らしい」

 これまでの人生でヘンリーが悪魔や天使を見たのは一度や二度ではない。連中は意外と大胆にこの世界で活動している。しかし会話をするまでの縁を持ったのは初めてのことだったし、こうして間近で顔を見る機会もこれまでなかったことだ。天使がベッドで寝ている、これもまた珍しい『景色』だろう? とヘンリーは心の中で妹に語り掛けた。



「さて……」



 幼女天使の寝顔を横目に見ながら、ヘンリーはこっそり小屋から出ていこうとした。



「良い子だ、そこで『妹』と一緒に寝ててくれ」



 メイキャップ・モンスを枕元に置いたまま、小屋の扉に手を掛ける。しかし。

 途端に、ゴーンゴーンゴーン、と大きな鐘の音が響き渡った。



「うわっ!」



 思わずヘンリーが小さな悲鳴を上げる。



「むにゃむにゃ。おいヘンリー? わしを置いていこうなどと良い度胸をしておるではないか」



 ゴーンゴーンと鐘が鳴り続ける中、まだ寝たりなさそうなまぶたを頑張って持ち上げながら幼女天使がヘンリーに声を掛けた。



「わ、わかったからこの鐘を止めろ! 隠密行動もなにもあったもんじゃないだろうが!」


「聖域内じゃ、音は漏れとらんわい」



 んー、と大きく伸びをした幼女天使がライフルを片手にベッドから起き上がり、



「そろそろ出発かの?」



 ガチャリ、と次弾を装填した。



「ああそうだよ!」


「なぜわしを置いてゆこうとした」


「おまえらの諍いには付き合ってられん!」


「愚かな……。わしを置いていったところで悪魔は襲ってくるぞ、ならばわしを利用した方がよかろうに」


「子供を戦場になど連れていけるか!」


「はは、気を遣ってくれたのか? 安心せい、この見た目でも貴様よりはこの世に生じて長い月日を過ごしておるよ」



 幼女天使はにんまり笑うと、ベッドの上に立ち上がる。



「ほれ、こうすれば背だって貴様とそう変わらぬ高さじゃ。むしろ頭の上の『輪っか』ぶんわしのが高かろ?」


「ちっ!」



 なんとも可愛げのない天使だ、とヘンリーは舌打ちした。妹とは似ても似つかない。

 ことさら大きな音を立ててバックサックを背負い直し、ヘンリーは首を振った。

 幼女天使はニマニマ顔で銃を背負う。



「じゃあ出発じゃの。ルートは再確認したのか?」


「……ああ。悪魔に追われてだいぶルートを逸れてしまった、ここからは敵の勢力圏を抜けなくてはならない」


「悪魔どもめ、ああ見えて状況を支配しておったみたいじゃの。しっかりこちらの逃亡先をコントロールされたわい」


「あいつら、人への嫌がらせが大好きだからな」



 憎々しげに吐き捨てるヘンリー。その顔を見て、幼女天使がポンと手を打った。



「さすがこれまでも奴らを見てきた者じゃの、よく知っておる。そうなんじゃ悪魔どもは陰湿で人間が嫌がることを進んでする」


「はん、おまえら天使だって陰湿さじゃ負けてない。おまえらの居るところではよく事故が起こる。あれは『事故に遭う人間』が出るのをわかってて、『待って』るんだろ? 助けたりもしないで、未来を知りながらずっと待ってる」


「エネルギーを中心渦に回収、……つまり魂を天国に導いてるだけさ」

 悪びれずに肩を竦めた幼女天使に軽蔑のまなざしを向け、ヘンリーも銃に弾を込めなおす。


「ところでいいのか? 俺は敵兵に襲われたら躊躇なく撃つぞ? 今日、俺以外の誰が死んだところで『奇蹟』とやらにはならないんだろう?」


「大丈夫。さっきも言ったが今日、他の人間が死ぬことはない。お前以外は死という星から縁遠いところにいる。だから気にせず敵兵に向かっても銃を撃て。それでも牽制くらいにはなるはずじゃ」


「こちらは死ぬ可能性があって相手は絶対死なない。戦争としては馬鹿馬鹿しいくらい不利な状況だな」


「じゃろう? だから今日はこのままここで――」


「くどい。俺はいくぞ、付いてくるなら勝手にしろ」



☆☆☆



 ぐしゃっ、ぐしゃっ、ぐしゃっ。

 小雨でも降ったのか、足元は昼と比べてさらに泥にまみれになっていた。雲の隙間から仄かに輝く満月が、廃墟となった街を照らしている。街の中は、ところどころ明るい。道に焚火が焚かれているのだ、朱色に建物が揺らめいているところが幾つかある。それは敵部隊の駐留を意味していた。



