ハートビート

 一日に十二個行われるレースの終盤四つを舞台に繰り広げられる対決、中寉・矢束組と別れてスタンドに腰を下ろし、最初のレースは好きな黒の二号艇が自分の好きな女優と同じ名字だった(しかし写真を見ると苦み走った壮年の男性選手だった)ので「これがいいです」と言ったら、そのレースは二番から五番、一番の順でゴールして、蒔田の舟券は的中した。蒔田が購入した六百円の舟券は五千円を越える配当となって、律は彼からの熱烈なハグと千円札一枚とを貰った。金は要らないし、ハグはもっと要らない。

「蒔田くんは、……あの、暑い、暑いっていうか暑苦しいですうっとうしい、……あの、蒔田くんは」

「お兄ちゃんって呼んでいいよ!」

「呼びませんけど、絶対に。あの、……ああ暑苦しい、……いないんすか、そういう相手、……なんか、パートナーみたいな……」

 やっと律を離して、「いるよ」と平然と返す。嬉しそうにスマートフォンを取り出して、待ち受けの画面に映り、こちらを恨みがましい目で睨んでいるメイド服姿の男……、

「可愛いでしょ、結人」

 所属バンドのギタリストだ。

「俺なんか誘わないで、この人誘えばいいでしょ」

「結人は俺とか了とかとは違って、昼間はちゃんと働いてる人だからねえ。もちろん今日三摩くんとデートするって話はしてあるよ。『あんま純粋な大学生を悪の道に引き込むなよ』って言われた」

 中寉には「マスターさん」がいる。あの長身で顔もいいのに冷たく愛想がない男が、店で中寉が律に「僕が誘っても構いませんね」と言ったとき、そして蒔田が律を誘ったときの計二回、わずかに視線を向けたことを律は覚えている。特定の相手がいる従業員二人が何処に、何のために律と矢束を誘ったのかということを、彼は知っていたのだろう。ひょっとしたら無表情の中に、同情めいたものを見付けることも出来たかも知れない。

「了とマスターはねえ、ラブラブだよー、バカップルと言っても過言じゃない」

 ガラスとプラスティックが?

「パッと見はカップルじゃない。周りに人がいるときは全然喋んないし。でも、それがねえ、見ててニヤニヤしちゃうぐらいにいい感じなの。了は可愛いしマスターはカッコいい、だから絵になるんだよね。そんで、ずーっと見てると『いつまで見てる』『のですか』って声揃えて言うの。キュンキュンするんだよう」

 彼らの在りように関しては、まあ、カップルなんてものは千差万別のバリエーションがあるものだろう。友達の在り方がたくさんあるように。

「三摩くんは、矢束くんと付き合ってないの?」

 昨日言った通りだ。

「友達すよ」

「でも、二人はもうやっちゃったんだよね?」

 無表情で何の反応もしないでいられたなら、誤魔化すことも出来ていたかもしれない。カマを掛けられたことは明白であるのに、律は蒔田の顔を見てしまった。

「わかるよう。了だって判ってるはずだよ。……座ろ」

 階段上に水面を見下ろすスタンドに腰を下ろして、動揺を精一杯隠しているつもりの律がぎこちなく座るまでを蒔田は見て、待っている。

「……でも、友達です」

「セックスフレンドってやつだ」

「……まあ、何でもいいですけど」

「三摩くんもともとノンケでしょ、ああ、答えなくてもいいよそれは判るから。ノンケが男を好きになるのって、ものすっごいエネルギーの要ることだよ。俺も最初はノンケのつもりでいたし、結人だって俺と付き合うまでは男とセックスすること一度も想像したことなかったってさ」

 公共の場で「うんこ」と言うのと「セックス」と言うのと……、どちらがより非常識であろうか。

「俺が判ったのはね、……三摩くんがこの間、最初に『王子様部』の部屋に来たとき」

 あのとき、律は一人だった。そしてただ、自分が「王子様」になりたくて来たのではないこと、友人が「王子様」を探していることを告げただけである。マリアネッラこと蒔田とも、会話はしていないのに。

