スプラッシュ

 地下鉄は目的地の手前から地上に出た。よく晴れて、眠気を催させるような陽射しが降り注ぐ高架のホームに着いて、……どこかでコーヒーでも買おうと思いながら改札を出て、指定された駅前広場にやって来た律の目は一発で醒めた。

「やあやあここで会ったが三年目今日こそは我が叡知の前に平伏すがよい」

「今日もまた我が後塵を拝するため懲りもせずやって来たか相手をしてやるだけ有り難く思うがよい」

 自分を呼び出した蒔田皐醒と矢束をデートに誘ったはずの中寉了が、駅前に立ったオブジェの前で、共に大した上背があるわけでもない、特に中寉は中学生に混じってもおかしくない程度の身長しかないくせに、共にぬんと胸を張って訳の判らない口上を並べている。

「あ……、三摩くん」

 今日は会うつもりがなかった、今日から先ずっと会えなくたって別にいいと思って、夕べの眠りに就き、飲酒したせいか夜中に何度も目が醒めた律は、重たい前髪の向こうから自分を見付けた矢束がそこにいることに呆気に取られる。

「……お前何してんの」

 そんな服を持っていたのか、と思う。下は昨日と同じだが、上はなんだかちょっと丈の足りない黒のカットソーで、ベルトが丸見えになっている。

「わかんない……。中寉先輩が、『明日空いているのでしたら僕に協力していただけませんか』って……。三摩くんは?」

 協力、という言葉を蒔田は用いなかったが、実質的には同じである。そして中寉が三摩に「蒔田皐醒も一緒です」とは言わなかったに違いないし、律も蒔田には「中寉了も一緒です」とは言われなかった。

 どういう場なのだろうか、これは。

「あっ、三摩くんおはよ」

 ピンストライプの七分丈のシャツにクロップドパンツを合わせた蒔田がにっこりと挨拶して、

「ふふん、どうだ今日は我が軍には心強い援軍が付いているのだ見よ三摩くんのこの冷徹そのものの目元!」

 気安く律の右手に両手を絡めてまた訳の判らないことを言い張る。

「それを言うならばこちらとて変わらぬ。矢束くんは赤高出身なのだ赤高と言えば県内最高峰の高校なのだだからごくすんなりと現役で九隅大に入っているのだぞ」

 別の県での話であるが、県内第三の高校から一浪して九隅大に入った律は何も言えない。しかし赤高のレベルの高さは他県でも有名であるから、なるほど、矢束は元々秀才なのだなと律は知る。なお、中寉が敬語を用いないで喋っているところを見るのはこれが初めてのことだったが、これはどうでもいい。駅頭で顔面のレベルが高い中性的な男子二人がやいのやいの大声で言い合っているのは悪い意味で目立つのでやめてくんねえかなあと思うばかりである。

「では、行きましょう」

 大声を出すことに満足したのか飽きたのか、ころりと敬語に戻って中寉は言った。「三摩くんもわざわざお疲れさまです。バスに乗ります」

 バス、と中寉の視線の先に目をやると、LEDで「水鳥川競艇場」という案内を出したバスが停まっているのが見えた。

 矢束の話してくれたところによれば……。

「夕べのことは全然覚えてなくて……、気が付いたら茅野台かやのだいにいたんだ」

 茅野台とは、東西に長い東京を東を枕にして仰向けに横たわる人の身体になぞらえたとき、右耳の辺りにある駅の名前である。

「そこの……、駅からちょっとのところにある、マンション……、中寉先輩と、マスターさんが一緒に住んでるマンションのお布団で起きた」

「マスターさん?」

「昨日のお店の……」

 あの無愛想な店主のことかと思い至って、……えっ、と声が漏れた。律はまだ終電まで十分に間のある時間に、矢束を置いて独り家路に就いた。矢束がどうなろうと知ったことか、と少々へそを曲げていた部分もあったけれど、第一に、本当に中寉に持ち帰られるとは思っていなかった、第二に、中寉があの店主と同居しているとは想像すらしていなかった。

「お店で、僕寝落ちしちゃったんだよね……。それで、中寉先輩は亀沢先輩と本橋先輩は先に帰ってもらって、マスターさんと一緒に僕を家まで連れていってくれて……」

 矢束は何故だか、とても恥ずかしそうにしている。そんなにぐでんぐでんになって人の手を煩わせたのならば恥ずかしがっても仕方がないところであるが、

「どうか気になさらないでください」

 前の席に蒔田と並んで座った中寉が顔を少しだけこちらに向けて言った。

「お酒に慣れていないのであれば、ああいうことも起こり得ますよ。そうなっても仕方がないと思ってお連れしましたし、そうなっても構わないように準備も整えておきましたし」