「明かりは大きく迂回していく」


「見たところ二、三部隊は駐留してるようじゃないか。見つかったらお陀仏じゃの」


「敵さんもまさか伝令兵が一人こんな場所を行軍してるとは思うまいさ、大丈夫大丈夫」


「思いの他お気楽じゃな貴様」


「そうか?」



 ぐしゃっ、ぐしゃっ、ぐしゃっ。

 怯まぬ歩みで建物の脇から脇を縫うように進む。堂々としたものだ。

「普通もう少し小さくなるものじゃ。おおよそ身を隠すべき者の態度でないじゃろ」

「急がなくちゃいけない身でもあるからな」

 ライフルを構えたまま前方の闇を凝視しつつ、ヘンリーはにべもなく答える。



「わかったわかった、ちょっと止まれ! こっちの気が気じゃない!」



 後ろからヘンリーの肩を掴み、無理やり行軍をやめさせる幼女天使。


「なんなんだいったい」


「祝福……!」



 幼女天使は呟くと、振り向いたヘンリーの額に指先をトンと置いた。



「わっ」


「これでよし」



 息を吐き、幼女天使が背中の羽根を使って大きく羽ばたいた。



「今、わしの視界と貴様の視界を連動させた。どうじゃ? わしが空にいると俯瞰した情景も脳の中に流れてくるじゃろう?」


「情景どころか言葉も頭に流れてくるんだが」


「隠密行動なら意志だけで言葉のやりとりをできた方が便利じゃろうと思うてな。ついでに回線を開いた。それよりも空からの視界に注目してみい」



 促され、空に羽ばたいた幼女天使の視界に意識を傾ける。

 俯瞰してみた街には、大通りの三ヶ所に火が焚かれていた。傍に何人かの敵兵が居るのまで見える。そのうちの一人が焚火で湯を沸かしていた。どうやらコーヒーを作ってるところらしい。



「よし、良い認知力じゃな。あの敵兵の手元を見ておるがいい」



 なんだ? とヘンリーが注目していると、遠くに見える兵士の手がブルブルと震え出した。カップからコーヒーがどんどん零れる。どうやら兵士の意図ではないようで、兵士は

慌てて自分の手を抑えようとしているようだった。



「見ておれよ?」



 見ている間に、その兵士は隣の兵士の背中にコーヒーをぶっかけた。熱かったらしく慌てている。コーヒーを引っかけた兵士も慌てて謝罪したぽいが、どうやら喧嘩になった。



「ふはは。これで少しの間はあそこを気にする必要がなくなったじゃろ」


「おまえのチカラなのか?」


「うむ。ただし貴様のチカラでもある」



 どういうことかと説明を求めるヘンリーに、幼女天使は言った。



「我々のチカラはもはや多くの人類に対して伝わらない。それは貴様ら人間が真の信仰を忘れて久しいからだ」


「さっきもそんなことを言っていたな」


「だが貴様は我々を認識できる。認識されるモノは世界に影響力を持つことができる。そこで貴様に認識された我々は、貴様の認識を借りてチカラを発揮することができるのじゃ」


「わかりにくい。つまり?」


「リンクした貴様が見聞きしている範囲でなら、わしらはチカラを行使することができる」


「なるほど。俺を介してなら不思議なチカラを発揮できる、というわけだ」


「そういうことじゃな」



 幼女天使はニヤリと笑った。



「こんなこともできるぞ。おい、今度は自分の視界に集中してみい」



 これもまた促されるままに、意識を自分の前方に向ける。



「お?」



 ヘンリーの視界がなんとも明るくクリアになっていく。昼間とは色味こそ違う緑の単色だが、前方になにがあるのかはっきりと見えるのだ。



「ナイトビジョンとでもいうのかの。少しは見やすかろ?」


「悪くない」



 視界を得たヘンリーは先ほどよりも大胆に歩みを進め始めた。

 ぐしゃっ、ぐしゃっ、ぐしゃっ。

 という足音が、

 ぐっしゃ、ぐっしゃ、ぐっしゃ。

 と変化する。小走りなのだった。



「だからその隠れる気のない移動はどうにかせいと」



 幼女天使が上で両腕を組んで嘆息しているのを感じながら、ヘンリーはクスクス笑い出した。



「なにがおかしい?」



 問い掛ける幼女天使に、ヘンリーは少し歩みを遅めると頭を掻いてみせた。



「……昔、妹に似たようなことを言われた気がする。お兄ちゃんには隠れる気がないって」


「なんの話じゃ」


「小さい頃の、かくれんぼの話」


「隠れてやれよ! そういう遊びじゃろ!」


「俺が真面目に隠れてしまうと、妹たちは誰も見つけられないんだ。塩梅が難しくて」


「不器用じゃの!」


「不器用なんだ。だから急ぐときには急ぐしかできない、加減がわからないんだ」


「そんなでは死んだ妹御も心配であろうな」


「……妹が死んでることを知ってるのか」


「そりゃあ、今日の重要人物の生い立ちくらい多少は調べるわい。ヘンリー・ノックス二十四歳。ユーミリア生まれ恋人なし。一年前、心の支えだった妹が死に傷心のままに前線へ。今貴様の心の中は虚無で一杯、なにもない」



