ふたりのサマーバケーション【全4話】

小林勤務

第1話 行楽

 夏休み――


 この言葉には無限の可能性が秘められている。なんでもない日常が輝く何かに塗り替えられる、神が与えた特別な時間。


 素敵な未来への予感にココロがおどってしまうのは、なにも子どもだけではない。日常に疲れ切った大人にこそ、夏休みがもつ真の価値がわかる。


 平日は溜まった書類に埋もれ、休日は、得意先からの急な呼び出しのオンパレード。目を閉じても数字の羅列が浮かび、夢でも会社に出社する。いっぱしの部品であることを自覚して、今日も業務をこなし、誰かの役に立ち、お給料をもらい、そして、可愛い娘を育てている。


 これが今のわたしだ。


 妻が亡くなって、はや3年。やっと娘――すもも――は来年、小学生だ。


 今まで通り、都内に住み、仕事をしながら料理や家事をこなし、保育園の送り迎えをこなす生活は、すぐににっちもさっちもいかなくなり、奥多摩の実家に舞い戻った。父親は既に他界しており、腰の曲がった母親との3人暮らし。母親の助けもあり、なんとか暮らしている。


 妻が病気でこの世に別れをつげたとき、娘は自分の家族に起きた異変を理解できなかった。最初はなんのことかわからず、「何でお母さんがいないの」が口ぐせだった。だが、段々と物心がつくようになってから、徐々に現実を受け入れ始めた。


 そして、同時に元気もなくなっていった。雄大な自然に囲まれながら、外に出ずにひとりで水槽の金魚ばかりながめている。


 深夜――虫の音とカエルの鳴き声。窓の外には、夜風に揺れる木々が広がる。すうすうと寝息をたてる娘のお腹が冷えないように布団をかける。心なしか、大きくなるにつれて、日に日に亡き妻に似てきたような気がする。少し垂れた目元なんてそっくりだ。


 わたしは誓った。


 この夏休みは思いっきり外で遊んであげよう。

 すももも、お父さんの夏休みを心待ちにしている。

 これは、親子の絆を深める大切なイベントなのだ。


 だからこそ――わたしは、あいつらから娘を守らなくてはならない。


 二人のかけがえない時間を邪魔する、あの軍団。


 陽キャどもから……。


 *


「おとうさ~ん、おさかないっぱいいたよ!」


 照り付ける太陽。きらきらと輝く水面。鮮やかな木々の緑。心まで清らかにしてくれそうな清流が、火照った体を冷やし、娘もわたしも笑顔であふれる。


 最高気温45度という、とうとう地球の頭がおかしくなった日に、涼を求めて奥多摩最奥の川に遊びにきた。この日のために、マリンシューズ、水着を買い揃えた。当然、衣服だけでなく、水鉄砲や浮き輪、遊び道具もばっちり用意。そして、極めつけなのが、隠れアイテムでもある――


「これ、ほんとにみずのなかみえる~」


 娘のうしろから、観察めがねを覗きこむ。こいつは、底が大きなレンズになっているバケツ。顔を水につけずとも、水中を覗くことができる優れものだ。確かにこれならば、大の水嫌いである娘も、水中に潜らずとも川のなかの生き物がよく見える。


 うようようようよ、いるいるいるいる。

 人間に見つからないように、ひっそりと棲息しているお魚たちが。すももは水の生き物が大好き。


「おとうさん、これな~に?」

「うーん、なんだろう。イワナ? ヤマメ?」

「なにそれ~、きいたことない」

「難しいな。もしかして、アユ……かな」


 この名前をだしたとき、一瞬、しまったと息を止めた。案の定、先ほどまで肩を弾ませて、水中を覗きこんでいた娘が動きを止めた。


「……ちょっと、ひえたから、もうあがる」

「あ、ああ、そうか」

 としか言えなかった。


 アユは――亡き妻の名前だった。


 ざばあとお腹まで浸かった体を、少しも震わせることなく、静かに娘は河原にあがった。わたしも、娘の後につづき、そのまま河原の設置したファミリーテントに向かう。


 しまった。


 せっかく、親子の絆を深めるはずが、しんみりさせてしまうなんて。娘は、もう気にしちゃいないと思っていたが、まだまだ心に負った傷は深いことを痛感した。思えば、娘が水嫌いになったのも、妻と一緒にお風呂に入れなくなったことが原因だ。

 こうなったら、アレしかない……。


 テントにもぐり、クーラーボックスからあるものを取り出した。


「ほ、ほら、すももの好きな皮付きさきイカ買ってきたよ」


 モリモリフーズで買った398円の人気おつまみ。すももは、うわ~と満面の笑みをこぼす。これは、すももの大好物。どういうわけか好き嫌いは一丁前に多いくせに、チータラとか鮭ミリンとか、塩辛い酒のおつまみだけはよく食べた。子どものうちから塩分過多で大丈夫かと心配になるが、まあ、今日だけは難しいことはナシだ。嬉しそうにさきイカをぎちぎち噛み千切る娘を眺めながら、娘の将来に思いを馳せる。


 大ジョッキをぷはあと飲み干す、二十歳のすもも。


 きっと、この子は酒が強くなるだろう。酒が飲めるようなったら、お父さんと一緒に近所の居酒屋にでもいくか。


 そう――遠い未来を思い描いていると、


「うぃ~す! かんぱーい!」「かんぱ~い!」「ちーす」「おいおい、ちーすって部活かよ」


 げははははははは――


 わたしたちのすぐ隣で、陽キャたちの下卑たパーティーが始まろうとしていた。


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