私は家のそばまで寄って、しゃがみこんだ。


 するとその拍子ひょうしに、ひざの骨が『ポキッ』って鳴った。で、なぜかそれで、罪悪感ざいあくかんとか、見つかったらどうしようって不安が、きれいさっぱりなくなっちゃった。心が、すごく落ち着いていた。……それでいいのか……私……。


 私は、右手の人さし指の腹のところで、そっと、コンクリに触ってみた。


 …………ちゃんとプルプルだ……、けっこうプルプルしてる……すごいプルプルしてる……、……見た目よりプルプルだ……、……感触かんしょくがいい感じ……ずっと触っていられそう……。触った感想はこんな感じ。


 あヤバい、強く突っつきすぎたっ……! 私はあわてて右手をひいた。


 コンクリのかたちはくずれていなかったけど、突っついていたところには、私の指紋しもんがくっきりと残っていた。……ヤ……ヤバいじゃん……完璧かんぺき証拠しょうこじゃんか……。私はしばらくのあいだ、銅像どうぞうみたいに固まっていた。


 指でなぞって指紋しもんを消しちゃおうかとも思ったけど、ますますひどいことになりそうな気がして、やめておいた。

 それになんだか、ちょっといいかもって思ったから。この家を見るたびに、私の目印めじるしがあるんだって思うのは、ステキかもって。私だけのヒミツって感じで。


 めっちゃかってなことしてるし……、なんか……イヌのマーキングみたいだし……、あれだなーって思うけど……、でもなんだか、この家の人には、自然と元気にあいさつしちゃいそう。ちょっぴりの罪悪感ざいあくかんと、かってな片思いのせいでね。


 まるでおモチを突っついてるみたいな感触かんしょくだったけど、人さし指の先はけっこうべちゃべちゃになっていた。

 それを見て、なにかに似てるなーって思った。そのなにかが思いだせなくて、私は、指先を顔に近づけて、じぃーっと見た。自分でわかった、すごい寄り目になってるって、アホみたいな顔になってるって。でも私はそのまま考えつづけた。


 ……黒ゴマのソフトクリームだ。黒ゴマのソフトクリームだよ。


 じっと見れば見るほど、だんだんとコンクリが、黒ゴマソフトに思えてくる。見えてくる。そう感じちゃう。すごいおいしそう。すごい食べたい、黒ゴマソフトが。さすがにコンクリをパクっとはしなかったけど、私の舌は完全に、黒ゴマソフトの舌になってしまった。


 そうして、私はこう思った。

 ひさしぶりに動物園どうぶつえんに行きたい、って。

 あれなんだよ。よく行く動物園どうぶつえんのとなりに、おいしいアイス屋さんがあるの。それで、動物園どうぶつえんの帰りにはかならずそこに寄って、ママといっしょにアイスを食べる。


 そのお店にはたくさんの種類のアイスがあって、いろいろためしてみた結果、私のなかでは黒ゴマのソフトクリームが最強になった。つまり、黒ゴマソフトは、アイスの王さま。


 最初に『黒ゴマソフトクリーム』って文字を見たときは、黒ゴマってなんやねん、ふざけとんのか? って思ったけど、いまじゃそんなふうには思わない。

 発明はつめいした人は天才だと思う。誰なんだろ、黒ゴマソフトを考えたのは。

 もしその人に会えたら、握手あくしゅしてってお願いするかも、サインとかもおねだりするかも。それくらいのヤバさだよ、黒ゴマソフトのうまさは。


 ちなみにママは、カップに入ったイチゴ味のアイスが最強だって言ってる。確かにイチゴのアイスもおいしいけど、最強は言いすぎだって私は思う。

 コーンがないのもポイント低めで、私はちょっぴりそんした気分になっちゃう。

 なんかまえにいっかい……どっちがおいしいかで、ちょっとケンカっぽいことになったっけ……。でもいまじゃ、それだって楽しかった思い出だな。


 動物園どうぶつえんとアイス屋さんを、すごく身近な場所に感じていたのに、それが、少しのあいだ行かなかっただけで、まるで遠い思い出みたいに変わっちゃっていて、このときの私はけっこうおどろいたっけ。……自分の指をガン見しながらね……。それに、……やっぱり私の記憶力きおくりょくはあんまりみたいだ……とも思った。


 でも、どうなんだろ。あんがいほかのみんなも、そんなもんなのかな? まあでも、こまかいことはいいや。いまはまた思うぞんぶん、いろんな動物を見て、黒ゴマソフトを食べてるんだし。


 持っていたポケットティッシュで指をきれいにして、私はその場に立ちあがった。


 それにしてもあのネコ、どうやってあそこに行ったんだろう……? ……もしかしてあのネコ……ぬいぐるみなんじゃあ……。そう思って私は、視力検査しりょくけんさのときみたいに目に力を入れて、ネコにズームした。


 ネコのお腹は、小さくだけど、ちゃんとふくらんだりしぼんだりしていた。ちゃんとネコだった。なまのネコだった。なまネコだった。


 ネコは突然、ムニャムニャ寝言を言いはじめた。かわいかった。……けっこうムニャムニャ言ってた。めちゃんこかわいかったっ。すんごいムニャムニャ言ってた……! 誘拐ゆうかいしたいくらいかわいかった!

 でも、そういうわけにもいかないから、私は後ろに振りかえって、前に一歩みだした。


 そのとき、後ろからなにか聞こえてきた。


「……いくニャ……、……いくニャ~……、……ニャニャすぎる……」


 私はくるりとターンして、またネコを見た。

「……もしかして、いま、しゃべった……? ……この子バケネコ?」


 私はけっこう長いこと、ファイティングポーズのままネコをじっと見ていたけど、ネコはただ、気持ちよさそうにスースー寝息を立てるだけだった。


 平和でいい感じで、なんにも問題ないはずなんだけど……私はなぜか、ちょっぴりしゅんとしちゃった。

 私は構えをといて、またまた後ろに振りかえり、とぼとぼ歩きだした。


 来たときには気がつかなかったけど、道と家の境目さかいめにはドデカい看板かんばんが立っていて、そこにはなにかいろいろとゴチャゴチャ書かれてあった。解読かいどくしようと思っても、私にはさっぱりだった。

 でも、この家をつくっている会社の名前だけはわかった。


 『たのも建築けんちく』っていうらしい。……なんか変な名前。センスは……ちょっぴりあるかもしんない。ひびきがかわいいし、ひらがななのも親切しんせつでいいと思う。


 ……なんだか『たのも』って、『道場どうじょうやぶり』のかけ声みたいだ。


 空手部からてぶの子がたまに教えてくれるの。「のっかにいいこと教えてあげるよ。『道場どうじょうやぶり』をするときはね? 絶対ぜったいに、『たのもー! たのもぅーー!! 』って言わなきゃいけないんだよ」って。合計ごうけいで五回くらい聞いたような気がする。


 だけど、いま思ったけど、私、『道場どうじょうやぶり』がなんなのか知らない。……なんなんだろ……どっかこわすのかな……道場どうじょうかべとか……。今度その子に聞いてみよ……もし忘れてなかったら。


 それはいいとして、それから私は、一度家に戻った。


 ちょうどお昼だったし、もう私は完全に、チューリップの家を探すのをあきらめていた。

 ……そのうちひょっこり見つかるかもだし……、くしものは探さないほうがかえって見つかる……くらいあるし……、とか考えて敗北感はいぼくかんをごまかしながら、私は坂道を上った。

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