 幼女天使の辛辣な言葉に、だがヘンリーは何も答えなかった。



「これだけ言われて怒りすら覚えぬか」


「……当たってることだからな」


「心が死んでる者であろうと生者は生者じゃ。今日の奇蹟を成す為にもわしらは『死んでも』貴様を守る」


「……」


「無論、わしらの都合でじゃがな」



 森の上を飛んでいる幼女天使の声は、どこか自嘲を帯びている。

 ヘンリーはそれでもなにも答えない。確かに自分の中には何もないのだ、それは自分でもわかっている。命令に忠実たろうというのも、自分の中になにも残っていないからだった。任務のことを考えている間だけは、空っぽの自分を埋めることができる。

 ぐっしゃ、ぐっしゃ、ぐっしゃ。

 ヘンリーはただ無言で、小走りに街を進んでいったのだった。



「前方に敵兵が居る」



 ナイトビジョンによりヘンリーは、遠い距離から敵兵を発見した。大通りの先に銃を持った敵兵が二人、見張りをしている。



「わしの視界から状況を見降ろせるか? いったん左の路地に入り込め。迂回するがいい」



 ヘンリーは上空にいる幼女天使の視界を借りて、上から道を確認した。確かに左へいけば安全に抜けられそうだ。



「便利なもんだなこれは」


「わしを連れてきてよかったじゃろう?」


「ふん、妙なことに巻き込んでくれたんだ。これくらい役に立って貰えないと」



 ヘンリーが左路地に入ろうとしたそのとき、彼の真横で道端のバケツが突然転がった。夜陰に大きな音が響く。見ればいつの間にそこにいたのか、コウモリ羽の小さな悪魔がバケツを押し倒していた。



「なっ!」



 ガンガラ、ガラガラン! 音が響く。小悪魔はバケツを蹴りながら物陰に隠れていった。

 大通りの向こうから大きな声が響いてくる。敵国語、緊張した声だ。



「ばっかやろう……!」



 慌てて左路地に入っていくヘンリー。泥だらけの道を踏みしめて走った。

 通りでは騒がしさが増していく。時折混ざる怒鳴り声を振り切るように、ヘンリーは暗がりへ暗がりへと進んでいった。



「どうしたのじゃ!?」


「小悪魔が音を立てて俺の存在を敵兵に知らせやがった! 上からナビを頼む!」


「後方! 大通りから路地に二人入ってきた! 前方は……、いかんな敵兵が一人回り込もうとしてる」


「一人なら、なんとか!」



 ヘンリーは短銃を抜いて走りながら構える。敵兵が路地先に顔を出した瞬間に、その胸に向けて銃を撃つ。

 パンパン! 乾いた炸裂音が木霊した。ヘンリーの撃った弾が飛んでいく。敵兵の胸に当たるかと思ったそのとき。

 路地壁から倒れてきた朽ちた鉄パイプが、その弾道上に止まった。

 ギィン! と弾と鉄パイプが当たり、火花を散らす。敵兵の胸に当たるはずだった弾は、見事に逸れた。

 その光景をナイトビジョンで確認したヘンリーが絶句する。



「言ったじゃろう? 今日貴様以外の人間は殺されることはないと」



 上から観測していたのであろう、幼女天使の声は窘めるような響きを有していた。



「くそっ!」



 ヘンリーは驚き顔の敵兵に向かって走り込む。鉄パイプをもぎ取り、ヘルメットを被った敵兵の頭めがけて振り下ろす。が。

 足を滑らせた。

 手元が狂い、鉄パイプは敵兵の肩に当たる。声を上げた敵兵が悶えながら距離を取った。



「死に至る可能性のある攻撃はせぬ方が無難じゃのう。『強運』で避けられてしまうぞい」


「みたいだな!」



 腰から抜きかけたナイフをしまい込み、ヘンリーは敵兵の横を走り抜けることに専念した。まともに戦うのは不利と悟ったのだ。

 横を抜けられた敵兵は声を上げた。ヘンリーは舌打ちする、背後から他の敵兵が走ってくる気配があったのだ。



「ナビを!」


「通りを突っ切って、また路地にいくのじゃ!」



 後方からすぐに銃を撃たれることがなかったのは、敵兵が鉄パイプで肩を壊したからだった。それでも遅れてきた敵兵がヘンリーの姿を視認したらしく、銃声が闇夜に木霊し始めた。



