そういえばあの不規則な足音が聞こえない。もしかしたらどこかに行ってしまったのかもしれない。私が見つからないから諦めて帰ったのかも。

 身体の緊張が少しだけ弛緩した。束の間の安心だった。しかし、まだ恐怖は引きずっている。そのせいでカタカタと震えが止まらない。

 もしかしたらどこかで隠れて私が出てくるのを待っているのかもしれない。可能性としては捨てきれないし、もと来た道を通るのは最適解ではないとすぐ理解した。

 折り曲げた脚、膝の裏が心地の悪い汗でじっとりとぬるついている。ブラウスだってぐっしょりと汗を含み身体に貼り付いて気持ち悪い。このままゴミ捨て場に居座るわけにもいかない。

 改めて気を引き締めるとそっと視線を上げた。コンクリートブロックの影に私はすっぽりと収まることができていたらしい。アミダくじのような溝をたどり、西日の明かりを含んだ縁が真横に線を引いている。光と影の境界の端に何かが引っ掛かっている。さっきまでは必死で気がつかなかったそれは、色褪せたマネキンの手のようだった。爪の先には黒々と泥がつまり、所々かさついて擦りむけた手の甲。糸がほつれ、擦りきれ汚れた袖口と、引き裂かれた肩口。パサつき乱れた毛先が首周りを覆い、無数に穴の空いた虚ろな顔が私を見下ろしていた。

 今まで散々追いかけ回されていたあの異形だった。まさかずっと私を見ていたのか。そう理解すると氷のような恐怖が背筋を一気にかけ上った。

 近くで見るとまるでケーキスポンジのようだと、どこか俯瞰した気持ちになってしまった。これも精神を可笑しくさせない人間の本能なのかもしれない。

「螟ァ荳亥、ォ」

 無数の穴から奇妙な鳴き声を吐きかけられる。私は締め上げられた鳥のようなわめき声を上げながらなりふり構わず立ち上がった。途中腕を掴まれたような気もする。しかし、そんなことに気を回している暇なんてなかった。膝をつき、腰が抜けそうになったが擦りきれそうな理性でなんとか駆け出した。

 悲鳴というのはなんとも無様なのだろう。ドラマなんかだと「キャー」とか「うわー」とかそんな台詞を使っているがそんな声なんか出やしなかった。人も生物なのだから本能的に死を回避するようにできている。私の喉から出た声はまるで錆びた鎖を無理やり引きちぎろうとするような、ひどくひきつった音だった。

 死に物狂いで走って、走って、走り尽くして、ふと気が付いたのは民家の門扉の裏にしゃがみこんでいたときだった。脚が痛いとか、叫び続けた喉から血の味がするとか、そんなことに気が付いたのは、ようやくそのときだった。

 痙攣し、ひきつるような呼吸がぶるぶると気管を震わせた。酸素が巡らないせいで指先が痺れ意識がぼやけている。萎縮し痺れきった脳みそでなんとか状況を処理した。

 あの異形はなんとしてでも私を捕まえようとしていること。そのあとなんて考えなくてもわかる。きっと惨たらしく殺される。生きたまま引きちぎられ、内臓を引きずり出され死ぬのだ。

 そんなことを想像してぶるりと身震いしたときだった。どこかの民家の戸が開いた。

 実際に見たわけではない。それでもしっかりと音を聞いたのだ。

 引き戸がレールをなぞり硝子が震える音がした。そして、ぴしゃり、と引き戸は閉じられた。出てきた。

 誰かいるのだろう。それが人か異形か、確かめるまで身を出すまいと強く心に誓った。

 重い足音が聞こえる。その足音はいくつか歩いてから足を止め、再び歩くとまた止まり、まるで酷く疲れた人のようだった。老人のようで、疲れた酔っぱらいのようでもあった。

 そして、何よりも気にしなければならないこと。

「螢ー縺後@縺」

 それが人であるかどうか。


 息を潜め、じっと足音の様子を探る。一歩踏みしめる度に、ぶじゅる、ぶじゅる、と水分が染み出る音がする。

 さっきまでの奴と違う。

 私は身を震わせた。今度は一体なにが町に解き放たれたのだろう。

 相変わらずじりじりと日差しは町を照らし続けている。無我夢中で走り続けたせいで服はボロボロに汚れてしまっていた。途方もないやるせなさが押し寄せてきた。こんなはずじゃなかったのに。どうしてこんなことになってしまったのだろう。何一つわからない事実に腹が立ってくる。

「そうだ……電話」

 すぐさま鞄から携帯を取り出す。慌てすぎてぷるぷると手先が震える。なんとか親のアドレスを引っ張り出すと呼び出しボタンを押下する。

 しかし、聞こえてきたのは耳馴染みのあるコール音ではなく、応答不可の説明をする無機質な音声だった。

「な……なんで? どうして?」

 震える手で携帯を確かめる。傷一つなく、動作にも反応した。だがしかし、液晶の端、電波の強度を示す棒はなく、「圏外」の文字が私の目に入った。

 その瞬間、くたくたと身体中から力が抜け、しなだれるようにその場にへたりこんでしまった。

 誰も助けを呼べないんだ。誰も私に気づいてくれないんだ。そう思うと、溢れ出た涙がはらはらと頬を転がっていった。涙も鼻水も気にせずに、漏れ出る嗚咽も押さえることなく、子供のようにわんわんと泣いた。この迷路のような夕焼けの町で私は死ぬんだ。

 地面に叩きつけた携帯はブラックアウトしひび割れた。もう、どうにでもなってしまえ。ガンガンと叩きつける手に痛みは感じなかった。何度も叩きつけていると、地面で何かが弾けとんだような気がした。それどころかスカートの裾も濡れていた。そして何よりもひどい臭いがした。

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