「……お前何やらかしたんだ」

 矢束は真っ赤になって答えなかった。

「……起きたら、もうお昼近くで、マスターさんは出掛けてて、先輩に、『では行きますよ』って……」

 訳も判らぬまま、こうして連れて来られた。概ね律と同じであった。

「月に一度、了と俺と二人で勝負してるんだ。……舟券勝負ね。ここまでのところ十七戦して俺の七勝八敗二分け」

「皐醒は僕よりキャリアが浅いのに大したものです。本当は僕がもっと引き離していなければいけないところなのですが」

 律は、ボートレースを知らない。矢束はもっと知らないのではないか。コマーシャルや電車内の広告で見るけど、要はギャンブルだろ、という認識である。現状仕送りもあるし生活に困っているということはないけれど、かといって無駄金を使う余裕はないので、わざわざ金をどぶに捨てるような真似はしないに決まっていた。

「先輩たちは、どうしてこんな……、その、ギャンブルを……?」

 矢束が訊いた。どちらもあまりそういうことをしそうに見えない、という点については律も同感であるが、そもそも水商売で働いていそうにも見えないし、この二人が「王子様とメイド」であることを見抜ける人間なんてまずいるまい。

「俺は、了に連れて来られて」

「僕はマスターに教わりました。あのプラスティックのほとんど唯一の趣味がボートレースなのです」

 自分がガラスで出来ているみたいな男が「プラスティック」と形容するのだから、あの店主はどれだけ乾いているのだろうか。

「僕にもう少し筋肉があったら、ボートレーサーを目指していたかもしれません。アイワナビーアボートレーサー。彼らはとても魅力的です」

「俺はなろうとは思わないなあ……、かっこいいけどさ、すっごい危ないもん。二人は観たことないの? 一度も? もったいないなあ。三摩くん地元どこなの? ……えーじゃあ近所にあるじゃん」

 そんなことを話しているうちにシャトルバスは川に設けられたボートレース場に着いてしまった。主たる客層は中高年だが、ちらほらと同世代の姿も見ることが出来る。

「舟券はスマホで買えるのです、既存の口座を使って登録もごく簡単。ですので、巣籠もりのころには若い世代を中心に相当にファン人口を増やしたのです」

「毎日、朝から晩までやってるからね」

 ギャンブル依存症を増やしてしまいそうな話ではある。

 競馬ならばまだ、律も理解できる。たまに動画共有サイトで大レースの映像を見ては「一回ぐらいは観に行ってもいいかなぁ」なんて思っているうちにウイルスが流行って、入場に面倒な予約が必要になって、すっかり機を逸してしまった。けれど、馬が走る姿は風の具現化であって、胸を揺さぶる命の煌めきも感じられる。しかるに、人間と機械にはそこまで感情移入出来そうもない……。

 体温チェックを済ませてすんなり入場して、川を見下ろすスタンドまで律と矢束は導かれた。六艇の、イメージしていたよりも平たく小さなボートにちんまりと収まった選手たちが、ちょうどレースを迎えようとしている真っ只中。中寉と蒔田はもう舟券をスマートフォンで買っていたのか、

「いちよんよんいちのにーごーろく」

「よんごーぜん」

 よく判らない符丁のようなものをばちばちと言い合っている。前者は中寉、後者は蒔田である。腰に手挟んだ剣をすらりと抜くように、ポケットから出したスマートフォンの舟券購入画面を芝居がかった仕草で披露し合っていた。

 律は矢束と、何をどう見たらいいのか判らない。ルールも、律は何となくしか知らない……、矢束はまるっきり何も知らないだろう。

「これ、どこからスタートするの」

「たぶん……、あそこじゃねーか」

 秒針だけの黒い大きな時計の辺りをぼんやりと指差して、律は言った。

「なんか、たぶんだけど、向こうから助走してってスタートするんだろ」

「みんな同じところからスタートすればいいのに」

「……そうだよな……」

 その理由はまもなく判った。風がある、そして河川水面上に設けられたコースなので流れもある。艇はじっと止まっていることなんて出来ないのである。

「確か、あの、紅白のうんこみたいなの」

「三摩くんもう大人なんだから公共の場で『うんこ』とか言わない方がいいよ」

「じゃあ何て言えばいいんだ、……とにかくあの、こう、ソフトクリームの上みたいなやつのとこで回って、何周かするんだろ」

「同じところ何周もするなら絶対にインコースの人が有利だよね……?」

 律もそう思った。一番インコースの、白いユニフォームを着た選手の艇の鼻先には白い三角旗がはためいている。手前から順に白黒赤、左奥へ引いた三艇は青黄緑。順に一二三四五六だとすると、一から買うのが当たりそうである。