「次の角を右に!」「そこはまっすぐ!」「左、二本目の路地に走り込め!」



 結局、幼女天使のナビを活用したヘンリーは、どうにか街から逃げ出すことに成功した。

街を出ても少しの間追われたが、そのまま道沿いに川へとたどり着き、壊れかけた石橋を渡って森の中に逃げ込む頃には敵兵の追撃もなくなっていた。



☆☆☆



 森の中は、木々で出来た昏い昏い迷路となっていた。

 どこかで、ほー、ほー、とフクロウが鳴いている。

 落ち着いてきたのか、ヘンリーもいつしか歩きに戻っていた。



「どうだ? 敵兵は追ってきてるか?」


「その気配はないのぅ」


「ふう、ひと心地だな」



 森の中を歩く。時折空が見え、月の光が地面へと降りてきた。ヘンリーは森の奥へと進んでいった。



「この森を抜けないと、刻限に間に合わない」


「この森、割と深いぞ?」


「仕方がないだろ、このまま東へと向かって一直線だ」



 言いながら、ヘンリーは幼女天使の視界を借りる。森の上の空から東を見渡して、進路を大雑把に確認したのだ。

 幼女天使が降りてきた。



「どうした?」



 ヘンリーが訊ねた。



「木が邪魔で、飛んでると貴様を守れん」


「そうか、それでも飛んでてくれて構わないのだがな」


「森の木ばかりで視界も得にくい」


「それでも、さ」


「なぜ? 無駄じゃろう」


「空から森の木々を見下ろすのは、とても気持ちが良かった」


「ははっ、この状況下でそんな叙情的なだけの言葉を吐き出すとは思わなんだ」


「……妹が、綺麗な景色ってものを好きだったんでな。約束したんだよ、そういうのをたくさん見て歩く、って」


「ほーう。確かに空から大地を見下ろす景色などは人間からしたら絶景かもしれんのう」


「ああ。おまえが視界をリンクしてくれたお陰で、珍しいものを見ることができたよ。感謝する。こいつに見せてやれなかったのは残念だが」



 ヘンリーはごそごそとポケットを漁ると、「メイキャップ・モンス」の小さな怪獣人形を手にした。



「なんじゃそれは」


「知らないのか? 子供に人気のメイキャップ・モンス。うちの妹が大好きだったんだ。俺は妹の代わりにこいつを絶景の場に置いていくことにしていてね」



「なるほど。それが貴様を支えている祈りというわけか」


「そんな大層なものじゃない」



 目を合わせられて、慌てたように視線を逸らすヘンリー。

 幼女天使は手を前に出した。



「ちょっとそれ貸してみい」


「え?」


「いいから」



 幼女天使はヘンリーの手からもぎ取るように怪獣人形を奪うと、手のひらに乗せて翼を羽ばたかせた。木々がつくる夜の闇を切り抜け、森の高い木の上まで上昇する。満月が森の木々を照らしていた。



「ここでよいか? 見えてるじゃろうヘンリー?」



 ヘンリーがリンクしている幼女天使の視界で、メイキャップ・モンスが高い木のてっぺんにくくられる。怪獣人形は月を見上げるようにして、森の一番高いところに陣取った。



「ああ。いい景色だ。森の一番高いところから月を見上げるなんて、贅沢な話だな」


「……ヘンリー」


「なんだ?」


「祈りは大切だ、祈りが世界を変えていく。己の在り方もまた同じに変わる」


「……」


「妹御への気持ち、大切にするんじゃぞ」



 月が青い。

 降り注ぐ光が森の木々を照らしている。

 メイキャップ・モンスはこの森を征服した。



「ありがとうよ、えっと……」


「セラフィエル、わしの名じゃ」


「そうか。セラフィエル、良い名前だな、ありがとう」




 その後二人は月明りさえ届かぬ鬱蒼とした森の中を、ライフル銃を構えながら歩いていた。



「気づいておるか?」



 と幼女天使が小さく呟いたのは、歩き始めて十分も経ったころの話だ。



「たぶん」


「ならばいい。ここは闇の勢力が強いようじゃな、見つかっておるぞ」


「首筋辺りがチリチリする」


「感覚が鋭いのは良いことじゃ!」



 二人は散開した。

 半瞬前に二人がいたところに向かって、光弾がまとまって襲い掛かる。悪魔たちの攻撃だった。



「行けヘンリー! 先に行け! どこか守りに適した場所でも探してこい!」



 ヘンリーを走らせ自分は悪魔たちに向かって振り返る。

 そこに居た悪魔たちはどうやら羽を持ってないらしく、皆地上を歩いてきていた。ずんぐりむっくりの、走るにも適さない異形。その代わりに火力密度が高いらしく、光弾が留まることを知らない。



「タンクタイプばかりとはバランスの悪い!」



 幼女天使はライフルを構えて射撃する。対魔洗礼済みの七ミリ弾を惜しみなく使い、一発一倒でずんぐりした塊を弾いていく。

 ヘンリーが射程外に逃れたのか、あちらに集中していた光弾が幼女天使の方へと向く。幼女天使は地から足を離して飛び立った。小さなシールドを張りながら光弾を躱しつつ、下がっていく。



