第30話
そういえば、とローウェンが話題を逸らす。突然のことにヒリューニャは目を瞬かせた。
「あんたのお姉さん……ナーシャ? は、誰に会いに行ったんだ?」
「あ、えっと……。姉には婚約者がおりまして、その方のもとへ」
「婚約者……」
「はい。彼はクルドゥ病なので、その看病に」
「————」
一瞬、世界が静寂に支配された。ふたり分の呼吸音が、温室内に響く。
——クルドゥ病。それは寒冷地で現在猛威を振るい流行している不治の病の名称だった。
「数ヶ月ほど前に発病して、意識を失くして以降はナーシャが付きっきりで看病を」
ヒリューニャが花弁に触れる。ふわりと甘い香りがローウェンの鼻腔を
「私たちの両親もこの病に倒れ、為す術も無く亡くなりました。……あの伝説が迷信だと頭では理解しているのです。この行為が気休めだということも知っています。それでも縋りたい。助かる方法が、見込みが、ほんの少しでもあるのなら……なんでも試してみたいのです」
そうしてプランタンの花を摘む。まるで命を大切に扱うかのようにして、ヒリューニャはひとつひとつを手折っていく。その手先の美しさに、ローウェンは息を忘れて見惚れていた。不意に彼女と視線が合う。少しだけ困惑したあと、ローウェンはヒリューニャに、それを摘んでどうするのかと訊いた。
「煎じて薬湯にするんです。とても良い香りがして、美味しいんですよ」
そうやって微笑む彼女に、胸が締めつけられる。淡いフィルター越しに憂うヒリューニャの表情が愛おしく思えたのは、プランタンの花が持つ誘惑の香りの所為だ。
ふたりの手が触れる。ヒリューニャは花を摘んでいた手を止めた。不思議そうな顔をして、手を重ねてきたローウェンを見つめる。
ああ、このまま夢に溺れきってしまえたなら、どれだけ幸せなのだろうか。その行為が罪と知っていてもなお、ローウェンは“禁断の果実”に手を伸ばすのを止められなかった。
❅ ❅ ❅
重なり合う唇から、色っぽく吐息が零れる。甘美な香りが満ち足りたこの温室は、彼らを
五秒にも満たない時間、ローウェンたちはその熱の余韻に浸った。見つめ合うほど、鼓動は早鐘を打った。
「んーっ!」
「——おわっ⁉ サ、サリュート……?」
むぅ、とサリュートが不服そうな表情をしながらローウェンとヒリューニャの間に割って入った。そこでローウェンたちは現実へと意識を戻し、我に返る。急激な現実への帰還に、ふたりは同じような顔になりながら頬を赤らめ俯いた。
少しして、ヒリューニャが気まずそうに口を開いた。緊張によるものなのか、その声は上ずっていた。
「あ、の……。そろそろお昼時ですね! 昼食のご用意を……っ、その前にナーシャにこれを届けないと……!」
「お、落ち着けヒリューニャ! 昼食のことは、気にするな。自分たちで頼みに行くから。……だから早くそのプランタンを届けてやれ」
「あっ……はい、ありがとうございます……」
ヒリューニャはやっとのことで落ち着きを取り戻し呼吸を整えると、温室を勢いよく出て行った。そんな彼女の後ろ姿を見送りながら「元気なやつだな」とローウェンは独りごちたのだった。
「にぃにー……」と、ずっと彼に引っついていたサリュートが言葉を発した。不機嫌そうに頬をぷくりと膨らませてローウェンの服の裾をぎゅうっと強く握っている。どうやら兄をサリュートに奪われたのだと勘違いしたようだ。
ローウェンはサリュートの不安を少しでも和らげようと彼女の頭を優しく撫でる。兄の温かく大きな掌を感じて満足したのか、サリュートは笑顔を見せたのだった。
「……お前を置いて、どこかに行くわけないだろう……」
ローウェンの言葉がサリュートに届いたかは分からない。けれど、妹が嬉しそうにしている様子を見ると、すべてがどうでもよくなる。そして、同じような気持ちになったのだった。
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