はた、と地面に視線を落とす。辺りには水溜まりが広がり門扉の此方側へ侵食してきている。

 ぴちょん、と雫が落ち波紋が広がる。それは門扉の外から広がってきていた。

 がちりと身体が緊張で硬くなる。

 ここで死ぬのだと思っていた。でも殺されるのは嫌だった。死の覚悟だなんてそんなものだ。今、目の前に押し迫ってくる恐怖には勝てない。

 そろり、息を潜め身を起こす。いつでも走り出せるように、しっかりと脚の裏で地面を掴んだ。あとはタイミングだ。いつ、どこに走り出せば良いのだろう。

 自然と涙は止まっていた。

 異形は動く様子がない。ならば家の裏口からそっと逃げてしまおう。奴が気が付かないように。

 そっと一歩踏み出した瞬間、どしゃりと水溜まりに大きな肉塊が転がり落ちてきた。弾けとんだ水が私の身体に降りかかる。そして、ぶじゅる、という音と共に肉が裂け飛沫が飛んできた。とろとろと漏れ出した血肉が水溜まりを赤く染めていく。所々に黄色の粒々やら緑色の汁まで混ざっている。

 ぶよぶよとたるんだその肉体は灰褐色をしており、かろうじて人の身体の形をとどめていた。しかし、ひどい水膨れで胎児のようになっている。そして顔があるはずの部位は、熟れすぎたあけびのようにぱっくりと割け、中はひどく糜爛びらんしていた。さらけ出された真っ赤な肉は、なまめかしくひしめき合いぐちょぐちょと嫌な音をたてた。

 一瞬のうちにそれを理解するよりも先に、私は家の裏手に向けて駆け出していた。とにかく早くあの異形から距離をとらねば。

「陦後°縺ェ縺?〒?」

 飛沫を含んだ叫び声が住宅地に甲高く響いた。

 私は振り返ることなく裏口の鍵を捻ると、直ぐに戸を開け放ち通りに飛び出た。通りには長く伸びる私の影。しかし、それはもう一本同じように伸びていた。

 じりじりと背を焼く西日の方を振り返ると、パンプスを鳴らしあの穴ぼこの異形が狂乱気味に駆け寄って来る途中だった。

 思わず叫び、裏口の戸を閉じ鍵を捻る。すぐさまドアノブが暴れまわり、がたがたと戸が鳴った。

 表にはあの水死体のようなバケモノが転がっている。かといって、ここはあの異形が扉を破壊しようと暴れている。

 私はふらつく脚を強く叩くと、踵を返した。

 再びあのぶよぶよと対峙すると、奴は糜爛した顔を向けてきた。先程よりも臭いが酷くなっている気がする。思わず顔をしかめる。

「縺?繧√?∝セ?▲縺ヲ」

 ぶよぶよとした手をこちらに差し向けてくる。

「……ごめんなさい」

 私は自分に言い聞かせるようにそう囁くと、ぶよぶよを踏みつけた。

 ぶじゅる、とパンプスの踵が肉に埋まり汁が弾け飛ぶと「逞帙>?」と肉塊が金切り声を上げた。

 足を取られ通りに転げ出ると強く膝を打ち付けてしまった。しかし、遠くからはあのパンプスの音が近付いてくる。すぐ立ち上がると私は痛む膝を気にする間も無く走り出した。

 走り詰めでもう脚が棒のようになっている。痛む膝からは血が滲み出ているだろう。パンプスの踵はいつ折れたのかわからないが首の皮一枚で繋がっている。

 ずっと泣き続けたせいで顔が強張っている。涙の跡が西日に染みてヒリヒリと痛む。満身創痍とはまさにこの事だと私は思った。

 さあ、どこに逃げようか。見知らぬ町、私の居場所はない。陰る路地に隠れればパンプスを鳴らし駆け寄ってくるだろうし、音をたてれば家から嫌な臭いをさせて転がり出て来るだろう。

 もしどこかの家に隠れたとしても直ぐに追い詰められて捕まってしまうだろう。だったら隠れる場所の多い場所に逃げ込めばいい。時間も稼げるし最悪部屋に閉じ込めてしまえばいい。

「……学校だ」

 避難所にもなる場所だ。何かしろ備品が揃ってるはずだ。もう逃げ回るのは疲れた。ボロボロで今にも意識が飛びそうだった。

 もう、この町にはんだ。そう理解するとどこか府に落ちたような気分になった。私がなんとかしなきゃ。


 夕日に照らされた学校はまるで燃えているようだった。校門は開け放たれ昇降口の扉も開いていた。靴箱にはいない生徒の上履きが並び、リノリウムの廊下が窓の枠を菱形に投影している。

 まずは安全の確保をしなければ。身がすくみそうになるほど恐ろしいが、校舎を見て回ることにした。今度はどんな異形が潜んでいるかわからない。傘立てに忘れ去られた一本の置き傘を謝罪しつつ手に取る。不在の持ち主に返すことを約束し私は校舎内に脚を踏み入れた。

 しん、と静まり返る校舎は温室のように空気が澱んでいる。自然と汗が吹き出してくる。顎にたまった汗を袖口で拭う。

 一階、二階、三階と各教室を確かめたが気配は何一つなかった。あとは窓から見えるもう一つの棟。校庭を囲うように建つ校舎は渡り廊下で繋がっていた。

 扉を開くと風が吹き込み体の汗が引いていく。高さがあるから余計に風が強いのかもしれない。

 もしかしたら、これだけの高さから見下ろせばどこか突破口が見えるかもしれない。私は脚を止め町を見渡した。

「そんな……」

 しかし、そこには西日に照らされきらきらと弾ける輝きを持つ瓦屋根が地平線まで延々と続いていた。まさか此方側だけだろうと渡り廊下の対岸へ向かい町並みを見たが続くものは同じだった。

 乾いた笑いが思わず漏れ出た。掠れたそれはあっという間に風に巻き取られていった。もう涙の一粒すら出てこない。私はどこにいるの?

 もう、どれだけそこに立っていたかわからない。どれだけ経とうと夕日は沈まないし、町並みは変わらない。日に当たり風に吹き付けられたせいでどんどん身体が乾燥してきたような気がする。風に巻き上げられた髪の毛は信じられないほどぼさぼさになっていた。

 私は一つ呼吸を落とすと、校舎に脚を向けた。

 もう、なにも考えていなかった。ただ決めたことをやりとげようとその事だけを考えていた。呪文のようにその事だけを頭の中で反芻し続けた。

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