「やつら数は多いが移動が遅い。貴様が走れば逃げ切れる速度だろう、これなら相手をしない方がよさそうじゃ」



 互いの頭に繋がった回線を頼りに、幼女天使は状況を告げた。



「残念だがそうもいかんらしい、前方にも多数の悪魔を視認だ。既に半包囲状態、数が多いってのが問題そうだな」


「ちっ、物量できたか。包囲される前に迂回するのじゃっ!」


「それだと昼みたいにルートをコントロールされてしまう可能性がある。正面を突っ切る!」



 ターン、ターン! と暗い森の中から銃声が聞こえた。幼女天使は苦虫を噛み潰したような顔で音のした方向を見る。



「たわけが無茶なことを!」




 ヘンリーは時計を見ていた。

 ここから変な迂回のさせられ方をしたら夜半前に伝令書を届けられまい。

 別に望んで無茶をしたいわけじゃあないぞ、と心の中で舌打ちしながらライフルを構える。

 装填されている弾は、幼女天使から受け取った対魔弾。これで正面の一角を潰せれば、木々に沿って抜けられる算段が立つ。

 いったん歩みを止め、中腰になった。幼女天使の視界サポートのおかげで、視野は良好だ。まだ先の先にいる悪魔の姿も視認できる。

 ターン! と一発。ヒット。次弾装填、構え、撃つ。

 ターン! ともう一発。今度は外れ。

 あてずっぽうな光弾が前方からばら撒かれてくる。あちらの有効射程には程遠いらしく、当たる気配がない。木の陰から木の陰へ渡るように前進しつつ、天使謹製シェルポーチから浄化弾を摘まみ上げてライフルへ弾を込める。

 ターン! ターン! と。

 幾度めかの炸裂音を闇に響かせる。命中率は50%弱、次第に悪魔の光弾も精度が上がってきた。木の陰から顔を出した瞬間、――ブォン! と耳元を光弾が掠っていく。



「くおっ!」



 思わず声を上げて身を強張らせてしまうヘンリー。そこに幼女天使の怒声が届いた。



「今のは『ヒット』じゃ! わしが援軍を呼ぶのが一秒遅かったら命中しておった!」


「え、援軍!?」


「おるじゃろう、貴様の背後に」



 見れば、キラキラと光る白い輝きが自分の背後に舞っていた。



「そいつが弾道を逸らしてくれたんじゃ」


「おまえさんが……」



 白く輝く援軍に、ヘンリーは礼を述べた。



「今、わしをアンテナにして応援をかき集めておる。今少しそこの木陰に身を隠しておれ!」


「わ、わかった」



 ヘンリーが木に背を預けている横で、ブォン、ブォン、と、耳元に蚊でも居るかのような音を立てて、光弾が流れていった。

 ふう、とひと息ついていると。白い輝きが一つ、また一つと増えていく。



「そやつらは貴様の認識を借りて初めてチカラを発揮できる程度の小天使じゃ。それでも一匹で最低一発は光弾を逸らしてくれよう」



「助かる、それなら安心だな」


「敵に回している悪魔どもの数に比べたら微々たる戦力じゃぞ。楽観視するでないわ」


「はは、また妹のようなことを言ってるぞ。妹も心配性でな、年頃になってきた妹によく言われたもんだよ。お兄ちゃんは楽観的すぎるって」


「妹御の苦労がしのばれるわ。こんな迂闊者の心配をせねばならなかったのだから」


「おまえ、喋ってると不思議と妹と似たところがあるな」


「妹御は、どのような見た目じゃった?」


「くせのあるプラチナブロンドにグリーンアイズ。まあ、おまえに似てるかもな」


「ならば美人でカワユかったろう!」


「そうだな、かわいくて美人だった」


「妹御だって貴様を応援してるに違いない、こんなとこで死んでいる場合ではないのぅ」


「ああ。その通りだ」


「なあヘンリー、貴様が任務を生きる支えにしておるのはわかる。だが思い出せ、貴様が死ねば妹御との約束も、そこで終わってしまうのだと。祈れ。妹御の為に、そして自分の為に。世界を変えるのだ」


「世界を……」


「そうじゃ、自分の世界を」



 ヘンリーはフフと笑った。ずいぶん照れ臭いことを言われているようだ、尻がムズムズして座りが悪い。しかしどうしたことか、悪い気持ちはしなかった。緩む頬肉が自然に笑いを形作る。

 そうこうしているとヘンリーが背中を預ける木に光弾が当たるようになってきた。

 一度移動するべきかもしれない。その旨を幼女天使に告げ、木の後ろからこっそり敵の動きを伺ったヘンリーは、ギョッと身体を強張らせた。



「……しくじった。敵の種類が増えてる」


「なんじゃと!?」


「さっき見かけてた空を飛ぶ奴らも敵さんの仲間入りだ。あちらから近接される前に移動射撃を試みる」


「おっ、おい待つのじゃ!」


「距離的余裕がない、サポート頼むセラフィエル。ゴーッ!」



 ターン! ターン!

 ライフルを撃ちながら、左斜めに進行していくヘンリー。そっちはタンクタイプの数が一番少ない方向だった。

 ヘンリーに向かって一気に光弾が注がれるが、だいたいは小天使たちの『加護』によって逸らされた。



「気を付けろヘンリー! 小天使たちが逸らせる光弾は、あくまで貴様の視界にあるものだけだ! 視界を通して世界に影響を与えていることを忘れるな!」


「それはさっき聞いた……!」



 ヘンリーは敵から目を逸らさず、目の端で次の移動場所になる木をうまく捉えていた。



「次は、あそこまで!」



 木の裏で少し息を整えて、すぐにまた走る。

 三本目の木に移動したときだ、羽根を持った小悪魔たちが空中から近接してきた。如何にも悪魔然とした小さな槍を両手で持ち、ヘンリーの身体をツツきにくる。ナイフを腰から抜き、槍を弾くヘンリー。転がりながら次の木まで移動を始めた。