「俺見て、ノンケだったら『うわー面白いでも嗤うのはいけないぞいけないぞいけないぞ』って、変な顔になる。別に俺は嗤われたっていい気でさ、でも女の子の服着るの楽しいから着てるだけなんだけど、まあそういうの気にする人が増えてるのはいいことだろうけどね。いやそれはいいんだ。三摩くんはさ、俺見て、……審美眼を発揮した。もっと言っちゃえば、値踏みするような目だった。だからすぐ判ったよ。この人には男のパートナーがいて、いま俺を見てるけど、本当に見てるのは俺の着てるメイド服だな……」

 矢束がこういう服を着たらどうなるだろうか。

 ああ、確かに律はあのとき、そう思った。きっと似合うんだろう、でも、本人が着ることに対して踏ん切り付かないんだろうな、なんて。

 律は、大きく嘆息した。このふわふわした女装趣味の男が鋭い洞察眼の持ち主であったという事実を、意外なこととして受け止めてしまう時点で、自分にもうっすらと「こういう男」に対しての差別的先入観が備わっていたらしいと知らされる。

「三摩くんはメイド服きっとめちゃめちゃ似合うよ」

「……でしょうね」

「俺よりも似合うと思うよ」

「……かどうかは知らないですけど」

 次はどこからかなぁ、とスマートフォンを弄って蒔田が呟く。ん? 画面を向けられと意見を求められて、……六選手の顔写真、一人とんでもないおじいちゃんが交じっているな、と思って、その選手を指差した。四号艇である。

「ボートレーサーは定年ないからね。じゃー三と四から流そう。三四、四三の全……」とすいすいと舟券を買った末に、

「矢束くんも三摩くんのこと好きなんじゃないかなあ」

 と蒔田は言った。まだ律は「矢束のことが好き」とは言っていない、ただ、やっているか否かを問われて交渉の事実を認めただけであるのだが、勝手に一段飛ばしで先に行っている。

「あの子の三摩くん見る目がねえ、マスター見るときの了の目とおんなじ」

 そんなはずはない、と思う。

「あいつは、別に俺じゃなくてもいいんですよ。俺があいつでなくてもいいように。発展場でも行けば、もっとあいつに相応しい相手なんていっぱいいるでしょ」

 でもって俺は発展場には絶対に行かないだろう。なぜって、ノンケだから。たまたま出来た友達がそういう男で、無数のチェックボックスを埋めていくという厳密な審査を経た末に、まあやるのに問題はないかと思ったからやった、そして楽しんだ。

 ただそれだけ。

 対岸からの風が、少し強く吹いた。蒔田の長い髪が舞い踊った。男の髪だとは思う、けれど、その様子は公平に美しいものだと思われた。先程抱き着かれたときも、周囲の目があるから咎めたし、暑苦しいとは思ったけれど、気持ち悪いとは思わなかった。寧ろ、なんだこいつどういうシャンプー使ったらこんないい匂いになるんだという困惑をより強く感じた律だった。

「当たるといいなぁ……、八百円、と。確かに三摩くんよりもいい男は山ほどいるだろうけどね。っていうか三摩くんはあんま男にモテそうなタイプじゃない」

 別に男にモテなくたって不幸でも何でもないことなのに、ちょっとムッとする。

「筋肉はいいけど、もうちょっとやらかいといいよね。愛想よくないからスカしてるって思われそう」

 全くもって大きなお世話である。

「でもって、矢束くんみたいな子、……俺とか了とかもそうだけど、こういうヒョロガリもあんまりね。基本ノンケで、オトコノコ、……『男の娘』でおとこのこ、ね、そういうのが好きな人にはわりとモテるけど」

 余計な情報である。

「でも、二人はそんな中で出会ったんだから幸運だよね。出会いは大事にした方がいいよ」

 別に、矢束を惜しいと思っているわけではない。心中穏やかならぬところではあるのだが、それは風と流れが常にあって静かである瞬間などない心であることを思えば平常運転。

 ……昨日の夜、律はよく眠れなかった。

 中寉が矢束を「お持ち帰り」して、中寉の家だかホテルだかで行為に及ぶことを、律は何度も想像して寝返りを打った。

 中寉に顔を寄せられて、矢束の肌が燃えるように熱くなる。自分などより中寉の方がずっと美しいということについては、……腕立て伏せの出来る出来ないとは無関係に、律も素直に認める。中寉も同性愛者なのだとすれば、矢束に相応しい相手だと思った。まして、矢束が好きなバンドのボーカルである。夢のような話ではないか。

