4,夢違え

 桜並木も若葉をつけ始め、爽風が園内を吹き抜けた。


 隣を歩く長身の青年は、目の高さにある桜の枝を丁寧に避けながら「いい天気だね、璃子ちゃん」と私に語りかける。その恍惚とした表情を向ける先にはもう見飽きた桜並木――。園内の五〇〇メートルほどの遊歩道に沿って並ぶソメイヨシノは、満開の時期は過ぎたけれど、まだそこに春の風雅を残している。

 晴れた空にご機嫌な、飄々としたこの男――梅若うめわかは、小一時間同じような景色を眺めても、まるで初めて見たかのような新鮮な表情を浮かべている。こいつにはどれだけ風流な心があるんだと、私はその隣でちょっとむくれていた。


 今日は朝起きてから、鏡の前で自分と格闘していた。先日買った新作の春色ワンピを着ていくのは決めていたのに、合わせる靴を持っていないことに気がついて慌てて服を組み直す。瞼に乗せるお気に入りのアイシャドウが見当たらなくて時間を大幅に失う。それが見つかったはいいものの、急いで巻いた髪が戻りかけていてまた直す。――世の中の男性諸君、乙女の朝は秒針との戦争なのだよ。

 そんなことはつゆ知らず、梅若は「今日も璃子ちゃんは可愛いねえ」ともう聞き慣れた一言で済ませて歩き出した。次期ミスキャンパスは確実、なんて謳われる私がどれだけ精一杯お洒落してこようとも、こいつの目には散りかけの桜の方が良く映るらしい。


 大学が違うから会えるのなんてせいぜい月に数回だ。付き合っているわけではない。毎回私の方が無性に会いたくなって誘うだけ。恋愛感情もない……多分。

 高校時代に出会ってからずっと、彼の純朴さと不可解な言動に惹かれていることは事実だけれど。

 そういえば、と梅若は私に向き直った。


「俺一回璃子ちゃんのバイト先行ったよ」


「嘘でしょ」


「本当。でもフロア担当の日じゃ無かったのかな、姿は見えなかった」


 見られてたまるか。私は内心胸を撫で下ろした。バイト先ではナチュラルメイクで髪も一括りにしている。あまり洒落っ気が無い姿を見られても嬉しくないのが乙女心というものだ。


「でもそのときでっかいパフェをオーダーしたんだけど、運ばれてきたやつ見て、絶対璃子ちゃんが作っただろうなって思った。めっちゃ芸術的だったもん」


 梅若が写真も撮ったよ、なんて言いながらスマホでそれを映し出すと、私は少し切ない気持ちになった。


 バイト先はこの近くにある小さなカフェで、私は数週間前から働いている。スタッフさんもみな作業を丁寧に教えてくれる親切な方ばかりだ。今はキッチンでの調理補助とフロアでの接客を両方担当しているけれど、梅若が来たのは多分、バイトを初めて間もないキッチン担当の頃だ。


 私が料理の見た目に丹精込めるようになったのは、ほぼ私が働き始めたのと入れ違えでいなくなった老婦人との、たった数日の交流がきっかけだった。


――相澤さんの盛り付けは本当に美しいわねぇ


 不思議な魅力のある方だった。いつも私の盛り付けた料理を一番に褒めてくれた。彼女と話すと、陽だまりに愛されているような温かい気持ちになれた。

 ――器用な相澤さんに、お願いがあるんだけどいいかしら。

 そう初めて声をかけられた数日後、私はバイト終わりにこっそり呼び出され、一緒にとあるお菓子を作ってくれないかと頼まれた。その老婦人――谷口さんと私は、それから秘密でデザート作りに励んでいた。しかし、一週間も経たないうちに、谷口さんは店を辞めていった。私に、試作段階のフォンダンショコラを残して。

 スタッフのチーフである菅野さんは、私が内緒で谷口さんとこのケーキを作ったことに吃驚していた。聞いたところによると、谷口さんにはこのフォンダンショコラをずっと食べさせたかった相手がいたらしい。彼女がいなくなった今となっては、それが誰なのか確かめる術もないけれど。フォンダンショコラは、菅野さんと相談して、店の新作メニューとして出すことになった。