「うあっ!」



 一瞬視界に入れ損ねた光弾が、ヘンリーの肩を掠る。ビシャリと飛んだ血が近くの草を赤く染めた。



「意識を保てよヘンリー! 意識が切れるとわしとのリンクも切れる! そうしたら終わりじゃ!」


「へっちゃらへっちゃらっ! んぐっ!」



 今度は小槍で腿を突かれた。突いた隙を見逃さず、ヘンリーがナイフで小悪魔本体を屠る。青い血が吹き上がった。その光景に気圧されたのか、他の小悪魔たちは一瞬下がる。光弾を小天使に弾いて貰いながら、木の裏にどうやらまた身を隠せた。

 一匹、また一匹と小天使が増えてくる。

 しかし羽根付きの小悪魔も、数が揃う度に四、五匹程度で波状攻撃をしてくる。

 ヘンリーの手足に小さな傷が増えていく。

 はあ、はあ、とヘンリーの息が荒くなっていく。

 光弾を視界に収めて弾いていると、近づいてきた一匹の小悪魔がヘンリーの顔に向かって口内の血を吐きつけた。ヘンリーの視界が消された。ヘンリーの周囲を回っていた小天使たちの動きが、途端無軌道なものへと変わっていく。



「あぐっ! ぐあっ! ぐぐぅっ!」



 小天使の間を擦り抜けてきた光弾が、腕に、足にヒットする。脇腹を小悪魔が小槍で刺した。



「この野郎がっ!」



 目が利かぬままに脇腹の小悪魔を手で掴み、放り投げた。そのまま力尽きたように、地面へと倒れ込む。



「この野郎が……! 糞っ!」



 ふーっ、ふーっ、と短い息を繰り返しながら、ヘンリーは顔を歪ませた。



「こんなところで……死ねるか」



 大量の光弾が、倒れたままのヘンリーに向かってきていた。

 しかし視界を失ったヘンリーになす術はなかった。小天使たちも、ヘンリーの認識なくてはチカラを発揮できない。今まさに、光弾がヘンリーの身体を吹き飛ばさんとした、そのとき。



「死なせぬわあっ!」



 急降下してきた幼女天使が、ヘンリーの身体を弾き飛ばした。



「うがああああーーっ!」



 と。

 幼女天使が叫びを上げた。ヘンリーを突き飛ばし、代わりに光弾を全身に受けたのだった。



「セラフィエルッ!」



 転んだまま事態を飲み込んだヘンリーが、周囲をまさぐる。そして血にまみれた幼女天使の手を取った。



「なぜっ!」



 幼女天使の身体を抱えて支えるヘンリー。



「言ったであろう、わしらが『死んでも』貴様を守る、と」


「ばかなっ! 奇蹟がそんなに大事かっ!?」


「大事じゃなぁ、大事じゃ。今宵は歴史の分水嶺、わしら天使は身を呈してでも貴様を守る」


「そんなっ、そんな……っ! 俺なんかのために、誰かが死ぬなんて! そんな必要はないのにっ!」


「そう涙を流すな。貴様の涙ではその目を治すことにもならぬ」



 そういうと幼女天使は自分の目から涙を指で掬い、ヘンリーの目に塗った。



「天使の涙は万能薬。これで、貴様の視界も……」



 ヘンリーの目が開いた。



「セラフィエル、俺はおまえを殺させない!」



 幼女天使を抱えたまま立ち上がり、周囲を見て、



「頼むリーナ! 俺にチカラを貸してくれ!」



 叫んだ。声を上げた。暗い森の中に差し込んでくる月の光が、ヘンリーを照らしていた。

 それは祈りだった。

 ヘンリーは初めて妹に祈った。おまえに似たこの天使を守るため、チカラを貸してくれ、と祈った。



「ああああああああーっ!」



 祈り、語り掛ける。

 それはヘンリーの集中を呼んだ。その集中が、向かってきている光弾の弾道をヘンリーに一瞬で見切らせた。

 彼の視界の中では今、全てのものがスローモーションに見えていた。

 新たに迫ってきている光弾が五つ。接近してくる小悪魔たちが4匹。

 視界を介した認識から小天使たちのチカラが世界に作用し、加護がなった。全ての光弾は、弾かれるだけでなくそれぞれが神懸かり的な計算角度で、接近してくる小悪魔たちへと跳ね返されていく。それは奇蹟といってよい現象だった。



「な」



 幼女天使はヘンリーに抱えられたまま、思わず声を上げた。



「なんじゃ、と……!?」


「あああああああああーっ!」



 ヘンリーの叫びが森に響き渡る。悪魔が撃った光弾という光弾が、全て弾かれていく。弾かれて、近くの小悪魔を蹴散らす光弾があれば、光弾を撃ちだした当の悪魔への返し矢になっていくものもある。



「そこに……至りおったか」



 幼女天使は目を丸くしたまま、その光景を眺めていた。



「そうじゃヘンリー。貴様は我々を認識することができる。それは世界の根源を認識できるに等しい。根源は神にも等しい世界の中心、全てを見通し全てに介入できる枠外の座。貴様自身がまた奇蹟の生み手なのだ」