 黒い時計の針が回りはじめて、ゆるゆるとホームストレッチに艇を移してくる六艇のボートやら、そのうち外側の三艇が踵を返して行くところやら、その三艇が相次いでエンジンをふかし白い航跡を描き出すのに少し遅れて残り三艇も加速して行くところやら……、を口を開けて見ているばかりの二人である。六艇が見えないスタートラインを全速力で超えて、最初のうんこ、いや場内に流れる実況アナウンスの声から察するに「ターンマーク」と呼ぶらしいそれに殺到する。真っ先にそこを回ったのは白の一号艇であるが、その外を回って三号艇がそれ以上のスピードで旋回し、一号艇とターンマークの間に出来た余白をを二号艇と四号艇が狙う。水の上、かなりの速度で、川の流れと風で艇が激しくバウンドして飛沫が上がるのに、選手たちはみなターンのときにはボートから身を乗り出して駆け抜けて行く。向こう正面、先頭から一三二四六五の順。右から左へ駆け抜けていった六艇が、左奥のターンマークを回って行く。一はリードを広げ、三はターンが膨らんだ懐を二に掬われ、更に四にもかわされて、二周目に入ったところでは一二四という隊型に変わっていた。

「とまあ、こういう感じにレースをやっているのです」

 ポケットにスマートフォンをしまった中寉が律と矢束に向けて言った。

「六艇しかないから簡単でしょ? 競馬だと十頭以上が同時に走るから難しいけど」

 中寉は「一四・四一の二五六」と言っていた、蒔田が言っていたのは「四五全」ということで間違いなかろう。三連単という、三着までを予想して当てる舟券を買ったのだろう。レースも終盤、三周目に入るところで一号艇二号艇四号艇の順だが、三番手に六号艇が迫っている。どうあれ、二人の買った舟券はもう当たる望みがない。それについては矢束も何となく察している様子である。

「『簡単』なのに、二人とも外してますよね」

「三摩くんは空気が読めないって言われませんか」

「あと俺ら一応歳上だからね! 歳上には敬意を払いなさい」

 歳上のくせに尊敬できる振る舞いをしない人物に限ってそういうことを言うものである。

「とにかく、です。誕生日でも好きな色でも選手の名前でも結構ですから、僕らに協力してください。ここのところ二人揃って全く当たらないのです。現在三ヶ月連続ボウズで、この『緑の兎ボートレース愛好会』の存続が危ぶまれているのです」

 やめちまえばいいのに。

「というわけで、今日の残り四つのレースで勝負。ルールはいつもの通り、回収率と的中本数の両方で上回った方が勝ち、ケンはなし」

 ケンってなに、と矢束が小声で訊く。たぶん「見」つまり舟券を買わないことだろうと想像するが、律は黙っていた。

「三摩くんも矢束くんもお昼まだでしょ? だからとりあえずごはん食べよう、そのついでにボートのルールとか予想のコツとか教えてあげる」

 その「コツ」なるものが判っている(つもりであるらしい)二人が当たっていないのに、素人が加わったところで何になるというのか。

「そのあとは自由行動ということにしましょう。最終レースが終わった段階で結果発表です」

 くだらんことに付き合わされているなあ、とは思う。

 しかし、先程のレースを見て、……舟券の当たる当たらないはさておき、あのターンマーク付近での丁々発止は確かに見ごたえがあったなとは律も思うのだ。ボートがあんなに不安定なものだとは思わなかった、ましてや、あそこまで身を乗り出して艇を急旋回させるなんて……。

 連れていかれたレストランの食事代は中寉と蒔田のおごりであった。向こうの都合で連れて来られているのだし、これは当然だと思ったけれど、矢束は感謝恐縮しきりである。テーブルに着いて、並んでいるところを見て、律はなんだか矢束と中寉は兄弟のようだと思った。「腕立て伏せが一度も出来ない兄弟」なんて、ろくなものではないし、しかも兄のほうは水商売のギャンブル好きのバンドマン、……かなりの世捨て人な気がする。大きなお世話と判った上でそう思っていたら、

「三摩くんと皐醒は、なんだか兄弟みたいですね」

 と中寉に言われた。だいぶ失礼だと思った。

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