 いつもきびきびと働く菅野さんは私の憧れの人だ。しかし最近は、記者の方が頻繁に店を訪れるからか、憔悴しきっているように見えた。


 段々、私にも目に見えない疲労感が溜まってきたのを感じる。

 根っからの完璧主義だから、いつも何かしらの成果は上げてきた。でも完全さを作り上げるのは簡単でも、維持するのはその何倍も難しいのだ。このまま私がそういう人間で居続けたら、一度の失敗で誰からも許されなくなるんじゃないか。私の心に堆積し続ける達成と維持の義務感は、近年静かに心を蝕みつつある。


 梅若は何も飾らない。

 飾ることしか知らない私と彼は生きる次元がそもそも違う。

 根本的に、何もかもが。


「梅若ぁ」


 私はその屈託の無い生き物に呼びかける。


「最近見たやつで一番面白かった夢の話して」


 んー、と気の抜けた返事をして、彼は肩に提げたサコッシュから、大学ノートを取り出した。

 

 梅若は私と高校で知り合うずっと前から、夢を見れば必ず覚えてるところまで書き留めているのだという。偶然このノートの存在を知ってしまった私がどうしてそんなことをするのかと聞くと、彼は諦めの混じった、崩れそうな笑顔で答えた。

 

 よく予知夢を見るのだと。


「一昨日のやつは面白かった。俺が牛丼屋で並盛りの定食、定食って言っても味噌汁がついてくるだけだけど……それを食ってたら、目の前にワンガリ・マータイが座ってきて凄い剣幕で俺に説教してるの。言語違うから何言ってるのかわかんなかったけど、何となく俺が定食食ってるのが気にくわないらしいのは伝わった。隣にアリストテレスも居た。日本のサッカーのユニフォーム着て、俺と同じ定食食ってた。そしたら次の日、サッカー日本代表、準決勝で勝ってやがった」


「何よ、その情報量の多い夢は。あと正夢になるのそこなんだ」


「まったく、解読の難しい予知夢はやめてもらいたいね」


 それはそもそも予知夢と言えるのか。その疑問は心にそっと留めておいた。

 ワンガリ・マータイなんて大物を出演させておいて、その意図が全く分からないともやっとするんだよね、しかもピンポイントで牛丼屋。あとユニフォーム着るの、アリストテレスである必要性あったのか? ……それでも梅若は真剣に悩んでいるようだった。


「そういう予知夢って、はっきり当たったことあるの? 」


「何度も見る同じような夢は大体当たる。そういえば、初めて璃子ちゃんにこのノートを拾われる数日前も、何回か夢に出てきてたなあ」


「私が?」


「そう。あの時と全く同じシチュエーションで。『眠りが浅いのね』って」


 私と梅若は懐かしいね、と笑った。強い風が吹き抜けた。




 日が傾いて、琥珀色の光が窓を通して彼の顔に射していた。放課後の、机ばかり並んだ静かな教室。その中で、梅若がすうすうと寝息を立てていた。学校に忘れた課題を取りに戻ってきた私は、彼が枕代わりにしていたのであろう、机の下に落ちていた例のノートを拾って、好奇心から中を読んでしまった。


『二月六日の夢。多分俺は大学四年生。というのも、同じ講義を受けていた女子が「梅ちゃんは卒論どうするの」と聞いてきたからだ。俺は『何もしないよ』と答えた。だってもうすぐ世界は終わるじゃん、と何故か心の中でそう強く思ったのが目覚めた後も残っている。