 倒す。倒す。弾かれた光弾が悪魔という悪魔を倒していく。



「なればわしも、チカラの門を開けよう。ここで一気に決めるために」



 幼女天使は口の端を笑みで歪ませながらヘンリーを凝視した。

 白い羽を羽ばたかせ、血を流しながらヘンリーの腕の中から飛び上がる。



「セラフィエルッ!」


「ヘンリー、わしの視界で世界を見よ!」



 ヘンリーの制止を聞かずに幼女天使は高度を上げた。高く高く、空の果て。満月に被さるくらいの高高度で、幼女天使は下界を見つめる。

 木々の隙間の奥に、敵が見える。悪魔の姿が頭の中に浮かび上がってくる。



「サーチ、ターゲット。ロック・ゼム・オール」



 幼女天使の視界で、敵性物体が全て赤く視認された。森の中に無数に広がる赤い帯、それは全て悪魔たち。超集中状態にあるヘンリーの視覚、聴覚、触覚、嗅覚、幼女天使は彼の認識をフル活用して超視界を得ていたのだった。



「デストロイ」



 呟きが、光を奔らせる。

 月から光の矢が降り注ぐのを、木の上でメイキャップモンスは見ていた。

 それは一つの漏れもなく、ヘンリーの敵性物体を貫いていく。

 悪魔は全てこの場から消えたのであった。



☆☆☆



 フラフラと、ヘンリーは月夜の荒野を歩いている。

 ダーン、タターン! ダダダダダ! これらは銃声だった。森での戦いにおける炸裂音に呼び込まれた敵兵が、ヘンリーを撃っているのだ。

 だがその弾のことごとくが、ヘンリーに当たらない。

 凄腕なスナイパーの弾さえも当たらない。

 全てが逸れる。小天使たちの加護が、そうさせる。ヘンリーの集中がそうさせる。

 敵軍は恐れ慄いた。一夜の悪い夢だと及び腰になった。

 ざわざわと恐れ慄き、銃を手放すものがいた。前線から逃げ出そうとするものまでいた。

 やがて銃声は収まっていき、ヘンリーを攻撃する者はいなくなった。



「静かになった」



 ヘンリーが幼女天使に向かって言った。



「これも一つの奇蹟かい?」


「そうじゃの。戦争の中に静かな平和が生まれた。奇蹟には違いあるまいよ」



 幼女天使は彼方から地上を見下ろしながら言った。

 ヘンリーの前にいる敵軍が、モーゼに割られた海のように道を開けていく。



「貴様は事象に愛されておるのぅ」


「おまえはどうなんだ?」


「ん?」


「俺の妹は俺のことを愛してくれていた。妹に似たおまえも、俺のことを愛していてくれたら嬉しい」


「ふむ」



 と幼女天使は腕を組んだ。



「なんじゃろうな、ひと仕事をやり通したからかの。今は愛おしい」


「はは」



 ヘンリーは笑った。



「ははは」



 幼女天使も笑った。

 月が煌々と光を注ぐ荒野を一人笑顔、ヘンリーは敵軍に見守られながら去っていった。



☆☆☆



 こうしてヘンリーは伝令としての仕事を果たした。

 夜半前、目的の部隊と合流できたヘンリーは突撃中止の命令書を部隊長に渡すことが出来たのだ。

 ヘンリーは死ななかった。

 この日、ほとんどの人間は知らなかったが有史より初の快挙がなされたことになる。殺人による死がゼロだったのだ。そして、それと知りながら快挙を成したヘンリーは神の寵愛を受けた『特別な人間』となったのである。

 命令書を部隊長に預けた途端、ヘンリーは倒れ込むように眠りについたのだった。そして二日間、彼が目覚めることはなかった。




「悪魔と天使は死んでもカウントされないんだ?」



 病院の個室。起きたヘンリーが開口一番、幼女天使に訊ねた。



「我々は生きてもおらんし死んでもおらん。人と違い、消えても時が経てばまたどこかに生じるだけの存在じゃよ」


「ふぅん」



 ヘンリーはベッドで横になりながら頭を掻く。



「まああれだ、おかげで伝令の任もこなすことができた。前線部隊も誤突撃で無駄な戦死者を出さずに済んだ。ありがとう、感謝する」


「礼には及ばん。それにな、一時的な戦死者は確かに減ったが、貴様の伝令成功によりこの後世界は滅亡に向かい始めるレベルで死者が出ることになったのだ。そう喜ぶものでもないぞ?」


「え?」


「貴様の命令書が届き、命が助かる者が居る。その中の一人が人類を根絶やしにする兵器を開発するキーマンの命を助けることとなるのじゃ」


「な、なんの話だ!」



 ヘンリーの声が大きくなる。



「運命の連鎖の話じゃよ」


「そこじゃない、人類を根絶やしにする兵器って……」


「言葉のままじゃ。だからわしは言っておったじゃろう、命令の遂行を諦めた方が主らのためじゃぞ、と。わしは神さまと違ってそこそこ人間に愛着があったからの、言える範囲で忠告はした」



