インフィリッジ

睡田止企

第1話

 インフィリッジ。

 無限(インフィニティ)と冷蔵庫(フリッジ)を合成した造語である。

 特定条件下であれば冷気を恒久的に放出し続ける魔法のような物質である。

 その物質の製造が始まったのがいつかは知らない。

 知っているのは日本での取り扱いの略歴くらいだった。

 平成三十四年に日本へ初めて輸入されたこと。

 翌三十五年に全世界で製造が禁止されたこと。

 そして、平成三十六年の夏、新政府による回収が始まったこと。

 

「私はさ、宇宙に繋がってると思うのよ」

 ハルコが自分の手首を見ながら言った。

 手首には水色のブレスレット。

「僕は製造時に冷気を大量に閉じ込めている説派」

「でも、それって無限じゃなくない?」

「これが無限に持つなんて思ってないよ」

 僕は自分の指を見ながら言った。指には水色の指輪。

「えー。でも、インフィニティって無限でしょ?」

「まあ、かなり長い時間持つって意味ぐらいに思ってようよ」

 インフィリッジの所有者間で、この手の話題は挨拶と同じくらい行われていた。

 無限か有限か。冷気の源は何か。

 冷気の源は魔術なんていう突飛な説を支援している人も少なくない。

 宇宙説はまだ現実的な方だった。

「私のなんて、200万円もしたのに。無限じゃないなら訴えてやる」

「その大きさで200万円はかなりお得だね」

「らしいね。でも、高いよ」

 僕は指輪を見た。彼女のブレスレットの十分の一もないサイズだ。

 それでも、100万円以上した。

「それに、服も結構するからさー」

 ハルコは両手を広げた。

 真っ白のパーカーに黒い蝶が飛んでいるデザイン。

 下は黒のロングスカートに白の蝶が飛んでいるデザイン。

「まあ、僕の安物でも10万円近くしたからね」

 僕は自分の服を見下ろした。

 黒のパーカー。黒のスラックス。両方無地だ。

 僕の指輪型インフィリッジはパーカーの袖に一本のコードで繋がっている。

 パーカーとスラックスもコードで繋がっている。

 インフィリッジの冷気がパーカーとスラックスを通して僕を包んでいた。

「本日の気温は47度です。外出はお控えください」

 抑揚のない機械の声が言った。

 声の主は保健ドローンだった。

 ドローンは気温が40度を超える日に街中を飛び回っている。

 異常な高温の中を外出している国民の健康状態をチェックするのが仕事だ。

 僕たちは、公園のベンチのいた。

 ドローンは視界の端から、僕たちの方向へ飛んできている。

「47度だって」

 自分達に関係ないことのように言った。

 僕たちはお互い、パーカーのフードを被っていた。

 フードの下の顔は汗ひとつかいていない。

「健康状態をチェックします」

 僕たちの傍に来たドローンが言った。

 ドローンを見上げると、太陽光が顔に当たる。

 暑い。

 頭を下げて、顔をフードの影に隠す。

 ドローンの起こす風はフードの中にまで入ってきた。

 暑い。

「移動しようか」

「あっちコンビニあるよ」

 僕たちは歩き出した。

 パーカーはポケットの中にも冷気が行き届いている。

 二人とも両手をポケットに突っ込んで歩いた。

 品の良い姿ではなかったが、見咎める歩行者はいなかった。

「……ついてくるんだけど」

「おかしいな」

 自力で移動でき、体温にも問題はない。

 普段なら、そう判断してドローンはパトロールに戻るはずだった。

 ドローンのプロペラ音がパーカー越しの背後から聞こえ続ける。

「あと、なんか、めっちゃ暑いし」

 ドローンが起こす温風は、服の隙間から体を熱した。

「本当に47度? サウナくらい熱いんだけど」

 ハルコは右手を外に出した。スマホを握っている。画面を見て少し首を傾げた。

 画面が僕の方に向けられる。

 温度計アプリが起動していた。

「90度?」

 一瞬、アプリのバグかと思ったが、値が正しいことがわかる。

 ハルコのブレスレットが灰色に変色していく。

 インフィリッジは特定条件下であれば冷気を恒久的に放出し続ける。

 特定条件下というのが気温90度以下の場所での保管である。

 効力を失ったインフィリッジは水色から灰色に変わる。

「あ」

 ハルコが絶望したように声を漏らした。

「あつい……」

 ハルコの顔を覗き込むと汗をダラダラとかいていた。

 冷気の循環がなくなれば、47度の中を厚着で歩いていることになる。

 いや、47度ではなく90度か。

 僕はポケットの中で指輪を撫でた。ポケットの中は十分に涼しい。

「コンビニに急ごう」

 僕はそう言ったが走りはしなかった。この気温だと走る方が危険に思えた。

 コンビニに着く頃には、ハルコは真っ赤でずぶ濡れになっていた。

 ハルコをイートインスペースに座らせ、スポーツドリンクを買いに行く。

 ハルコの元に戻ると、パーカーを脱いでTシャツ姿になっていた。

「最悪……」

 スポーツドリンクを一気に飲み干してから、ハルコが呟く。

「あのさ、そのー……」

 励ましの言葉を探す。案外すぐに見つかった。

「国が高値で買い取ってくれるよ。かなり熱心に集めているみたいだし」

「……」

「200万で買ったって言ってたけど、1000万にはなると思うよ」

「……」

「投資が成功して、お金が5倍になったって考えたらさ……」

「……」

「……いいと思うんだけど……」

「……」

「……」

 僕たちは、着の身着のまま外出する権利を高額で買っていた。

 ふらっと外出できることにかなりの価値を見出していた。

 いくらになったとしても、売る気などはなかっただろう。

「まあ、しょうがないか。売ったお金で車でも買うわ」

 ハルコはあえて明るく言った。僕もその空元気に乗っかることにした。

「1000万円もあれば、かなり良い車買えるよ」

「1000万円ねえ。もう、そんな価値はないと思うけど」

 ハルコは灰色になったインフィリッジを見つめた。

 国はインフィリッジが無力化していても買い取る方針だった。

「元に戻す方法があるらしいよ」

「戻せるの? なら売らないでおこうかな」

「日本では無理らしいよ。海外でも生産国の一部だけが持ってる技術らしい」

「ふーん」

 ハルコは灰色のインフィリッジを名残惜しそうに見た。

「それにしても、なんで急に90度になんてなったんだろう?」

 アスファルトからの照り返しを考慮しても90度にはならない気がした。

 体感としては、ドローン自体が放熱して、それを送り込んできているようだった。

 しかし、保健ドローンの存在意義は国民の健康を守ることにある。

 酷暑の中、冷風を出すことはあっても、熱風を出すことはないはずだ。

「確かに、なんでだろう」

 疑問は解決しなかった。

 ハルコはタクシーを呼んで、家に帰った。

 僕は歩いて家に帰った。

 家に着くまでパーカーのポケットから手は出さなかった。

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