 中寉に抱かれ、衝かれる度に、矢束の中から律は消えていくだろう。

 矢束が幸せならばそれでいい……、結論めいたものに行き着いて、ようやく少しの眠りに落ちたのに、「何で俺が『矢束の幸せ』なんてもんをここまで親身になって考えてやんなきゃなんねーんだよ」とまた目が醒めてしまった、このとき明け方四時。律はほとんど、今日起きたら蒔田皐醒とセックスをするのだということまで念頭に置き始めていたことを認める。蒔田にも中寉にもパートナーがいることなんて思いもしなかったから。

「あの子ね、昨日三摩くんが独りで帰るとき、……そのときもう、ぐでんぐでんになってたけど、立ち上がろうとした。立ち上がって追いかけようとした。すぐにバランス崩して、加蔵くんと亀沢さんが支えて座り直したけど。それからあの子落ち込んじゃってねえ。王子様部のみんなで慰めてさ、了が加蔵くんに『おんぶしてあげてください、それで落ち着くはずです』なんて言ったんだけど、べそかいて『やだやだ』って」

 なんだそれは、という顔をしていた。そういう顔を、一生懸命に形作っている努力までをも、蒔田には見透かされてしまうだろうか?

「『三摩くんじゃなきゃやだやだ』って、ちっちゃい子みたいに駄々こねてさ。可愛かったよ」

 二十歳過ぎた男のそんな様子を見て「可愛い」と言うのは普通の感覚ではない。そもそも「王子様部」の連中はみんな揃ってまともではない。

 しかるに、「やだやだ」と泣く矢束を想像して、胸の苦しくなる自分だって、ひょっとしたらもう、とうに。

 水面に六艇が姿を現した。矢束と中寉はどこで観ているのだろう? 水面を見下ろすスタンドにはいないようだった。全速力でスタートラインを踏み切った六艇、中でも三号艇の勢いが強い。内の二艇の鼻面を抑えて真っ先にターンマークを周りかけるところ、四号艇が鋭く懐を差して先頭に躍り出る。三番手以下は大混戦だ。

「お……っ、おっ、おっほっおっ」

 俄かに蒔田が妙な声を上げ始めた。

「これ……、当たったらすごい」

「……そうなんすか?」

「うん、……三着に何が来るか……、五番か六番だとすっごいつくかも! やばい、脳から汁が出る! 脳だけじゃなくていろんなとこから!」

 蒔田が腰を浮かせた。正面スタンド前に戻ってきたときには、四、三、そのあと六の順。よく判らないが、波乱の組み合わせであるらしい。また抱き着かれてはかなわない、いや、配当の額によってはそれ以上のこともされかねないと思って、気付かれないようにそうっとソーシャル以上のディスタンスを取る。レースは結局そのまま四・三・六の順でゴールして、三万円を超える高額配当が付いた。あとで知ったことだが四番は御年七十、五十年以上に亘って第一線で活躍を続けている選手だったそうである。漫画でも映画でも小説でも「強いおじいちゃん」が出て来る作品が好きな律は自然と目を惹かれたに過ぎないが、これほど判りやすいビギナーズラックもないものだ。その恩恵にあずかった蒔田が配当金のアナウンスがあった直後、宙に向けてジャンピングハグを放ってそのままスタンドに転がる様子を、律は二段上の席から見下ろしていた。

「いてて……、りっくん五千円あげる」

「……そんなに要らないです。りっくんはやめてください」

「りっちゃんのほうがいい? 五千円あげるからキスさせて」

「五千円だけください」

 膝を擦りながら財布から五千円札を差し出す。

「あなたそんな誰とでもキスすんですか」

「キスまでなら誰としてもいいよって結人に言われてる。『それ以上は俺以外の人としちゃダメ』って。だから了とも老師とも何度もしてるよ。挨拶代わりだよね」

 自分の頬や唇も、矢束以外の人間からは守っておきたい、などと。……今朝未明、中寉に矢束を取られた腹いせにこの男を抱き犯すことまで考えていたくせに、律は勝手なことを思った。

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