 幼女天使は意地悪な顔で、にんまりと笑う。



「根源に接続した貴様なら、ビジョンを拾えるのではないか?」



 そう言われた瞬間、ヘンリーの頭にいくつかのビジョンがパパパと駆け巡った。

 大きなキノコのような雲を伴った大爆発。

 燃え盛る大地に蠢く死者。

 自然に飲まれた廃墟のような街並み。見渡す限りに人の姿がない街。



「な、なんだ今の……!?」


「未来の世界」


「う、嘘だ! 俺の伝令でそんなことになるなら、なんで悪魔たちが俺を襲ってきたんだよ!」


「というと?」


「世界の破滅なんて、さも悪魔が喜びそうな話じゃあないか! 俺の妨害なんてしないはずだ!」


「馬鹿じゃのう。悪魔ほど人間が好きな奴らはおらん、奴らは人間がいなければ存在も出来ぬのだからな。しょせん奴らがすることは『嫌がらせ』程度、ギリギリの場面では、奴らは人間たちの味方じゃ」



 肩を竦める幼女天使。



「だが神は違う、創造主なのだから。創造した種族が自分らの手を離れてしまい自由が利かなくなってしまうくらいならと、いったんのリセットを目論んだ。長い時間を掛けて流れを作ったのじゃ。見てみよ!」



 幼女天使は窓の外を仰いでみせた。



「あの、慌てふためく悪魔どもの姿を!」



 見れば天空では、悪魔たちがギーギーと騒ぎながら右往左往している。もうヘンリーのことなど見てもいない、雌雄は決してしまったのだ。



「じゃあ今からでも、そのキーマンて奴をどうにかしてしまえば……!」


「言ったじゃろう? 信心深い人間以外で、我らがどうこう影響を与えられるのは、貴様みたいに『見える』者だけ。我々が人の歴史に介入できるチャンスは貴様が思ってる以上に少ないのよ」


「そ、そんな……」


「昨日は貴様ら人類にとって知られざる歴史の分水嶺であった。どうじゃ? 世界の滅亡に手を貸した気分は?」



 カラカラカラ、と幼女天使は笑った。



「お、俺は別にそんなつもりじゃあ……」


「そうそう貴様にはなーんの責任もない。たまたま上官から命令を受けてそれを立派に遂行したまで。貴様は信頼をされ、貴様自身の人生は順風満帆になるはずじゃよ。今回成立させた『奇蹟』の恩恵を受けてな。うらやましいのぅ、ふはは」


「なぜ言ってくれなかった!」


「一応天使じゃからのぅ。禁則事項というやつじゃ、言えなかったのよ。あのとき言えば存在を抹消されてしまっただろうからの」


「この悪魔め!」



 落ち込むヘンリーを、にんまり笑いで幼女天使が見つめる。



「なあ貴様、家族を救いたいか?」


「……」


「貴様の子孫の未来を作りたいか?」


「……なんだと?」


「貴様がやる気ならば、わしは貴様に未来への可能性を与えることができる。どうじゃ、乗るか?」


「糞! そんなの乗るしかないじゃないか! くそうっ!」


「わしはな、さっきも言った通り人間が嫌いではない。貴様がわしにチカラを貸してくれるならば、道を示そう」


「チカラを貸すって、俺がおまえに!? なんの!」


「貴様はその目を以って根源へ接続した。言っただろう? それは神にも等しいチカラの中心なのじゃ。貴様は意図的に『歴史の分かれ目』に介入できる存在となった。さらに今回の奇蹟を経て、神の恩寵を得た。得た物は返さなくていい、事象に愛され恩寵を受けた根源への接続者、神の計算を超えることができるとしたら、そこに賭けるしかない。貴様は悪魔たちと手を組むのじゃ!」


「悪魔と、手を……だって!?」


「そう! そして天使を倒してフラグを崩し、最終的には神の計算を狂わせる!」



 ヘンリーは俯いて、自分の手を見ていた。



「……妹は、もっともっとこの世界を見たいと言って死んでいった。そんな妹に俺は誓った、妹の分まで世界を見て回る、と」


「それは、この世界があってこその話じゃのう」



 幼女天使は目を細めてヘンリーの横に立つと、囁くように言った。



「妹御が好きだったこの世界を守れるのは、貴様だけじゃ」


「おまえはやっぱり妹とは似てない。妹は、俺を利用しようとなんかしない」


「だが、わしは貴様が好きじゃぞ? 世界も好きじゃし、人間もまあまあ好きじゃ!」



 カカカ、と笑う幼女天使を、ヘンリーはジロリと睨んだ。



「いいだろうやってやる! 全てがおまえの計算でも構わない、口車にも乗ってやるさ!」


「よう言うた! ならばわしも堕天しよう! 第一天使セラフィエル、これより神に反逆する!」



 この日、世界の命運を握るコンビがひっそりと結成された。

 悪魔のチカラを使い事象を改変していく男と、それを見届ける堕天使。

 神に見捨てられた世界の片隅で、未来を得るための戦いが始まる。

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天使と悪魔と戦場と ちくでん @chickden

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