あなたの隣で笑えるように

伏見 寒璧

第1話 十六の春

 閉ざされた部屋は恐ろしいほど静寂で、暗闇の中にただ雨が降る音のみが響いている。肩に乗る重みは温度を失い、無機物のようにただ乗っかっているだけだ。

 もし、違う人間として出会っていたら─────

 わたしたちは、幸せになれただろうか。



 目を覚ますと、見慣れた天井に、おとぎ話のお姫様の部屋にあるような天蓋付きのベッド。むくむくと起き上がると、そこにはまだ若い自分の姿があった。

「また、やり直しね」

 この景色を見るのはもう何度目だろう。


 私はいつからか、こうして何度も同じ世界を繰り返し生きている。起こることも、周囲の言動ひとつひとつも全て変わらない。そして死ぬとまた、十六歳の春に戻るのだ。

 なぜ生まれた時ではなく十六歳の春なのか。それはおそらく、私の運命を大きく揺るがすきっかけになる一件が起こるからだろう。

「お嬢様、お目覚めですか?」

 扉の外から侍女の声がする。そして私が返答する言葉も決まっている。

「ええ、今起きたところ」

 全ては同じ、何も変わらない繰り返しの人生が再び始まろうとしていた。


 自分は帝国の中でも巨大な富と権力を誇るティレット公爵家の一人娘であり、幼少期から結婚を約束している許婚がいる。そしてその婚約者こそ、彼であった。

「今日はついに婚約者殿とご対面ですね」

 いつもよりも着飾って向かうのは東の庭園。おとぎ話だったら主人公と王子様が出会って恋に落ちるような、そんな場面にふさわしい庭園だ。


 今日、私たちは初めて顔を合わせることになっている。婚約してから早十年。婚約した直後に彼の実母である公爵夫人は病に倒れ、医者による治療も虚しく三年後にこの世を去ってしまった。そうして公爵は後妻を迎えたのだが、その後妻は前公爵夫人の息子である彼を疎み、彼はほぼ無理矢理隣国へ留学させられた。そうして十年の時はあっという間に過ぎ、私は十六、彼は十九歳になってようやく顔を合わせる機会を設けるに至ったというわけである。


 庭へ足を踏み入れてすぐ、遠目でも、彼の姿を捉えることができた。

 すらっとした背筋に、微風になびく美しい黒髪。春の景色になじみ、一枚の絵画かとさえ思わせる風貌だ。何度見ても見飽きない姿に、懐かしささえ感じて自然と微笑みが溢れた。

「お待たせしてしまいましたかしら」

 震える声と、今すぐにでも伸ばしたい手を抑える。目の前に彼がそこにいる。それだけで十分だ。

「いえ、お目にかかれて光栄です。ティレット公爵令嬢」

 形式通りに挨拶をする彼を前にして、思わず熱い涙が込み上げてくる。


 細く柔らかい黒髪は日光を介して錦糸のように輝き、伏せられた長いまつ毛は、吸い込まれそうなほど透明で美しい黒色の瞳に影を落としている。何度経験してもこの瞬間は毎度新鮮な気持ちで、毎度見惚れてしまう。

「ヴィンセント様、挨拶など不要ですわ。あなたと私は婚約者同士なのですから」

 初めて会った時の彼──ローレンスはまだ距離があり、冷たい感じさえする。しかし、私は彼の優しさ、暖かさを誰よりも知っている。その優しさゆえに、私たちは何よりも悲しく辛い結末を迎えることとなるのだから。


 次に彼が言う言葉は、「素敵な庭園ですし、少し歩きませんか?」。そして私の応答は「ええ、歩きましょう」。彼が息をする瞬間も、私が彼に応対するまでの間も、全て決まっていることの繰り返しなのだ。

「…こんなことを言っては不審がられるかもしれませんが、どこかでお会いしたことがあるような気がしてなりません」


 けれど、彼が発したのは、私が知らないセリフだった。


  あまりの衝撃に、言葉を失ってしまう。もう両の手の指では数え切れないほど繰り返した人生に、一度も出てこなかったセリフだ。


 私と会ったことがあるような気がする?私のことを覚えている?過去にあった出来事も、あの何にも変え難い幸せな日常も、そして私と彼が迎えた痛ましい別れも、全て記憶の片隅にあるということだろうか。もしそうならば、どれほどこの状況を待ち望んだことだろう。


 やり直せるかもしれない。今度こそ、最後まで幸せになれるかも───。


「…なんて、突然失礼致しました。素敵な庭園ですし、少し歩きませんか?」


 ああ、神様。

 もし私にもう一度機会を恵んでくださったら、どれほど嬉しいことか。

 あの床の冷たさも、部屋の張り詰めた冷気も、なにより、私の腕の中でそのまま冷たくなった彼も、全てが変えられるのなら。

「ええ、歩きましょう」

 全ては変わらない。また同じことの繰り返しだ。

 手を差し出す彼に応じ、踏み出す瞬間も、感触も、彼の手の温もりも、全てが変わっていない。


 誰よりも優しかった彼は、私のために死んだ。

 私は何もできず、ただ彼の隣に早く行けるようにと願うばかりだった。結局、神とやらは私の最後の願いだけを汲み取ったが、私はこの辛い人生を繰り返す運命となってしまった。


 すべての元凶はこの私だと言うのに、それでもなお、彼と添い遂げることを望んでしまうのは、私のわがままなのかもしれない。

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