 世界破滅シリーズの夢は何回も見てきたけれど、今回は嫌に現実味がある。祖父が死んだときのように、正夢にならないといいけど。

 夢違え。夢違え。』


「何、これ」

 私が呟いた直後に、目の前で彼が飛び起きた。私は急いでノートを閉じたけれど、中途半端に私の手に挟まれたノートを見て、梅若は察したらしい。

「ごめん、中身、見たよね」

 寝起きの掠れた彼の声が、妙に切なそうでどきっとしてしまった。

そのとき、色々と脳が混乱していた私は、第一声に謝罪を口にするべきだったのに『梅若君って眠りが浅いのね』と場違いなことを口走ってしまったのである。




「傑作だったなあ」


 梅若は眼鏡の奥の眠そうな眸を楽しそうに細めた。私はもう何度目かの「ごめん、勝手に見て」と「だって内容が衝撃的だったから」を繰り返した。その度にいつも彼は「別に大丈夫だって」と笑う。本当にそのときのことは何とも思ってなさそうではあるけれど。

 梅若が「大丈夫」と言う度にそれが偽りで無いか確かめずにはいられない。実際、私が想像する以上に重い憂鬱を忍ばせているであろう彼は、時折言動に仄暗い翳りを滲ませる。


 風に乗って桜の花びらが一枚、彼の肩口に乗っかるのをぼんやりと見つめた。淡桃色のまどろみの中で、彼の顔がおもむろに近づいた。


 梅若はそのまま私の耳元まで顔を寄せて囁いた。


「俺、良い夢も悪い夢もたくさん見てきたけど、その夢が現実になったことだけは、良かったよ」


 ……もうやめて。

彼の言葉は嬉しいのに、私は上手く笑えなかった。


 世界が終わる夢をよく見ると言う、彼の潜在意識が拾っている微かな終末のサインは何処にあるのだろう。本当に彼の夢が予知夢なら、大学四年の、卒論に着手する頃――あと数ヶ月のうちに、世界は終わるというらしい。それは、何時、どんな風に崩れていくのだろうか。そのことを彼に問いただすといつも「璃子ちゃんは知らなくて良いよ」と躱される。「今週のどこかで最期が来るって教えられたら楽しく生きられないでしょ」と珍しく苛立った様子を見せたこともあった。じゃあ、梅若はどうなのだ。いつも歩み寄る死の影に怯え、自分だけが平穏な日々の終わりを常に感じながら生きる苦痛は。


 ――世界が終わるならそれまでに、私があんたにしてあげられることってなんだろう。


「ねえ、梅若。後で牛丼屋行かない? 」

 

 私は思わず、細い背中に呑気な声をかけていた。

梅若は驚いたような、弾んだような表情で私を振り返った。そこへ私は、「ワンガリ・マータイとアリストテレスの謎を解きに行くのよ」と妙に探偵ぶって付け加える。


 梅若はそれから少し逡巡した様子だったが、不意にはっとして、遠くまで伸びる桜の一本道に眸をこらした。いつも少し丸まった背が凜と伸びていた。

視線の先の、微かな鈴の音でも聞くように、全身の神経を研ぎ澄ませた彼がそこにいた。

 

 可能なら、耳も目も塞いであげたかった。

 でもきっと、梅若はそれを許さない。



 世界に終末が来る、かもしれない。

 それがただの夢であっても、別れや終わりは、いつも自分の預かり知らぬ所で秒を読んでいる。

  

 当たり前に開いていた扉は、どこにでも行けた日常は、いつか消えてしまうかもしれない。


誰にとっても、そうだ。

 


 そのとき、枝の切れ間が一瞬、梅若の元に陽だまりを作った。彼の頭がおもむろに上を向く。

虚ろな視線の先にあるのは、ぞっとするほど美しい、毎年見慣れたはずの春だった。

 

 春光は、彼の、遙か彼方に耽っていた意識を連れ戻してくれたらしい。はっと振り返って私を見た梅若が「ごめん、ぼうっとしちゃった」と笑う。そうして彼はその深い茶の瞳に、子供のようなあどけなさと、純朴さと、儚さを覗かせて、

「璃子ちゃんから食事に誘っていただけるなんて光栄ですなあ」

と道化てみせた。








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

いつかその扉は 中野 茶屋 @saya-nakano_7

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