第40話

エレベーターが目的の五階に着くと、青司君は先に立って箱から降りて扉を押さえ、「どうぞー」って軽い口調で言いながら、私にも箱から降りるように促しました。促されるままに、私が箱からマンションの最上階の廊下に降り立つと、青司君は私の先に立って、エレベーターを出た廊下を左手に折れた一番奥、鉄線入りの大きなガラス窓の嵌まった、外に向かう非常口のある突き当たりの、その手前にある部屋のドアの前に立って、ダウンジャケットのポケットからもう一度、さっきの収納式のキーホルダーを出して、先程とは別の鍵を選り出すと、ドアの鍵を開け扉を開いて、少し離れて立っていた私に向かって、「立花サン、ようこそ我が家へー」って、執事の真似事みたいな身振りで、私に部屋の中に入るよう示しました。

お邪魔します、と、私が少し背を屈めながら中に入って、玄関のたたきで、学校指定の黒のローファーを脱いで上がり框に上がり、脱いだ靴を揃える間、青司君はずっと部屋の外の廊下に立って、ドアの取っ手に手を掛けて、扉を「『え』口」、…あ、半開き…って言うか、…例えば、お鍋におたまを入れたまま蓋をしたような状態のことを、祖母はそう呼んでいて、要するに、「中途半端に開いたままの状態」のことを、そういう風に表現するんですけれど、…ともかく、その「『え』口」の状態にしたまま、妙に緊張感を漂わせて、部屋の外を警戒している様子でした。私が無事上がり框に上がるのを横目で見届けてから、やっと玄関の中に入ってきましたけれど、怪訝な面持ちで自分の方を見ている私の様子に気が付いたらしく、「大丈夫、何でもないよー。…立花サン、靴揃えるなんて偉いよね。やっぱ『お育ち』かなあ…」って、何だか、何かを誤魔化すように言いながら、自分もスニーカーを脱いで上がり框に上がりました。

青司君が、帽子と上着を脱いで、玄関先のハンガーに掛けながら、「アネさーん、お客様一名様、無事ご案内だぜー」って、部屋の廊下の奥の、どうやら、リビングダイニングにでも続くらしい、擦りガラス…じゃなくて、何と言えば良いのか、表面に細かい波の入ったガラスの嵌まったドアの方に向かって呼ばわると、ドアの向こうからは間髪を入れずに「グテイ!何だお客人の前で!?うちは居酒屋じゃねえ!!」…っていう、何と言うか、ややのどかな雰囲気の青司君の口調とは対象的な、非常に威勢の良い、若い女性の声が返って来て、その、廊下の奥のドアが勢い良く開いたかと思うと、声の主と覚しきうら若い女性、…シャギーの入った黒髪セミロングに卵形の顔、やや切れ長の大きな眼、つんとした鼻に、幾分ぼってりした小振りの口元…っていう、少しばかり「ギャル入ってる」印象の、援助交際疑惑っていう「妄想」が生まれるのも宜なるかなと思われるような雰囲気を持つ、私と同学年は同学年ですけれど、少なくとも、当時の私よりはずっと大人びた容姿容貌の女の子が姿が現しました。

彼女が今さっき言ってた「グテイ」って、…「愚弟」のこと?…って、暫く考えた後でようやく思い当たって、その遠慮のないやり取りに少しばかり毒気を抜かれ、ひたすらぽかんと廊下に突っ立っている私の姿を認めると、その、見るからに海外スポーツブランドの品物と解るジャージの上下の彼女、…話題の河近紅麗さんは、青司君と良く似た感じの「にっ」という笑い方に、弟さんよりも、更に華やかさという要素を大幅に加味した、ちょうど今、大輪の花が開いたかのような笑顔を、惜し気もなく私の方に向けてきました。私の方はと言うと、…青司君が悪戯好きの小鬼…って言うよりむしろ妖精、例えば『テンペスト』のエアリアルなら、こちらは、プロスペローの娘ミランダみたいな、その妖精を使役する、血筋の良い、実力派のうら若き美貌の魔女だな…などと心の中で呟きながら、「…お邪魔します…」って軽く頭を下げてみせました。その時の自分の声は、初心者の鳴らす管楽器の音みたいに安定しない、我ながら情けない響きでしたし、無理矢理に浮かべたお愛想笑いも、きっと大幅に引き吊っていたとは思いますけれど。

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